そこで注目したいのは、2連の「Worn like a mask of self-hate」です。「自己嫌悪(の仮面)を身にまとう」とは、どういう意味なのでしょうか。
自己を嫌悪しているようなふりをしている、とは、本当は自己嫌悪なんてしていない、ということになります。そして、続く「Confronts and then dies」の「Confronts (対立)」は、「自己嫌悪の仮面を被った自分とそうでない自分が『対立』している」ことのように読めます。だとすると、これは「Dead Souls」にある「A duel of personalities」=「(内なる)人格同士の闘い」と同じでしょう。
自己嫌悪を身にまとっている自分と対立するのはどんな人格なのでしょうか。それが、「Naked to see/Walking on air.」=「無防備なまま/浮かれている」自分なのではないかと思います。
「People like you find it easy」の「you」を「コントロール」は「君たち」と複数形で訳し、他の二つは「君」と訳しています。「君たち」とすると、特定の人物ではなく、世間一般の人々を指すニュアンスが強くなります。「多くの人々は『常に危険は存在する』という真実から目をそむけて浮かれている」、しかしそれは「自分はそうではない」ということではなく、「自分も含めて」そうだという自己批判なのではないでしょうか。
そこから「川や通りの中に何かを求めても/もはや意味がない」という無常感が導き出されるように思います。「コントロール」のパンフレットにあるように、これは思い切った意訳ですが、直訳すると前後とつながらず唐突な印象を与える「川のほとりでハンティングし/通りを過ぎて/どの角もすぐに見捨てられて行き」とは、無常を象徴する風景として解釈できそうです。
最後は「どうか行かないで」という呼びかけが再び繰り返されます。この呼びかけは、誰に向けてのものなのでしょうか。これは、日常に浮かされている自分を見捨てて去っていってしまう自分、つまり自分を見張って戒めてくれる「君」が去って行ってしまうことを食い止めようとする呼びかけのように思えます。
イアン・カーティスはファン雑誌のインタビューで、「詩はどう解釈されてもかまわない。いろんな意味にとれるしね。好きなように解釈すればいいのさ。」と語っていたと、デボラは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に書いています。
「イアン自身、いつも他の人の詩を読み解くのを楽しんできた。私たちはよくルー・リードの『パーフェクト・デイ』の最後の行の解釈を巡って議論したものだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)
確かに、「Atmosphere」は、いろいろと想像力を掻き立て、解釈について考えさせる詩だと思います。
ジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのドキュメンタリー映画「No Future」で、パンクが生まれた1970年代の後半、ヒットチャートにあふれていたラブソングや、形骸化したロックについて、「恐ろしく退屈だった」と言っています。
反骨精神を表すロックも、型にはまると反逆ではなくなります。型にはまった表現は人々の心に「何かを考えさせる」ということはありません。誰にでも同じような感じ方を、記号のようにわかりやすく伝達するのが型(パターン)です。ジョン・ライドンは、「君に伝えたい 愛してる ベイビー」という、パターン化されたヒットソングの言葉について、「くだらねえ。『君に伝えたい くたばりやがれ』他人の歌を歌うならねじまげるさ」と語っています。「言葉は俺の武器だ。暴力は得意じゃない。」というライドンの怒りの言葉、そして「俺たちの音楽は正直な音楽だ。この15年間で一番正直な音楽だ」という音楽に人々は熱狂しました。ピーター・フックは、1976年、マンチェスターで行われたセックス・ピストルズのギグを見たときのことを、「ショックだった。まるで車の事故だ。あんなバンドは初めて見た」と、ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で語っています(このセックス・ピストルズのギグを見た翌日、バーナード・サムナーとともにパンクバンドを結成します。これがジョイ・ディビジョンの始まりです)。しかし、そのパンクも、皆が同じようにスタイルを真似ると、表現は型にはまり、人の心を煽動する力は失われていきます。
ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、トニー・ウィルソンはこう語っています。
「パンクでは『くたばれ』と叫べる。だがそこから先へは進めず、毒のある短い怒りのフレーズを発するだけ。ロックの再燃には必要だったが、遅かれ早かれそれ以外の突っ込んだ表現が現れてしかるべきだった。それを最初にやったのがジョイ・ディヴィジョンだ。パンクのエネルギーと単純さを使って、複雑な感情を表現した」
ジョイ・ディヴィジョンの表現は「ポスト・パンク」を代表するものとして注目されます。イアン・カーティスの内省的な歌詞は、こうした背景のもとで、支持を得ていったようです。
