ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【6/11/2018鹿鳴荘便り 序】難波先生より

2018-06-14 10:14:05 | 難波紘二先生
高度400mのわが家では、すぐ裏手の陶芸家の庭に、ヤマボウシが咲き始めました。これはログハウスを仕事場としている陶芸家のアトリエと私の境界値の間に、地元の友人が植えてくれたものです。(写真1)
その前のログハウスは、社会人入学の文学研究科の大学院生が別荘として利用しています。

 残り一つのログハウスが今売りに出ています。バブルの頃に別荘として買った人が、いざ老境に入ってみると、ミニバブルのいまが売り頃だと判断したようです。
 ここは賀茂台地と世羅台地という大きな岩盤の上に載っており、仮に南海地震が発生しても安全です。そこで東京を脱出する人が増えています。

 大学図書館は一般に開放されており、立派な東広島市市立図書館もあります。
 花と葉は白く、4弁でドッグウッドに似ています。英語ではJapanese Dogwoodといいます。
(写真2)
ピンクの斑点は、バーバラ・マクリントックがノーベル医学生理学賞を受賞した「動く遺伝子(トランスポゾン)」によるものだと思います。将来は遺伝子による植物の分類も進むだろうと思います。
 書庫の西にはヤマモモの実が大きくなって来ました。
(写真3)

 まさか私の喜寿の誕生日に、しかも金婚式の年に「米朝首脳会談」が行われるとは思わなかった。これについては以下のNHK資料がいちばん詳しい。(NHKも受信契約率の低下のため、契約者にはネットで詳しい情報サービスを始めたようだ。)

 考えてみれば昭和16年、私が生まれて6ヶ月後に「太平洋戦争」が始まり、原爆で(1.5キロの地点にあった)生家が全焼し、父祖の郷里である大田舎に引き上げたのだった。焼ける前に母の姉を頼って、当時、広島一中(現国泰寺高校)の2年生だった10歳ちがいの兄と父は翌日広島市内に入っているので、被爆者手帳を持っていた。聴覚は鋭い方だから当時の「戦時歌謡」愛国行進曲は今でも歌える。父は小学理科の教師で、真空管式ラジオを自作していた。
 小学生の頃は私も少年雑誌の付録にあった「鉱石ラジオ」を自作して遊んだことがある。
 没落した士族の家柄で、今で7代目になる。田圃は農地解放でおおかた取り上げられた。
 という5つの話題を取り上げました。
 結局、長兄は英文科に進み、私が医学部、すぐ下の弟が工学部に進み、末弟が京大の理学部に進んだ。(これは自叙伝の一部として書いている。)


体調が回復したので、この間書きためていた原稿をまとめてお送りします。この間の「買いたい新書」の書評はこちらをご覧下さい。
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E8%B2%B7%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%84%E6%96%B0%E6%9B%B8&aq=f&aqi=g-s1&aql=&oq=&gs_rfai=&gws_rd=ssl
スマホで読めるようになったので、アクセス数が1,000万件を超しました。

日朝首脳会談に関する本も取り上げています。
腎移植に関する、人口あたり先進県である愛媛県の実情はこんな段階に留まっています。まことに残念です。
早く保険診療として承認して欲しいものです
https://www.ehime-np.co.jp/article/news201806120041?utm_source=online_daily&utm_medium=referral&utm_campaign=ranking

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