イアンの特徴的なダンスについて、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』から、デボラの記述を拾ってみます。先ず、1974年12月の、イアンとデボラの婚約パーティーの時の記述です。出席者の1人の若い叔父と、デボラが楽しそうにダンスをしていたところ、嫉妬深いイアンが怒り、持っていたカクテルをデボラ目がけて掛けます。そうした気まずいいきさつがあった後で、パーティーのダンスに加わったイアンの様子が記されています。
次に、癲癇を発病した後、バンドが一気に有名になりはじめ、1979年1月に雑誌『NME』の表紙を飾った頃の記述を挙げます。
さらに、1979年の6月に1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』が発売された頃の記述です。
この、独特なイアンのダンスは、現在でもネット上に上がっている動画や、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』に収録されているライブ映像などから窺うことが出来ます。初めて見た人は、多かれ少なかれ異様な印象を受けるのではないでしょうか。実際のライブでは、想像以上に強烈だったでしょう。
評論家のジョン・サヴェージによる“Good Evening We're Joy Division”というタイトルで1994年に書かれた文章には、1979年8月に行われたステージでの様子が回想され、イアンのパフォーマンスについて次のように書かれています。
“死んだハエ”という譬えが印象的なのか、あちこちで引用されているのを見かけます。そして、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』では、イアンのダンスは、ジョイ・ディヴィジョンを特徴付ける重要な要素として印象付けられます。
イアンのダンス、ステージでのパフォーマンスを考えるうえで、発病前と発病後ではその意味は大きく異なるということを踏まえておきたいと思います。「持病について(2)」の記事でも書きましたが、発病後、ステージは彼にとってかなり困難なものとなりました。特に、ステージ上で発作が起こることを最も恐れ、そして、実際にそれが起こった直後に自殺未遂を起こしています。
初期の頃のパフォーマンスは、ステージでグラスを割って自身を傷つけたり、セットを壊したりといった激しさで、普段の物静かな様子とのギャップで周囲を驚かせましたが、それは、パンクの型にはまったものともいえます。しかしその頃から、恐らく、ある種独特の異様さがあったのではないかと思います。婚約パーティーの時のダンスが、社交の場のダンスとしては浮いていたように、パンクの型に収まりきらないものがあったのではないでしょうか。「トランスミッション」は、初期に書かれたものですが、イアンにとってのダンスとは何か、その考えが比較的論理的に示されています。一時の表面的な楽しみ、憂さ晴らしとかではなく、もっと深く、根源的なものを投影し、それを通じて触れ合おうという呼びかけです。病気を抱え、追いつめられていく中で、ステージでのダンスは、まさに命がけの、綱渡りのようなものとなっていきます。「どんな瞬間にも崖から飛び降り」、「自分の中の何かを観客に捧げ」るようなダンスが、「人間のシンボル」のように見えたのは、まさに極限状態の生命の燃焼のようなものが投影されていたからではないでしょうか。
イアンは楽しみの輪に加わろうとしたが、私とではなく一人で踊った。ぎこちなくねじれた彼の動きや、精彩なくじろじろ人を見ている不機嫌な表情は、多数のゲストを困惑させた。(第2章)
次に、癲癇を発病した後、バンドが一気に有名になりはじめ、1979年1月に雑誌『NME』の表紙を飾った頃の記述を挙げます。
イアンのダンスはオフステージの時の発作の悲惨なパロディのようになってしまった。目に見えない糸巻きを巻いているかのように腕を振り回し、足をぎこちなくピクつかせる姿は、無意識のうちにやる彼の動き(引用者注:癲癇の発作)とほぼ同じような印象を与えた。唯一違っていたのは頭の激しい振りだけだった。彼のダンスは意図的な演出といってもおかしくないほどだったが、四年前の私たちの婚約パーティーで見せた踊り方と似てなくもなかった。(第7章)
さらに、1979年の6月に1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』が発売された頃の記述です。
メディアから称賛を浴びていることも彼にとっては充分であるかと言えばそうでもないようだった。記事は次第にイアンの独特のダンスについてくどくど書かれるようになった。(第8章)
この、独特なイアンのダンスは、現在でもネット上に上がっている動画や、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』に収録されているライブ映像などから窺うことが出来ます。初めて見た人は、多かれ少なかれ異様な印象を受けるのではないでしょうか。実際のライブでは、想像以上に強烈だったでしょう。
