【慰安婦問題3】
4/24のメルマガ「2.韓国の心性」で、4/20「朝鮮日報」を引用した。
<朝鮮王朝時代において、郡守や観察使などの地方官は司法権と行政権を併せ持つ存在で、明確な法の規定なしに人民を拘束したり、刑罰を加えたりすることができた。>
以下はその際の私のコメント:
<朝鮮は日清戦争の結果、清国から独立でき「大韓帝国」となった。しかし日本留学経験者が主体となった改革派政府(「甲午改革」)は、わずか1年で崩壊し李朝時代の制度が復活した。残酷な刑罰の廃止や近代的刑法と民法の制定と司法の独立は1910年の日韓併合後に初めて実施された。竹による「鞭打ち刑」の廃止は1920年である。
対馬の仏像盗難事件に見るように、韓国は国際的な法意識がある国ではない。日本的なものを全否定した結果、近代的な法思想も客観的な歴史認識も、国際法を遵守する倫理もすべて捨てた。その結果、「大韓帝国」いいかえれば「李氏朝鮮」の伝統に回帰した。
朝鮮には宦官の制度があり、宦官と美女を毎年何百人も中国の皇帝に献上する伝統があった。元の時代に始まり、後続の明、清王朝にもおこなっていた。貢納する美女は良家の子女を拉致する「強制連行」によって集められた。
朝鮮にはそういう歴史があるので、韓国人には日本もそれを要求したに違いないという思い込みがあり、それが「慰安婦問題」の原点だと豊田有恒はいう。
豊田有恒「本当は怖い韓国の歴史」祥伝社新書, 2012
「挺身隊」というと日本語では勤労奉仕の民間人や学生のことだが、朝鮮語では「軍相手の売春婦」のことだそうだ。慰安婦問題を追及している韓国の団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」と称しているそうだ。すすんで日本軍の慰安婦になるものが自国にいた、という歴史的事実を恥ずかしくて直視できず、「日本軍による強制」というフィクションが生まれたものだと豊田はいう。
豊田のこの記述はソウル大学教授李榮薫(イ・ヨンフン)の記述でも裏づけられる。
李榮薫「大韓民国の物語」(文藝春秋, 2009)
李によると1960年頃までは「挺身隊」と「慰安婦」はまったく別ものだという認識が韓国にあったが、1969年、金廷漢の小説「修羅道」が女子挺身隊=日本兵の慰安婦というフィクションを作りあげ、ここから記憶の変容が始まり、ついに1997年に至って国定教科書にも「挺身隊=慰安婦」とする記述が登場したという。
朝鮮戦争当時、慰安婦は韓国軍にも米軍にもあり、韓国政府は「慰安婦」という言葉を公式呼称としていたという。韓国陸軍は慰安所のことを「特殊慰安隊」と呼んでいる。この事実を隠蔽するために、日本がらみの場合は「挺身隊」とか「性奴隷」と呼ぶのだそうだ。
1636年に中国に清王朝が立った。その時、李氏朝鮮は情勢を読み誤り、衰亡する明に肩入れしていた。1637年清の軍勢が朝鮮に侵攻し、ソウルが占領され国王は土下座して清への臣従を誓い、かろうじて生命を許され、「清の属国になる」という屈辱的な講和を結ばされた。
その時の講和条約の中に、「美女と宦官の貢納」が入っているのだが、韓国の学者も朝鮮名の日本の学者も、この事件そのものを書こうとしない。朝鮮では歴史を客観的資料に基づいて記述するという姿勢がきわめて乏しいし、一次史料もほとんど残されていない。中国や日本の史料、外国人の旅行記などに頼るしかない。
宦官と宮女については、
ダレ神父「朝鮮事情」(東洋文庫, 1979)
宮脇淳子「真実の中国史」(李白社, 2011)に、
200人規模の李氏朝鮮「朝貢使節団」の北京訪問については、
マッケンジー「朝鮮の悲劇」(東洋文庫, 1972)
に書かれている。>
5/22メルマガ「慰安婦問題2」で「産経」の連載「歴史戦第2部:慰安婦問題の原点」が始まったことを論じた。どうやら「歴史戦」の意味は「朝日史観」との戦いのことらしい。連載は以下で読める。
第1回前半「河野談話ヒアリング対象者に虚偽証言者 「奴隷狩り」吉田氏、「従軍」広めた千田氏」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052007580006-n1.htm
第1回後半「軍医論文ヒントに「完全な創作」世界に増殖 誤りに謝罪しながら訂正せず」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052016300015-n1.htm
第2回前半<講義で「日本の蛮行」訴える韓国映画上映 広島大准教授の一方的「性奴隷」主張に学生から批判」>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140521/plc14052108180007-n1.htm