この詩はとても抽象的ですが、彼の詩には、実生活に即した私小説のようなものもあります。代表的なのが「Love will tear us apart 」です。
自己を嫌悪しているようなふりをしている、とは、本当は自己嫌悪なんてしていない、ということになります。そして、続く「Confronts and then dies」の「Confronts (対立)」は、「自己嫌悪の仮面を被った自分とそうでない自分が『対立』している」ことのように読めます。だとすると、これは「Dead Souls」にある「A duel of personalities」=「(内なる)人格同士の闘い」と同じでしょう。
自己嫌悪を身にまとっている自分と対立するのはどんな人格なのでしょうか。それが、「Naked to see/Walking on air.」=「無防備なまま/浮かれている」自分なのではないかと思います。
「People like you find it easy」の「you」を「コントロール」は「君たち」と複数形で訳し、他の二つは「君」と訳しています。「君たち」とすると、特定の人物ではなく、世間一般の人々を指すニュアンスが強くなります。「多くの人々は『常に危険は存在する』という真実から目をそむけて浮かれている」、しかしそれは「自分はそうではない」ということではなく、「自分も含めて」そうだという自己批判なのではないでしょうか。
そこから「川や通りの中に何かを求めても/もはや意味がない」という無常感が導き出されるように思います。「コントロール」のパンフレットにあるように、これは思い切った意訳ですが、直訳すると前後とつながらず唐突な印象を与える「川のほとりでハンティングし/通りを過ぎて/どの角もすぐに見捨てられて行き」とは、無常を象徴する風景として解釈できそうです。
最後は「どうか行かないで」という呼びかけが再び繰り返されます。この呼びかけは、誰に向けてのものなのでしょうか。これは、日常に浮かされている自分を見捨てて去っていってしまう自分、つまり自分を見張って戒めてくれる「君」が去って行ってしまうことを食い止めようとする呼びかけのように思えます。
イアン・カーティスはファン雑誌のインタビューで、「詩はどう解釈されてもかまわない。いろんな意味にとれるしね。好きなように解釈すればいいのさ。」と語っていたと、デボラは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に書いています。
「イアン自身、いつも他の人の詩を読み解くのを楽しんできた。私たちはよくルー・リードの『パーフェクト・デイ』の最後の行の解釈を巡って議論したものだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)
確かに、「Atmosphere」は、いろいろと想像力を掻き立て、解釈について考えさせる詩だと思います。
ジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのドキュメンタリー映画「No Future」で、パンクが生まれた1970年代の後半、ヒットチャートにあふれていたラブソングや、形骸化したロックについて、「恐ろしく退屈だった」と言っています。
反骨精神を表すロックも、型にはまると反逆ではなくなります。型にはまった表現は人々の心に「何かを考えさせる」ということはありません。誰にでも同じような感じ方を、記号のようにわかりやすく伝達するのが型(パターン)です。ジョン・ライドンは、「君に伝えたい 愛してる ベイビー」という、パターン化されたヒットソングの言葉について、「くだらねえ。『君に伝えたい くたばりやがれ』他人の歌を歌うならねじまげるさ」と語っています。「言葉は俺の武器だ。暴力は得意じゃない。」というライドンの怒りの言葉、そして「俺たちの音楽は正直な音楽だ。この15年間で一番正直な音楽だ」という音楽に人々は熱狂しました。ピーター・フックは、1976年、マンチェスターで行われたセックス・ピストルズのギグを見たときのことを、「ショックだった。まるで車の事故だ。あんなバンドは初めて見た」と、ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で語っています(このセックス・ピストルズのギグを見た翌日、バーナード・サムナーとともにパンクバンドを結成します。これがジョイ・ディビジョンの始まりです)。しかし、そのパンクも、皆が同じようにスタイルを真似ると、表現は型にはまり、人の心を煽動する力は失われていきます。
ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、トニー・ウィルソンはこう語っています。
「パンクでは『くたばれ』と叫べる。だがそこから先へは進めず、毒のある短い怒りのフレーズを発するだけ。ロックの再燃には必要だったが、遅かれ早かれそれ以外の突っ込んだ表現が現れてしかるべきだった。それを最初にやったのがジョイ・ディヴィジョンだ。パンクのエネルギーと単純さを使って、複雑な感情を表現した」
ジョイ・ディヴィジョンの表現は「ポスト・パンク」を代表するものとして注目されます。イアン・カーティスの内省的な歌詞は、こうした背景のもとで、支持を得ていったようです。
この詩はとても抽象的ですが、彼の詩には、実生活に即した私小説のようなものもあります。代表的なのが「Love will tear us apart 」です。