愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

『シュトロツェクの不思議な旅』とイアン・カーティス(3)

2015-03-15 21:49:38 | 日記
 映画は、主人公ブルーノが刑務所から出所するところからはじまりますが、仲間たちから祝福されるなか、「行きたくない」と一言もらすのが、映画の結末を思うと、印象に残ります。刑務所を出て、トコトコと歩いていく姿は何となく可愛いらしく、見ていて不安な気持ちになります。「君の犯罪はすべてアルコールが原因だ。二度と酒は口にするな。今度戻ってきたら一生拘禁だ。」と看守に強く言われていたのに、まず向かったパブでビールを注文し、そこで昔からの知り合いらしき女性エーファに再会すると、早速トラブルに巻き込まれます。「人に軽蔑され大人になり、愛にあこがれた」とブルーノは映画の後半で語ります。エーファへの愛は、ブルーノにとっておそらく生涯で最も大きな喜びであったでしょう。と同時に破滅への原因ともなったわけです。この点は、イアンに重なってきます。
 このほか、細かい共通点を思いつくまま挙げてみます。
 まず、ブルーノがミュージシャンであること。出所する時の所持品の中にはアコーディオンがあり、アパートの部屋にはシャイツが管理してくれていたグランドピアノとおもちゃのアップライトピアノがあります。「黒い友人」と呼ぶグランドピアノを、いとおしそうに音を確かめながら弾いてから、ブルーノは街に出てアコーディオンの弾き語りをして、いくばくかの日銭をかせぎます。ピアノの他に大切にしていたのが、ペットの九官鳥で、これもシャイツが世話をしてくれていました。この九官鳥はアメリカに入国する際没収されてしまいます。「エーファ、ここはどういう国だ、ブルーノの九官鳥が没収された」と言うだけで、どうにもできません。ふと、イアンがかわいがっていた犬、キャンディと別れるようになったエピソードを思い出しました(「Candidate――イアン・カーティスの愛犬(2)」)で触れました。

 
 さて、前半のアメリカに発つ前のパートで最も印象深いのが、未熟児の新生児室の場面です。
知的障害のあるブルーノの世話をしているとおぼしき医者が、ブルーノを励まし、諭し、「未熟児室に行こう。君に見せたいものがある」と言います。そこにいる未熟児の一人が、医者が手を差し伸べると、大きな声で泣きながらしがみついてきます。医者は、「見てごらん、この未熟児を。そしてこの力強い反応を。いつの日かこの子は首相になるかもしれない」と言いながらやさしくその子を抱きます。その時、ブルーノの目にとまったのは、そのわきのベットで、チューブに繋がれ、何の反応も見せず、ほとんど瀕死の状態に見える赤ん坊でした。この未熟児室の場面は何を示唆しているのか、いろいろと考えさせられます。私には、ブルーノの存在の危うさであるようにも思えます。アメリカで暮らすという夢がブルーノにもたらしたものは破滅でした。もしエーファの愛を求めず、アメリカにも行かなければ、ささやかながら幸せな人生が得られたのかもしれません。しかし、前半のドイツのパートには、当時ヨーロッパを覆っていた閉塞感が漂っていて、遅かれ早かれブルーノは行き詰まってしまうのでは、とも思います。舞台がアメリカに移ると空気は一変し、広い道を延々と走る車から見える風景は開放的で、希望に満ちた未来という雰囲気を漂わせます。しかし、ブルーノはそこで、人生で最も大きな圧迫を受けることになります。

 アメリカに移った後半部で最も印象深いのは、ブルーノがエーファに自分の不安な心のたけを訴える場面です。今の自分の気持ちは「ドアや門が目の前でゆっくり閉ざされるときの気持ち」であるとブルーノは言います。「アメリカに来ればすべてが良くなってゴールに着けると思ったが違った。ブルーノは切り捨てられる。存在しないかのように。君も俺を他人扱いだ。俺がいた施設も同じような感じだった。ナチの時代だったから、寝小便したらロープを節約するために洗濯物はこうやって(筆者注:と手を広げます)持って、一日中立って乾かす。教師が後ろに棒を持って立ってる。ずっと立ち続けて疲れて、腕が下がったら棒で叩かれる。目に見える形でやられた。今はやり方が違ってる。巧妙にやる。巧妙な分もっと悪くなった。」

 私は、この映画は、イアンが影響を受けていたという作品と非常に通じ合うものであると思います。たとえば、「『Interzone』イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ(1)」の記事で、『裸のランチ』から、次のようなバロウズの記述を引用しました。