この記事について5/24「産経抄」は広島大に電話したら「事実関係を調査中」とのんびりした返事があった、と書いている。「広島大+慰安婦」でネット検索すると約36万件がヒットした。のんびりしていると「広島大、炎上」となりそうだ。5/25月曜日に広島大が発表すると聞いたが、まだのようだ。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html
大学がもたもたしているうちに、ここに書かれてしまった。
http://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-11857089460.html
第2回後半、<「吉田証言」重用でウソ拡散、いつの間にか内容を否定していた朝日>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140521/plc14052114070012-n1.htm
第3回前半<元朝日ソウル特派員「日本人が無理やり娘をさらったら暴動が起きましたよ」>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140523/plc14052308320007-n1.htm
第3回後半<当事者も否定した「日本軍連行」報道、日本外交歪めた元朝日記者、今も沈黙>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140523/plc14052313490023-n2.htm
第4回前半<北朝鮮が仕掛けた「20万人性奴隷」 「親北」公言する韓国の反日団体>
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140524/kor14052409570006-n1.htm
第4回後半<後ろ盾ソ連崩壊 「慰安婦問題」に傾倒 朝日報道と呼応 北が世論工作>
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140524/kor14052411120007-n1.htm
第5回前半<「日本だけが悪」 周到な演出…平成4年「アジア連帯会議」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140525/plc14052510540009-n1.htm
第5回後半<火付け、たきつけた日本人たち>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140525/plc14052512590010-n1.htm
以上で「歴史戦第2部:慰安婦問題の原点」が終了した。
上記の李榮薫「大韓民国の物語」によると、
1960年頃までは「挺身隊」と「慰安婦」はまったく別ものだという認識が韓国にあったが、1969年、金廷漢の小説「修羅道」が女子挺身隊=日本兵の慰安婦というフィクションを作りあげ、ここから記憶の変容が始まり、ついに1997年に至って国定教科書にも「挺身隊=慰安婦」とする記述が登場した、
という。1970年から今日まで、約40年間のブランクを産経は事実関係をたどることで埋めようとしている。
キーになる情報発信者は次のようだ。
1.強制連行があったとする立場:
中央大の吉見義明教授の2書は欠かせない。
『従軍慰安婦』(岩波新書, 1995)
『日本軍<従軍慰安婦>制度とは何か』(岩波ブックレット, 2010)
これは学者による書だが、吉見氏は資料の扱いがずさんで読み違い、写真の誤用などが多い。記述にも推論が多い。
千田夏光『従軍慰安婦 正編』(三一新書, 1978)
吉田清治『私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行』(三一書房, 1983)
吉田は詐欺師、千田は元「毎日」記者の作家で、どちらも中身はフィクション(小説)である。売るために本を書いた人たちだ。千田が根拠なく書いた「従軍慰安婦の総数は8~10万人で、大半が朝鮮人」という記述がひとり歩きした結果、いま韓国では「強制連行された韓国人従軍慰安婦は20~30万人」ということにされている。
「産経」連載によると、発端は
麻生徹男という軍医が1938年1月に上海の慰安婦約100人を検診した結果を翌年6月に「花柳病の積極的予防法」という論文を発表し、その中で、朝鮮半島出身のものには内地の日本人に比べて、花柳病の疑いがあるものが少ないが、これは日本人慰安婦より若年者が多いことと関係しているのだろう。と述べたという。
