【歴史と歴史観】
歴史は客観的事実であり、歴史観はそこからどういう意味を引き出すかという「解釈」の問題である。後者には国家、民族、文化という「価値観」あるいは偏見が入る。
その偏見を除去する工夫をしないと、「客観的事実」としての歴史を確定することはできない。そこで私は病理学の研究と同じように、比較資料研究という手法を用いて歴史を研究している。「日本海」が古いのか「東海」がもっと古くから在ったのか、日韓が言い争ってもそれは水掛け論になる。第三者による確実な資料を探さないといけない。
1874年刊のシャルル・ダレ:「朝鮮事情」(東洋文庫)に朝鮮半島の自然地理を述べた箇所があり、そこに朝鮮半島の海を「Mer de Japon」(日本海)と表記しているのを見つけた。
「鴨緑江は西に向かって流れ黄海に注ぎ、津満江は東へと流れ、Mer de Japonへ注ぐ」とあるので間違いようがない。ダレはフランス人のカトリック宣教師で、インド・東南アジアに布教したが、朝鮮には入っていない。朝鮮教区の宣教師たちが残した資料をパリで整理してこの朝鮮誌を書いた。
刊行後まもなくロシア公使としてペテルブルグにいた榎本武揚が入手し、医官ポンペにオランダ語訳させ、それを榎本が日本語に意訳し書記官花房義質に筆記させて、「朝鮮事情」と題して出版している。
金容権訳(東洋文庫, 1979)は、この榎本訳のタイトルを引き継いだものだ。
ロシア・アムール州の総督官房付だったダデシュカリアニ公爵の「朝鮮の現況(1885年)」(チャガイ編「朝鮮旅行記」, 東洋文庫所収)には朝鮮の北東端の町慶興から元山まで歩くと左手に「日本海」が見える、と書いている。
英国の旅行家イサベラ・バードは日清戦争をはさんで、1894~1897年に計4回の朝鮮調査旅行を行い、「朝鮮紀行」(1905)を書いている。これには朝鮮の概略史と地誌要約が含まれている。ここに出てくる朝鮮の東の海は「日本海」、西の海は「黄海」である。「東海」などどこにもない。
こうして
1.マテオ・リッチの「坤與(こんよ)万国全図」(1602):〔中国語〕
2.ラ・ペールズの「シナ海・韃靼海域発見全図」(1797):〔フランス語〕
3.シーボルトの「日本辺界略図」(1854):〔ドイツ語〕
4.シャルル・ダレの「朝鮮事情」(1874):〔フランス語〕
5. ダデシュカリアニ公爵の「朝鮮の現況(1885年)」:〔ロシア語〕
6.イサベラ・バード:「朝鮮旅行記」(1905):〔英語〕
と、主要国の表記が「日本海」であることを確認することができる。
歴史認識のことで面白いのは、ダレが、朝鮮の南部海岸に「倭館」という日本人居留地があるのは、日本人の実質的進出を示すという歴史的事実を朝鮮人は、その民族的誇りのために認めようとしない、それで朝鮮の歴史は「事実を奇妙な伝説と入れ替える、入念細心の操作が加えられている」と書いていることだ。つまり朝鮮では、歴史と「歴史観」あるいは「歴史認識」の間に大きなギャップあると指摘している。
こうして見ると、日朝の歴史認識の食い違いは今日に始まったことでないのが分かるし、その根底にあるのが事実認識の違いだということもわかる。水掛け論に終わらせないためには、一次情報の発掘点検が大事だと思う。
歴史は客観的事実であり、歴史観はそこからどういう意味を引き出すかという「解釈」の問題である。後者には国家、民族、文化という「価値観」あるいは偏見が入る。
その偏見を除去する工夫をしないと、「客観的事実」としての歴史を確定することはできない。そこで私は病理学の研究と同じように、比較資料研究という手法を用いて歴史を研究している。「日本海」が古いのか「東海」がもっと古くから在ったのか、日韓が言い争ってもそれは水掛け論になる。第三者による確実な資料を探さないといけない。
1874年刊のシャルル・ダレ:「朝鮮事情」(東洋文庫)に朝鮮半島の自然地理を述べた箇所があり、そこに朝鮮半島の海を「Mer de Japon」(日本海)と表記しているのを見つけた。
「鴨緑江は西に向かって流れ黄海に注ぎ、津満江は東へと流れ、Mer de Japonへ注ぐ」とあるので間違いようがない。ダレはフランス人のカトリック宣教師で、インド・東南アジアに布教したが、朝鮮には入っていない。朝鮮教区の宣教師たちが残した資料をパリで整理してこの朝鮮誌を書いた。
刊行後まもなくロシア公使としてペテルブルグにいた榎本武揚が入手し、医官ポンペにオランダ語訳させ、それを榎本が日本語に意訳し書記官花房義質に筆記させて、「朝鮮事情」と題して出版している。
金容権訳(東洋文庫, 1979)は、この榎本訳のタイトルを引き継いだものだ。
ロシア・アムール州の総督官房付だったダデシュカリアニ公爵の「朝鮮の現況(1885年)」(チャガイ編「朝鮮旅行記」, 東洋文庫所収)には朝鮮の北東端の町慶興から元山まで歩くと左手に「日本海」が見える、と書いている。
英国の旅行家イサベラ・バードは日清戦争をはさんで、1894~1897年に計4回の朝鮮調査旅行を行い、「朝鮮紀行」(1905)を書いている。これには朝鮮の概略史と地誌要約が含まれている。ここに出てくる朝鮮の東の海は「日本海」、西の海は「黄海」である。「東海」などどこにもない。
こうして
1.マテオ・リッチの「坤與(こんよ)万国全図」(1602):〔中国語〕
2.ラ・ペールズの「シナ海・韃靼海域発見全図」(1797):〔フランス語〕
3.シーボルトの「日本辺界略図」(1854):〔ドイツ語〕
4.シャルル・ダレの「朝鮮事情」(1874):〔フランス語〕
5. ダデシュカリアニ公爵の「朝鮮の現況(1885年)」:〔ロシア語〕
6.イサベラ・バード:「朝鮮旅行記」(1905):〔英語〕
と、主要国の表記が「日本海」であることを確認することができる。
歴史認識のことで面白いのは、ダレが、朝鮮の南部海岸に「倭館」という日本人居留地があるのは、日本人の実質的進出を示すという歴史的事実を朝鮮人は、その民族的誇りのために認めようとしない、それで朝鮮の歴史は「事実を奇妙な伝説と入れ替える、入念細心の操作が加えられている」と書いていることだ。つまり朝鮮では、歴史と「歴史観」あるいは「歴史認識」の間に大きなギャップあると指摘している。
こうして見ると、日朝の歴史認識の食い違いは今日に始まったことでないのが分かるし、その根底にあるのが事実認識の違いだということもわかる。水掛け論に終わらせないためには、一次情報の発掘点検が大事だと思う。
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