この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

#17 佐藤紅緑著「ああ玉杯に花うけて」Ⅱ

2005年02月09日 | 日本文学
昔の少年雑誌「少年倶楽部」は何歳くらいの読者を対象として編集されていたのだろうか。この少年小説の主人公豆腐屋のチビ公の青木君の小学校での同級生柳光一は浦和中学の2年生だ。挿絵を見るともう少し幼い少年に書いてある。私は「少年倶楽部」は小学校の上級生を対象に編集されていたのではないかと勝手に想像する。この少年小説に描かれた中学生を見て早くあのようになりたいという願望をそそるような書き方をしているように思う。中学生になったら「少年倶楽部」は卒業していたのだろうと思う。
 
この少年小説を今読んでいて面白いのは昭和2~3年頃の日本の社会情勢がわかるような気がすることだ。少年達はどうあるべきか、また大人達が少年達にどう接しどう指導すべきかというような社会の暗黙の了解がわかるような気がする。

 家が貧しくて中学に進学できなかった子供達の志を助けようとする社会全体としての気持ち、政治の腐敗に対する正義感、中学校の校長の教育者としての人格への信頼。いろいろな環境の若者に教育の場を作り若者の心を高めようと志す市井の私塾老人やそのような人達への期待と信頼等々。
 この小説に出てくる中学に進学できず働いている少年達と浦和中学生との野球の試合などは著者の夢のようなものだったのだろう。

しかし私には気になるものもある。忠君愛国の思想 立身出世の思想―――― しかしそれらは良きにせよ悪しきにせよ明治維新以来日本を支えてきたものなのであろう。急速に先進国の文明に追いつくためには西欧のように長い歴史の中に培われた自由の思想はその時代にはさまたげになると考えられたのであろう。少なくとも少年達に対しては。その時代なりの意義はあるのだろう。

佐藤紅緑は「私の小説について」と題した文章がこの本の最後についている。
「小説とは何ぞや。小説は文学であります。文学にはいろいろありますが、要するに読者の心を美しく
高い方へと導くものが最上の文学であります。――――小説は面白くて有益であることが肝心です。」

私もこの本を読んだ中学生のころ、高校にはいればこのような場面に遭遇するのだろうと胸をおどらせていた。そして幸いに私は期待した以上の高校生生活を送れたと思う。

私の高校時代に教えを受けた先生達はほとんどが旧制中学から長くいた先生達であった。それぞれ特徴があった。それぞれ生徒がつけたあだなを持っていた。私が高校1年に入学した時の3年生旧制中学1年から入学した人達でその学校では6年目になる人達だった。こわい上級生達だった。しかしよく我々我下級生の面倒もよく見てくれた。16歳から18歳の時代、急に見の前に大きく広がった世界の中でのただ楽しい時代だったように思う。

話は変わるが、有名な一高寮歌の「ああ玉杯に花うけて」の「うけて」は漢字ではどう書くのかと私達に薀蓄をかたむけて説明して下さった予備校の国語の先生がおられた。
「うけて」は「受けて」と思っているかもしれないが、「浮けて」なのだ。との説明だった。
桜の花びらを杯で受けるのではなく、受けた花びらを杯に「浮かべている」様を歌っているのだとの説明だった。なるほどその方が情景として美しい。
しかし私はまだ別な人に確かめたことはない。(おわり)

写真は佐藤紅緑著「ああ玉杯に花うけて」講談社 少年倶楽部文庫版からの転写


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