「花柳病」というのは性病の雅号だ。ペンネームと同じ。「産経」は麻生軍医を「少尉」としているが、間違いないか。旧軍の医師の任官は中尉から始まるのが普通だが。
麻生徹男についてもWIKIに項目があり。詳しく説明がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%BE%B9%E7%94%B7
麻生報告により、軍が「朝鮮半島を理想的慰安婦の草刈り場」として認識したというのが千田の妄想だ。存命中の千田に麻生の娘が手紙を書いたところ、謝罪文が届いたそうだ。しかし千田は著書を訂正することなく亡くなった。
千田夏光(本名=千田貞晴:1920~2000)について、日本語WIKIに項目が立っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E5%A4%8F%E5%85%89
曾祖父の千田貞暁(さだあき)は広島県令(知事)として広島市の千田公園、千田町などに名を残している。曾孫は「従軍慰安婦」という言葉を造語して、歴史に名を残した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%9A%81
千田は、1970/8/14の「ソウル新聞」記事、
<1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5~7万人と推算されている>
を誤読して、1978年の上記書のなかで、
「『挺身隊』の名の元に彼女らは集められた。…総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち、『慰安婦』にさせられたのは5万人ないし7万人とされている」
と書いた、とWIKI記事は指摘している。
上記の李榮薫「大韓民国の物語」は、1969年の金廷漢の小説「修羅道」が挺身隊を「慰安婦隊」と混同したのが始まりという。ここから韓国側に「挺身隊=慰安婦隊」という誤伝が広まり、日本の不勉強な左翼にも伝わったものだろう。
「日韓基本条約」が韓国朴正煕大統領との間に結ばれたのが1965年で、この時には「慰安婦問題」はなかった。その後、日韓双方ともに戦前戦中のことを正確に知る人が減って行った。そこで、「挺身隊=慰安婦隊」という誤解が生じた理由も肯ける。特に韓国はその後「漢字全廃」をやったから、漢字からの意味が取れず、「音解釈」になる。「あんどん」という音を聴いて、「行灯」と書ける日本人がいまどれだけいるだろう。「行灯」という漢字を見て、実物を見たことがないと、「行路灯」つまり「街路の夜間照明」をイメージするのではないか。
「今も沈黙、元朝日記者」は「産経」記事には植村隆と実名が載っている。WIKIには詳細がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E9%9A%86
彼は韓国特派員時代の1991/8/11「朝日」に、名乗り出た元「慰安婦」第1号金学順に関する記事を、大々的に署名入りで書いた。彼の韓国人妻の母が会長だった「太平洋戦争犠牲者遺族会」が支援して「元慰安婦」金学順が日本政府を訴えたのが、同年の12月だ。まさか縁故記事ではなかろうが、韓国人の心性からするとそういう圧力があっても不思議でない。(金学順は親に身売りされたので、「挺身隊」ではなかった。)
この記事で植村は「日中戦争や第二次大戦の際、<女子挺(てい)身隊>の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた<朝鮮人従軍慰安婦>」と書いているから、義母から聞いた韓国での「挺身隊=慰安婦隊」という認識と「強制連行」という誤解を、日本に輸出したのは事実だろう。
「挺身」という言葉には「身を捧げる」という意味があり、「中国への官女貢納」という歴史的伝統があった韓国で、「女子挺身=慰安婦強制連行」と誤解されたのは容易に理解できる。だが、それを糺すのがジャーナリストというものだ。
1991/12の「慰安婦提訴」に合わせて、中央大の吉見義明教授は慰安婦問題の調査を始め、クリスマス頃に「防衛庁防衛研究所図書館」で「軍慰安所従業婦など募集に関する件」という文書を発見し、朝日にリークして翌年1月11日の「慰安婦に軍の関与示す証拠発見」という大スクープ記事になった。
訪韓を目前にした宮澤内閣は立ち往生し、「河野談話」の発表となった。文書発見は事実だが、その内容は「軍の名前を騙って不当不法に慰安婦を募集する民間業者がいるから注意せよ」というもので、吉見のいうこととも朝日の報道ともちがっている。
吉見はこういうレトリックを使う人物だ。
