コロナになってからもう一年半ミサに与っていない。
所属教会は遠いし、異動届けも出していないから
ミサには与れない。
所属教会信者限定ミサが多いし、教会に入れるかどうかもわからない。
このようなしたことは主ではないにしても、それをお許しになられたのは主だから。
いつになったらミサに与れる?
主の恵みは充分なのか?
自分がミサに与る主な理由は、煉獄の霊魂のためであること。
やはり、個人の祈りでは多くの霊魂に対して力が及ばない。
主のみ旨のままに。
コロナになってからもう一年半ミサに与っていない。
所属教会は遠いし、異動届けも出していないから
ミサには与れない。
所属教会信者限定ミサが多いし、教会に入れるかどうかもわからない。
このようなしたことは主ではないにしても、それをお許しになられたのは主だから。
いつになったらミサに与れる?
主の恵みは充分なのか?
自分がミサに与る主な理由は、煉獄の霊魂のためであること。
やはり、個人の祈りでは多くの霊魂に対して力が及ばない。
主のみ旨のままに。
今から数年前、みどりのスカプラリオの無料配布が縁で、一人の女性とメール交流をすることになった。
未信者であるその方に神様の事やマリア様の事、カトリックのことを多く伝えた。
その方は心が素直な方なので良く話を聞いてくれカトリック教会に勉強にいくまでになった。
そんな家庭の中で1つの相談をされたんだ。
旦那さんのDVのために離婚したいと思ってると。子供たちを守るためにと。
話をしている中で何故か、私は離婚をすすめていた。
自分が我に帰った時、何てことをしたんだろうと思った。
結局、その友は離婚することになる。
誰に責められる訳ではない。その友の選択に対して誰も何も言えるわけではないが、その友の子供達から父親を引き離してしまった事になったこと少しでも加担してしまった事に申し訳なく思っている。
だから、その友と子供たちのために祈っていくと決めている。
今日は、大聖ヨゼフ様の祝日ですね。
聖の前に大をつけるべき始めの人は聖ヨゼフ様以外にはいません。
天に置いても、マリア様を除くなら(原罪を持っていなくて産まれたので)聖ヨゼフ様がトップです。
私達と同じく原罪の重さに苦しんだのでしょう。
この御絵を見ると聖ヨゼフ様の人柄が伺えます。
常に、聖母と主の前に自分が出ることもなさらずに優しく見守っておられることを。
ただ、聖母と主がやすらかに過ごせるようにと願っていることを、
なんかほのぼのしますね。
世界中のお父さん達が聖ヨゼフ様のように自分の妻と子供を愛していたらどんなに素晴らしい世の中になっていたんだろうか?と想像してしまいます。
教会では、今はチャペルでやるなんちゃって結婚式もありますが、
神のみ前において、困難な時も幸せなときも互いに愛することを誓います。
それが、破られているから不幸な人が多いんです。
一生をかけてその人を守ると誓ったのではないですか?
ならば、出来なくても努力すべきです。
クリスチャンも、洗礼の時、悪魔とそのわざを捨てることを誓いました。
だから、日々、出来なくとも戦っています。
聖家族は、世の中に家族の模範を示しました。
その中で聖ヨゼフ様は、家長としての責任を果たしました。
もし、聖ヨゼフ様が聖徳の高い人でなければ、イエズス様の人類の救いの業は2つの理由により、なし得なかったのだという事を多くの人は知るべきだと思います。
大聖ヨゼフ様、
我らのために祈ってください。アーメン。
今日は聖ヨゼフ様の祝日です。
人生の中で、困難な時、悲しいとき、挫折した時、絶望した時に頼れる人いますか?
キリスト者なら、信頼できる司祭や霊的な兄弟姉妹がいますか?
もし、今、いると答えた人は本当に大切な賜物を主から頂いたのだと感謝すべきです。
自分は、正直に言うといません。
私の敬愛する妹たちですら、そうではありません。
人生の中で最も辛い時に寄り添って下さったのは、イエズス様(イエズス様の中には聖母マリアも含まれています)
それは、昔も今も変わりません。
それは、全ての神を愛するもの達にそう答えて欲しい願いでもあります。
自分も、神より私を信頼しているなんて口が裂けても言って欲しくありませんし、そのような言葉は信用しません。
私は、イエズス様だけ、イエズス様だけ、
という人間です。
まず、イエズス様なんです。
聖人の言葉だけを羅列しているようなブログよりも自分の思いを伝えたい。
聖人たちの受け売りの言葉の羅列よりも、
神様の愛を伝えたい。
自分には本当に信用できる人は皆無に近い。
人は知れば知るほど嫌いになり、
神は知れば知るほど好きになる、という言葉がある。
神は、隣人を愛せよ、という。
私はこう解釈する。
そりの合わない人、嫌いな人を愛するなんで出来ない。
でも、その人が困っている時にそばにいたなら、手を差しのべて助けてあげる、それが、主の言う隣人を愛せよ、と言う意味なんだと思う。
会社にも嫌いな人はいる、でも、一緒に仕事をしなくちゃならない。自分を押し殺して一緒に仕事をするのも隣人を愛せよ、ということを実行しているのかなと。
外国に援助するのも大切。
でも、国内にも貧困の人はいっぱいいます。
今は、コロナで職を失い、路上生活者になってしまった人も少なくない。
隣人とは、誰の事を差すんだろうかと。
カトリック者はカトリック者だけを助ければいいのかなって。
人を助けるためには3つの方法がある。
お金をあげる、
祈りを捧げる
犠牲を捧げる。
お金をあげる以外は、目に見えないものだから、
実際問題として現実的には助けてあげられないのかもしれない。
でも、お金持ちが天国に入る確率と乞食が天国に入る確率はどっちが高いか?
人生はそういうものです。
ベッドで寝たきりになっている病人。
社会的には何もしていないし、生産性はゼロ、むしろマイナス。
でも、神の目はそうではないんです。
神様が十字架に磔にされたのと同じように、ベッドに磔にされています。
主とともに人類の罪をあがなっているんです。
人類は、大地震がきても、コロナに感染しても
神により頼まない。
何でも人間の力で出来る、解決できると思っている。
神様に世界中が1つになってより頼むなら、一瞬のうちにコロナは終息するだろうに。
人間を作ったのは、神である。
だから、人間のあらゆる問題を解決出来るのは神なんだ。
だから、人間が解決出来ないものを神に解決してもらうように願わないことは、問題が解決出来ないのは当然なんだ。
過去にさまざまな問題があって、人間が解決したかのような問題は、実は神様の介入があったんだ。
私たちは、神の正義の前に救われることはない。
神のいつくしみに信頼する事によってのみ、人間は救われるのだと改めて思った。
聖母のとりなしにより、神様により頼むことが
人間が出来る一番よいいろいろな問題の解決方法
だと知るべきである。
ゴールデンウィークならぬ
がまん、ウィークですね。
やっと仕事が終わりました。
コロナ、コロナっていうけれど、
自分を含め、回りの人間は一切感染していないのですが?
一体、どうなっているんだと?
マスクして店では消毒液で手を消毒してくらいしかやってませんし。
何が一体違うんだと。
感染者と。
かかる気がしないんです。
何故か?って。
神様は自分を愛するものを守るって詩編51に書いてあるから。
だから、守って下さっているっていう単純な理由。
感染していたけど、抗体出来てるのか?
いずれにしても、会社が休みだからしばらく不眠で眠れなくても困らない事がうれしい。
もう、睡眠薬がないから😓