森田宏幸のブログ

Morita Hiroyukiの自己宣伝のためのblog アニメーション作画・演出・研究 「ぼくらの」監督

スタッフの起承転結その4

2006年10月14日 05時29分01秒 | 監督日記
(スタッフの起承転結その3の続き)
 たとえば「猫の恩返し」で、柊あおいさんの原案をもとに、私が最初に提案した構想は、
「主人公の女子高生ハルはプチ家出少女で、猫の国に囚われの身になって初めて、自分の帰るべき家と家族を悟る」
というものだった。今思えば、こんなアイディア通るわけがない。
 企画の枠組みというものがまるで分かっていなかったのだと思う。9月9日「スタッフの主と従」に書いたように、「森田さんはまるで作家ですね」と皮肉を言われるのも無理ない話だった。
 宮崎さんの企画意図も柊さんの原案も、こんな社会的なものじゃない。主人公ハルは、普通のいい子である。「こういうのはやめたほうがいいよ」と、宮崎さんには否定された。
 ところで、そんな宮崎さんでも、「原作を変えるな」と私に言ったことはなかった。宮崎さんは、
「耳をすませばのバロンとムーンが地球屋を舞台に猫の探偵事務所をやる」
 というアイディアを持って、柊さんにストーリー原案を依頼したのち、新キャラの主人公ハルのラフスケッチとともに、ストーリーが文章で上がって来た時点で、「もうコンテ描いちゃえば?」と、私に言ってくるぐらいのノリだった。
「漫画が上がってきたら、使えるところを使えばいい」
 と、原作漫画と同時進行でやれと言うのである。このおおらかさをどこまで真に受けていいのか、正直迷った。
 結局は前記したような迷走ぶりで、私は構想をまとめるのに苦労したし、コンテを描く前に、シナリオは必要だと考えていて、漫画のラフ原稿(ネーム)が上がるまで、シナリオに入るのはずれ込むことになる。
 今思えば、「主人公ハルが、猫の国を旅する」という柊さんのアイディアを「起」として、ハルをちょっと悪い家出少女にするというアイディアで私が「承」「転」「結」をとろうなどと一瞬でも思っていたのである。身のほど知らずだった。
 主人公ハルが「プチ家出」などという社会問題を背負ってはならない。この作品にそうした影はなく、楽天的なのだ。けれど私が構想をまじめに練れば練るほど、影がはいり、楽天的な楽しさが薄れていった。その原因を「少女漫画を意識しないからではないですか?」と教えてくれたのは高橋望プロデューサーだった。かわいらしいハルが、猫の国に惹かれ、バロンに魅せられ導かれる物語は、少女漫画テイストという解釈以外に消化できない筈と。
「ここは思い切って、少女漫画で行くと腹を決めてみては?」
と、高橋さんに諭されなかったら、あそこから前進できなかっただろうと思う。監督の私の仕事は、その少女漫画テイストを守った上で、劇場映画の活劇にアレンジすること。つまり、少女漫画の柊原作が「起」と「結」で、活劇的な動きを与える「転」と「承」を私が担うということで、やる気になった。しかし、である・・・。

 柊さんの原作は、先に書いたとおりアニメーション化が前提で書かれたのだ。宮崎さんが原案を作ってくれと、依頼したとき、別に漫画ではなく、シナリオの体裁でもよかったぐらいなのだ。柊さんが自分は漫画でしか表現できない、とおっしゃって、漫画で描かれることになったと聞いている。それが、自立した漫画作品として、出版されることが決まったという話も、映画「猫の恩返し」の公開が決まったあとで聞こえてきたぐらいだ。だから、柊さんの原作は、実質、アニメーション映画の企画書として作成されて、内容もアニメーション映画を意識して描かれた。
 つまり、原作漫画の最初から、活劇の要素は織り込まれていたのである。猫の集団の上にハルが乗って突っ走る「猫いかだ」や「塔の螺旋階段」、アニメーションでは使わなかったけど「動く迷路」など。だから、私が活劇的要素を織り込んだ、とは言い辛いのである。(もっと続く)

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