「自由意思による(慰安婦の)応募者はいたか」という項で「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ」と論じている。〔吉見義明「従軍慰安婦」(岩波新書, 1995), p.102-103〕
こんな理屈が成り立つなら、いま国外に7万人いるといわれる韓国人売春婦も「悪政、日帝、貧困、失業など何らかの強制の結果です」といえるだろう。
山際澄夫「すべては朝日新聞から始まった<慰安婦問題>」の書評
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1398669634
を書いたときは、「意図、善にして結果、悪となる」こともある複雑系での現象の1例と考えていたが、「産経」の連載記事によると、吉見義明教授、若宮啓文元朝日主筆、植村隆元朝日記者はインタビューに応じなかったそうだ。「意図的に書いた」からだろうか。
1973年10月、第一次オイルショックの時に「トイレット・ペーパーと洗剤がなくなる」という流言が日本中に拡散し、大騒動になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E9%A8%92%E5%8B%95
あれは千里ニュータウンのスーパーのちらしの宣伝文句が発端だ。
「従軍慰安婦」問題についていうと、
1969年の金廷漢の小説「修羅道」が挺身隊=慰安婦という虚構をつくった。
同じ年、日本では伊藤桂一「兵士たちの陸軍史」(番町書房、現新潮文庫,p.239-258)が「慰安婦」について「募集に応じた」ものと書いている。
1970年の「ソウル新聞」が「女子挺身隊の総数20万人、うち朝鮮人が5~7万人」と書き、1972年には、山崎朋子「サンダカン八番娼舘」(筑摩書房)が出て、海外日本人売春婦「からゆきさん」の存在が知られるようになった。
1978年になると、千田夏光が「従軍慰安婦」で、「挺身隊の名の下に20万人の朝鮮人が集められ、うち5~7万人が慰安婦にされた」と書いた。
女性史研究家の森崎和江は、
1980年、「からゆきさん」(朝日文庫,p.21)で、「性をひさいだ戦地の慰安婦」と書いており、「慰安婦」という言葉が日本でも知られるようになったことがわかる。九州天草の生まれで16歳の時に、朝鮮人に売られた「おキミ」は1901年に開始された朝鮮縦断鉄道の工事に従事する朝鮮人相手の「飯場娼楼」の慰安婦にされた。おキミは四、五人の朝鮮人に集団で朝まで買われ、「日本人への憎悪」の対象となった。男たちは取り囲んで女に酒を飲ませ、「堪えきれずおしっこを洩らすのを、笑って眺めていた」(p.122)とある。
1983年、吉田清治「私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行」(三一書房)が出て、「朝日」が彼のことを大きく報じた。吉田の話が完全なフィクションであったことは、後に秦郁彦「慰安婦と戦場の性」(新潮選書,1999)が詳しく書いている。
これ以後1991年までの風評拡大についてはよくわからない。
ほぼ10年後の1991年「朝日」ソウル支局から植村隆記者が「朝鮮人従軍慰安婦」の記事を日本に送った。年末に「被害者金学順」が名乗り出て裁判を起こし、中央大吉見義明教授が「軍通達」を誤読し、朝日にコピーを渡した。
1992/1に「朝日」の大キャンペーンが宮澤首相の訪韓直前に行われ、「河野談話」につながった。これが「一犬虚に吠ゆれば、万犬実に吠える」現象にも似た、「慰安婦強制連行」という「慰安婦騒動」の経時的な、およその形成過程である。
「慰安婦強制連行」の神話性があきらかになった今、日韓共に流言の発端と拡散のルートを実証的に検証する必要があろう。ネィチャーでさえ小保方の「STAP論文」は無料ダウンロード可能とした。「朝日」は「産経」の「歴史戦」を受けて立ち、自社の「報道検証」を行い、登録なしで読める「反論記事」を公表すべきだろう。
「西山事件」で「毎日」は一度倒産した。「朝日」も過去の遺産にあぐらをかいていると、部数を減らして経営が危なくなる可能性があろう。部数100万部程度に減少しても、「朝日」的な意見が存在することが大事だと思う。ネットでの朝日の悪口は読むに耐えない。
明治の初め、維新政府の国書受け取りを拒否した李氏朝鮮は1876年の江華島条約で開国したにも関わらず、「朝鮮人女性による日本人との交情」に死罪を適用した。
1877(明治10)年、朝鮮が大飢饉で餓死者が出たが政府は無能だった。飢えた若い女が釜山倭館に夜になると食を求めて忍んできた。
この女たちは捕らえられ、「荒縄で身体をくくられ、刑場に横たえられ木の枕を首後に起き、長い鉈状の刃物を首にあて、木槌で刃の嶺を叩いて、首を落とされた」。(森崎和江「からゆきさん」p.105)
当時「国賊」だった慰安婦は、いまや「国家英雄」に祭り上げられている。朝鮮史の何たる皮肉か…