評論家のジョン・サヴェージによる“Good Evening We're Joy Division”というタイトルで1994年に書かれた文章には、1979年8月に行われたステージでの様子が回想され、イアンのパフォーマンスについて次のように書かれています。
始まりでは、イアン・カーティスは静かだ。まるで永遠に我慢しているかのように。そして、あたかもスイッチが入れられたようにグループが楽器をブレイクさせると、その静寂さは突然暴力的な瞬間へと鋭い音をたてて砕けていくのだ。目の前で見せてくれるイタズラと言えば、彼がやっている“死んだハエ”踊りだろう。足と手が死んでいく虫のようにケイレンするのだ。しかし、事実彼はちゃんとコントロールされていた。手足が三半器管の中に飛び込み始め、催眠術にかかっているようなカーヴを描き出すと、もうしばらくの間、目は彼に釘付けだ。
そして君は気がつくだろう。彼は脱皮しようともがいているのだ、すべてのものから、永遠に、他の誰よりも必死にもがいているのだ、と。これは途方もないことだ。ほとんどパフォーマーたちはステージの上にいる時はほんの一部だけをさらけ出すだけで、案外控え目にするものだ。しかし、イアン・カーティスは何ひとつ隠してはいなかった。彼の後ろのミュージシャンたちと共に、どんな瞬間にも彼は崖から飛び降りていたのだ。(『ハート・アンド・ソウル』収録のライナー・ノート)
そして君は気がつくだろう。彼は脱皮しようともがいているのだ、すべてのものから、永遠に、他の誰よりも必死にもがいているのだ、と。これは途方もないことだ。ほとんどパフォーマーたちはステージの上にいる時はほんの一部だけをさらけ出すだけで、案外控え目にするものだ。しかし、イアン・カーティスは何ひとつ隠してはいなかった。彼の後ろのミュージシャンたちと共に、どんな瞬間にも彼は崖から飛び降りていたのだ。(『ハート・アンド・ソウル』収録のライナー・ノート)
“死んだハエ”という譬えが印象的なのか、あちこちで引用されているのを見かけます。そして、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』では、イアンのダンスは、ジョイ・ディヴィジョンを特徴付ける重要な要素として印象付けられます。
ステージに現れた彼は、シャイで静かで、やがてステージを支配する。内側に入っていくの。まるで巨大なボルトの電源にプラグが差し込まれたみたいに、あの収縮運動のようなけいれんが始まる。トランス状態で……人間のシンボルみたい。
ジェネシス・P・オリッジ(ミュージシャン)
錯乱状態に陥ったかのように震えだすと、どこまでいくのか、まるで操り人形だ。操り人形の動きの中に彼の脆弱性を感じた。パフォーマンス・アートで体を切り裂くのに似てる。彼は血こそ流さないが、自分の中の何かを観客に捧げたんだ。
ロブ・ディッキンソン(ライター、ジャーナリスト)
イアンのダンス、ステージでのパフォーマンスを考えるうえで、発病前と発病後ではその意味は大きく異なるということを踏まえておきたいと思います。「持病について(2)」の記事でも書きましたが、発病後、ステージは彼にとってかなり困難なものとなりました。特に、ステージ上で発作が起こることを最も恐れ、そして、実際にそれが起こった直後に自殺未遂を起こしています。
初期の頃のパフォーマンスは、ステージでグラスを割って自身を傷つけたり、セットを壊したりといった激しさで、普段の物静かな様子とのギャップで周囲を驚かせましたが、それは、パンクの型にはまったものともいえます。しかしその頃から、恐らく、ある種独特の異様さがあったのではないかと思います。婚約パーティーの時のダンスが、社交の場のダンスとしては浮いていたように、パンクの型に収まりきらないものがあったのではないでしょうか。「トランスミッション」は、初期に書かれたものですが、イアンにとってのダンスとは何か、その考えが比較的論理的に示されています。一時の表面的な楽しみ、憂さ晴らしとかではなく、もっと深く、根源的なものを投影し、それを通じて触れ合おうという呼びかけです。病気を抱え、追いつめられていく中で、ステージでのダンスは、まさに命がけの、綱渡りのようなものとなっていきます。「どんな瞬間にも崖から飛び降り」、「自分の中の何かを観客に捧げ」るようなダンスが、「人間のシンボル」のように見えたのは、まさに極限状態の生命の燃焼のようなものが投影されていたからではないでしょうか。
イアンのダンスは、あの張りのあるバリトンボイス、唯一無二の世界観を表した詞とと並んで、イアン自身、ひいてはジョイ・ディヴィジョンというバンドを理解する上で、最も重要な要素の一つだとも思われます。
シド・ヴィシャスが剃刀を使って自らに"FUCK"と刻んだのと同じで、自分のかけがえの無い一部を、よしんば全てを、観客に、バンドに、自分に、捧げようとした結果なのかもしれません。
今回もとても参考になる内容でした。
次回も楽しみです!!
長々と失礼いたしました。