 麻薬ピラミッドは、あるレベルがその一つ下のレベルを食い物にするようになっていて、(麻薬取引の上のほうの人間がいつも太っていて、路上の中毒者がいつもガリガリなのは偶然ではない)それがてっぺんまで続いている。そのてっぺんも一人ではない。世界中の人びとを食い物にしているさまざまな麻薬ピラミッドがあるからで、そのすべてが独占の基本原理に基づいてたてられている。(略)麻薬は独占と憑依の原型だ。

 このバロウズの言葉を借りると、ブルーノはさしずめ、そのピラミッドの底辺にいる人物なのではないかと思います。共産主義国家(ソ連)を思わせる「併合国」でも、資本主義国家(アメリカ)を思わせる「フリーランド」でも、また、そのどちらにも属さない「インターゾーン」でも、弱い者が強い者によって支配され、搾取されるという構造は同じでした。これは『シュトロツェクの不思議な旅』にも見出されるように思います。そして、同じヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』にもまた、同じ構造が見出されるのではないかと思うのです。この映画は、16世紀にスペインから、アンデスにあるという伝説の黄金郷エルドラドを発見しようとやってきた探検隊の破滅を描いたものです(1972年公開で、ヘルツォークの代表作です。ヘルツォークが好きだったというイアンが見ていてもおかしくないと思います)。西洋植民地主義の闇を描いたジョセフ・コンラッドの『闇の奥』がもとになっているとされ、『闇の奥』もまたイアンの愛読書であると伝えられています。『闇の奥』はベルギー領コンゴで、原住民を支配し、搾取の限りを尽くした白人クルツの破滅が描かれています。この小説を原作とした映画『地獄の黙示録』(イアンは、アニック・オノレ宛の書簡で、『地獄の黙示録』を見て、スクリーンから目が離せなかったと書いています。『Torn Apart――The life of Ian Curtis』p193)は舞台をベトナム戦争に置き換えていますが、時代と舞台が変わっても、この三つの物語には共通して、権力にとりつかれた人間と虐げられる人々という構造が描かれています。そこには普遍的な人間存在の“闇”が示されているように思います。『アギーレ/神の怒り』でクラウス・キンスキーが演じた、暴力と搾取の果てに破滅した人物に虐げられた存在は原住民インディオでした。ブルーノが最終的に逃げ込んだのがネイティブ・アメリカンの居住区であったことと、つながっているような気がします。

 バーナード・サムナーは、アルバム『クローサー』について、ピーター・フックとスティーブン・モリスとの鼎談でこんなことを言っています。

 (『クローサー』には)ある男の生への葛藤を描いた物語がある。その男は、万物の構造に腐敗した何かがあるという恐ろしい発見と折り合いをつけ、歌が彼の人生を支配していることに気付き、また、鋭い自己認識と魅惑的な生命感を今一度炸裂させた後に、そして、自分が誰であるか、何を欲したかという感覚を十分に残していることを確認した後に、それ以上思い悩むことを決心するのだ。もう何に対しても。

 これは、イアンの死についての、バーナードの見解のある一面を語ったものだと思います。この「万物の構造に腐敗した何かがあるという恐ろしい発見」ですが、『シュトロツェクの不思議な旅』は、こうした構造と人間存在のどうしようもない不安を描いた作品の一つであると私は思います。そして、イアンが好んだということで読んでみたバロウズやバラードの作品にも共通して感じ取れたことでもあります。以前、『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――(7)の記事で、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』でデボラがこう記していると引用しました。

 彼はナチスドイツについて書かれた一組の本を買って帰ってきたが、主に読んでいたのはドストエフスキー、ニーチェ、ジャン・ポール・サルトル、ヘルマン・ヘッセ、J・G・バラード、J・ハートフィールドによる反ナチスの合成写真本“Photomontages of the Nazi period”、この本はヒトラーの理想の蔓延を生々しく証明したものだ。J・G・バラードの“Crash”は、交通事故の犠牲者の苦しみと性衝動を結びつけたものだ。イアンは空いた時間の全てを人間の苦難について読んだり考えたりすることに費やしているように感じられた。歌詞を書くためのインスピレーションを求めていたことは分かっていたが、それらは皆、精神的肉体的苦痛を伴う不健康な妄想の極みだった。

 イアンは作詞について、インンタビューで「潜在的な意識に従って書く傾向がある」と語っていますが(『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――(2)参照)、こうした作品に自分自身を浸して得られた意識下の感覚を詩にすることが、イアンにとっての創作姿勢だったのではないかと思います。観念的に、権力とか暴力に対する批判を表明するというのではなく、そういったものにコントロールされ、圧迫される人間存在のどうしようもない不安、実存的な不安の実感をそのまま表そうとしていたのではないでしょうか。『シュトロツェクの不思議な旅』は、イアンの作詞の源となるべきような作品で、この映画に自分自身を浸して、そこで意識下に生じた感覚をもとに書かれたイアンの詩が見ててみたかった、そんなことを考えました。