4/24のメルマガ「2.韓国の心性」で、4/20「朝鮮日報」を引用した。
<朝鮮王朝時代において、郡守や観察使などの地方官は司法権と行政権を併せ持つ存在で、明確な法の規定なしに人民を拘束したり、刑罰を加えたりすることができた。>
以下はその際の私のコメント:
<朝鮮は日清戦争の結果、清国から独立でき「大韓帝国」となった。しかし日本留学経験者が主体となった改革派政府(「甲午改革」)は、わずか1年で崩壊し李朝時代の制度が復活した。残酷な刑罰の廃止や近代的刑法と民法の制定と司法の独立は1910年の日韓併合後に初めて実施された。竹による「鞭打ち刑」の廃止は1920年である。
対馬の仏像盗難事件に見るように、韓国は国際的な法意識がある国ではない。日本的なものを全否定した結果、近代的な法思想も客観的な歴史認識も、国際法を遵守する倫理もすべて捨てた。その結果、「大韓帝国」いいかえれば「李氏朝鮮」の伝統に回帰した。
朝鮮には宦官の制度があり、宦官と美女を毎年何百人も中国の皇帝に献上する伝統があった。元の時代に始まり、後続の明、清王朝にもおこなっていた。貢納する美女は良家の子女を拉致する「強制連行」によって集められた。
朝鮮にはそういう歴史があるので、韓国人には日本もそれを要求したに違いないという思い込みがあり、それが「慰安婦問題」の原点だと豊田有恒はいう。
豊田有恒「本当は怖い韓国の歴史」祥伝社新書, 2012
「挺身隊」というと日本語では勤労奉仕の民間人や学生のことだが、朝鮮語では「軍相手の売春婦」のことだそうだ。慰安婦問題を追及している韓国の団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」と称しているそうだ。すすんで日本軍の慰安婦になるものが自国にいた、という歴史的事実を恥ずかしくて直視できず、「日本軍による強制」というフィクションが生まれたものだと豊田はいう。
豊田のこの記述はソウル大学教授李榮薫(イ・ヨンフン)の記述でも裏づけられる。
李榮薫「大韓民国の物語」(文藝春秋, 2009)
李によると1960年頃までは「挺身隊」と「慰安婦」はまったく別ものだという認識が韓国にあったが、1969年、金廷漢の小説「修羅道」が女子挺身隊=日本兵の慰安婦というフィクションを作りあげ、ここから記憶の変容が始まり、ついに1997年に至って国定教科書にも「挺身隊=慰安婦」とする記述が登場したという。
朝鮮戦争当時、慰安婦は韓国軍にも米軍にもあり、韓国政府は「慰安婦」という言葉を公式呼称としていたという。韓国陸軍は慰安所のことを「特殊慰安隊」と呼んでいる。この事実を隠蔽するために、日本がらみの場合は「挺身隊」とか「性奴隷」と呼ぶのだそうだ。
1636年に中国に清王朝が立った。その時、李氏朝鮮は情勢を読み誤り、衰亡する明に肩入れしていた。1637年清の軍勢が朝鮮に侵攻し、ソウルが占領され国王は土下座して清への臣従を誓い、かろうじて生命を許され、「清の属国になる」という屈辱的な講和を結ばされた。
その時の講和条約の中に、「美女と宦官の貢納」が入っているのだが、韓国の学者も朝鮮名の日本の学者も、この事件そのものを書こうとしない。朝鮮では歴史を客観的資料に基づいて記述するという姿勢がきわめて乏しいし、一次史料もほとんど残されていない。中国や日本の史料、外国人の旅行記などに頼るしかない。
宦官と宮女については、
ダレ神父「朝鮮事情」(東洋文庫, 1979)
宮脇淳子「真実の中国史」(李白社, 2011)に、
200人規模の李氏朝鮮「朝貢使節団」の北京訪問については、
マッケンジー「朝鮮の悲劇」(東洋文庫, 1972)
に書かれている。>
5/22メルマガ「慰安婦問題2」で「産経」の連載「歴史戦第2部:慰安婦問題の原点」が始まったことを論じた。どうやら「歴史戦」の意味は「朝日史観」との戦いのことらしい。連載は以下で読める。
第1回前半「河野談話ヒアリング対象者に虚偽証言者 「奴隷狩り」吉田氏、「従軍」広めた千田氏」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052007580006-n1.htm
第1回後半「軍医論文ヒントに「完全な創作」世界に増殖 誤りに謝罪しながら訂正せず」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140520/plc14052016300015-n1.htm
第2回前半<講義で「日本の蛮行」訴える韓国映画上映 広島大准教授の一方的「性奴隷」主張に学生から批判」>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140521/plc14052108180007-n1.htm
この記事について5/24「産経抄」は広島大に電話したら「事実関係を調査中」とのんびりした返事があった、と書いている。「広島大+慰安婦」でネット検索すると約36万件がヒットした。のんびりしていると「広島大、炎上」となりそうだ。5/25月曜日に広島大が発表すると聞いたが、まだのようだ。
http://www.hiroshima-u.ac.jp/index-j.html
大学がもたもたしているうちに、ここに書かれてしまった。
http://ameblo.jp/fuuko-protector/entry-11857089460.html
第2回後半、<「吉田証言」重用でウソ拡散、いつの間にか内容を否定していた朝日>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140521/plc14052114070012-n1.htm
第3回前半<元朝日ソウル特派員「日本人が無理やり娘をさらったら暴動が起きましたよ」>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140523/plc14052308320007-n1.htm
第3回後半<当事者も否定した「日本軍連行」報道、日本外交歪めた元朝日記者、今も沈黙>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140523/plc14052313490023-n2.htm
第4回前半<北朝鮮が仕掛けた「20万人性奴隷」 「親北」公言する韓国の反日団体>
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140524/kor14052409570006-n1.htm
第4回後半<後ろ盾ソ連崩壊 「慰安婦問題」に傾倒 朝日報道と呼応 北が世論工作>
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140524/kor14052411120007-n1.htm
第5回前半<「日本だけが悪」 周到な演出…平成4年「アジア連帯会議」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140525/plc14052510540009-n1.htm
第5回後半<火付け、たきつけた日本人たち>
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140525/plc14052512590010-n1.htm
以上で「歴史戦第2部:慰安婦問題の原点」が終了した。
上記の李榮薫「大韓民国の物語」によると、
1960年頃までは「挺身隊」と「慰安婦」はまったく別ものだという認識が韓国にあったが、1969年、金廷漢の小説「修羅道」が女子挺身隊=日本兵の慰安婦というフィクションを作りあげ、ここから記憶の変容が始まり、ついに1997年に至って国定教科書にも「挺身隊=慰安婦」とする記述が登場した、
という。1970年から今日まで、約40年間のブランクを産経は事実関係をたどることで埋めようとしている。
キーになる情報発信者は次のようだ。
1.強制連行があったとする立場:
中央大の吉見義明教授の2書は欠かせない。
『従軍慰安婦』(岩波新書, 1995)
『日本軍<従軍慰安婦>制度とは何か』(岩波ブックレット, 2010)
これは学者による書だが、吉見氏は資料の扱いがずさんで読み違い、写真の誤用などが多い。記述にも推論が多い。
千田夏光『従軍慰安婦 正編』(三一新書, 1978)
吉田清治『私の戦争犯罪:朝鮮人強制連行』(三一書房, 1983)
吉田は詐欺師、千田は元「毎日」記者の作家で、どちらも中身はフィクション(小説)である。売るために本を書いた人たちだ。千田が根拠なく書いた「従軍慰安婦の総数は8~10万人で、大半が朝鮮人」という記述がひとり歩きした結果、いま韓国では「強制連行された韓国人従軍慰安婦は20~30万人」ということにされている。
「産経」連載によると、発端は
麻生徹男という軍医が1938年1月に上海の慰安婦約100人を検診した結果を翌年6月に「花柳病の積極的予防法」という論文を発表し、その中で、朝鮮半島出身のものには内地の日本人に比べて、花柳病の疑いがあるものが少ないが、これは日本人慰安婦より若年者が多いことと関係しているのだろう。と述べたという。
「花柳病」というのは性病の雅号だ。ペンネームと同じ。「産経」は麻生軍医を「少尉」としているが、間違いないか。旧軍の医師の任官は中尉から始まるのが普通だが。
麻生徹男についてもWIKIに項目があり。詳しく説明がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%BE%B9%E7%94%B7
麻生報告により、軍が「朝鮮半島を理想的慰安婦の草刈り場」として認識したというのが千田の妄想だ。存命中の千田に麻生の娘が手紙を書いたところ、謝罪文が届いたそうだ。しかし千田は著書を訂正することなく亡くなった。
千田夏光(本名=千田貞晴:1920~2000)について、日本語WIKIに項目が立っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E5%A4%8F%E5%85%89
曾祖父の千田貞暁(さだあき)は広島県令(知事)として広島市の千田公園、千田町などに名を残している。曾孫は「従軍慰安婦」という言葉を造語して、歴史に名を残した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E8%B2%9E%E6%9A%81
千田は、1970/8/14の「ソウル新聞」記事、
<1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5~7万人と推算されている>
を誤読して、1978年の上記書のなかで、
「『挺身隊』の名の元に彼女らは集められた。…総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち、『慰安婦』にさせられたのは5万人ないし7万人とされている」
と書いた、とWIKI記事は指摘している。
上記の李榮薫「大韓民国の物語」は、1969年の金廷漢の小説「修羅道」が挺身隊を「慰安婦隊」と混同したのが始まりという。ここから韓国側に「挺身隊=慰安婦隊」という誤伝が広まり、日本の不勉強な左翼にも伝わったものだろう。
「日韓基本条約」が韓国朴正煕大統領との間に結ばれたのが1965年で、この時には「慰安婦問題」はなかった。その後、日韓双方ともに戦前戦中のことを正確に知る人が減って行った。そこで、「挺身隊=慰安婦隊」という誤解が生じた理由も肯ける。特に韓国はその後「漢字全廃」をやったから、漢字からの意味が取れず、「音解釈」になる。「あんどん」という音を聴いて、「行灯」と書ける日本人がいまどれだけいるだろう。「行灯」という漢字を見て、実物を見たことがないと、「行路灯」つまり「街路の夜間照明」をイメージするのではないか。
「今も沈黙、元朝日記者」は「産経」記事には植村隆と実名が載っている。WIKIには詳細がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E9%9A%86
彼は韓国特派員時代の1991/8/11「朝日」に、名乗り出た元「慰安婦」第1号金学順に関する記事を、大々的に署名入りで書いた。彼の韓国人妻の母が会長だった「太平洋戦争犠牲者遺族会」が支援して「元慰安婦」金学順が日本政府を訴えたのが、同年の12月だ。まさか縁故記事ではなかろうが、韓国人の心性からするとそういう圧力があっても不思議でない。(金学順は親に身売りされたので、「挺身隊」ではなかった。)
この記事で植村は「日中戦争や第二次大戦の際、<女子挺(てい)身隊>の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた<朝鮮人従軍慰安婦>」と書いているから、義母から聞いた韓国での「挺身隊=慰安婦隊」という認識と「強制連行」という誤解を、日本に輸出したのは事実だろう。
「挺身」という言葉には「身を捧げる」という意味があり、「中国への官女貢納」という歴史的伝統があった韓国で、「女子挺身=慰安婦強制連行」と誤解されたのは容易に理解できる。だが、それを糺すのがジャーナリストというものだ。
1991/12の「慰安婦提訴」に合わせて、中央大の吉見義明教授は慰安婦問題の調査を始め、クリスマス頃に「防衛庁防衛研究所図書館」で「軍慰安所従業婦など募集に関する件」という文書を発見し、朝日にリークして翌年1月11日の「慰安婦に軍の関与示す証拠発見」という大スクープ記事になった。
訪韓を目前にした宮澤内閣は立ち往生し、「河野談話」の発表となった。文書発見は事実だが、その内容は「軍の名前を騙って不当不法に慰安婦を募集する民間業者がいるから注意せよ」というもので、吉見のいうこととも朝日の報道ともちがっている。
吉見はこういうレトリックを使う人物だ。
「自由意思による(慰安婦の)応募者はいたか」という項で「たとえ本人が、自由意思でその道を選んだようにみえるときでも、実は、植民地支配、貧困、失業など何らかの強制の結果なのだ」と論じている。〔吉見義明「従軍慰安婦」(岩波新書, 1995), p.102-103〕
こんな理屈が成り立つなら、いま国外に7万人いるといわれる韓国人売春婦も「悪政、日帝、貧困、失業など何らかの強制の結果です」といえるだろう。
山際澄夫「すべては朝日新聞から始まった<慰安婦問題>」の書評
http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1398669634
を書いたときは、「意図、善にして結果、悪となる」こともある複雑系での現象の1例と考えていたが、「産経」の連載記事によると、吉見義明教授、若宮啓文元朝日主筆、植村隆元朝日記者はインタビューに応じなかったそうだ。「意図的に書いた」からだろうか。
1973年10月、第一次オイルショックの時に「トイレット・ペーパーと洗剤がなくなる」という流言が日本中に拡散し、大騒動になった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E9%A8%92%E5%8B%95
あれは千里ニュータウンのスーパーのちらしの宣伝文句が発端だ。
「従軍慰安婦」問題についていうと、
1969年の金廷漢の小説「修羅道」が挺身隊=慰安婦という虚構をつくった。
同じ年、日本では伊藤桂一「兵士たちの陸軍史」(番町書房、現新潮文庫,p.239-258)が「慰安婦」について「募集に応じた」ものと書いている。
1970年の「ソウル新聞」が「女子挺身隊の総数20万人、うち朝鮮人が5~7万人」と書き、1972年には、山崎朋子「サンダカン八番娼舘」(筑摩書房)が出て、海外日本人売春婦「からゆきさん」の存在が知られるようになった。
1978年になると、千田夏光が「従軍慰安婦」で、「挺身隊の名の下に20万人の朝鮮人が集められ、うち5~7万人が慰安婦にされた」と書いた。
女性史研究家の森崎和江は、
1980年、「からゆきさん」(朝日文庫,p.21)で、「性をひさいだ戦地の慰安婦」と書いており、「慰安婦」という言葉が日本でも知られるようになったことがわかる。九州天草の生まれで16歳の時に、朝鮮人に売られた「おキミ」は1901年に開始された朝鮮縦断鉄道の工事に従事する朝鮮人相手の「飯場娼楼」の慰安婦にされた。おキミは四、五人の朝鮮人に集団で朝まで買われ、「日本人への憎悪」の対象となった。男たちは取り囲んで女に酒を飲ませ、「堪えきれずおしっこを洩らすのを、笑って眺めていた」(p.122)とある。
1983年、吉田清治「私の戦争犯罪、朝鮮人強制連行」(三一書房)が出て、「朝日」が彼のことを大きく報じた。吉田の話が完全なフィクションであったことは、後に秦郁彦「慰安婦と戦場の性」(新潮選書,1999)が詳しく書いている。
これ以後1991年までの風評拡大についてはよくわからない。
ほぼ10年後の1991年「朝日」ソウル支局から植村隆記者が「朝鮮人従軍慰安婦」の記事を日本に送った。年末に「被害者金学順」が名乗り出て裁判を起こし、中央大吉見義明教授が「軍通達」を誤読し、朝日にコピーを渡した。
1992/1に「朝日」の大キャンペーンが宮澤首相の訪韓直前に行われ、「河野談話」につながった。これが「一犬虚に吠ゆれば、万犬実に吠える」現象にも似た、「慰安婦強制連行」という「慰安婦騒動」の経時的な、およその形成過程である。
「慰安婦強制連行」の神話性があきらかになった今、日韓共に流言の発端と拡散のルートを実証的に検証する必要があろう。ネィチャーでさえ小保方の「STAP論文」は無料ダウンロード可能とした。「朝日」は「産経」の「歴史戦」を受けて立ち、自社の「報道検証」を行い、登録なしで読める「反論記事」を公表すべきだろう。
「西山事件」で「毎日」は一度倒産した。「朝日」も過去の遺産にあぐらをかいていると、部数を減らして経営が危なくなる可能性があろう。部数100万部程度に減少しても、「朝日」的な意見が存在することが大事だと思う。ネットでの朝日の悪口は読むに耐えない。
明治の初め、維新政府の国書受け取りを拒否した李氏朝鮮は1876年の江華島条約で開国したにも関わらず、「朝鮮人女性による日本人との交情」に死罪を適用した。
1877(明治10)年、朝鮮が大飢饉で餓死者が出たが政府は無能だった。飢えた若い女が釜山倭館に夜になると食を求めて忍んできた。
この女たちは捕らえられ、「荒縄で身体をくくられ、刑場に横たえられ木の枕を首後に起き、長い鉈状の刃物を首にあて、木槌で刃の嶺を叩いて、首を落とされた」。(森崎和江「からゆきさん」p.105)
当時「国賊」だった慰安婦は、いまや「国家英雄」に祭り上げられている。朝鮮史の何たる皮肉か…
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます