星月夜に逢えたら

[hoshizukiyo ni aetara] 古都散策や仏像、文楽、DEAN FUJIOKAさんのことなどを・・・。 

「天保十二年のシェイクスピア」オキテ破りの 2002 VS 2005

2005-11-05 | 演劇・ダンス・映画・音楽・古典・TV

2002年版と2005年版。両方とも好きで、それぞれの作品に拍手を贈り
たいと素直に思います。二つの舞台は全然別もの。
比較するなんてめっそうもない!!・・・・・・なのに。にもかかわらず。
ここをクリアしないと自分の中では先に進めない気がして・・・・・・
やっちゃいます。オキテ破りの両者比較。好き勝手に書きます。
ネタバレ注意報続発です。

●佐渡の三世次について
三世次は顔に火傷を負い、片足を引きずった、醜いせむしの男。
その配役にはいくつかの路線が考えられると思うのですが、実際にいま演
じているのは唐沢寿明さん。2002年版は上川隆也さんでした。
二人とも男前だし、人気も実力もある主演クラスの俳優。そういう意味で
は三世次の位置づけに関しては2002年版も2005年版も同じといえそう。 
他の登場人物にひとクセもふたクセもありそうな役者さんをそろえていて、
そのうえ三世次までクセモノ俳優だったら見た目に横並びになってしまう。
戦略的にここはひとつ、華のある役者さんを立てておこう、と(笑)。
私の場合2002年版では、上川さんが悪人をやるというだけで何がなんでも
観なきゃ、とチケットを買ったクチ。
そういう客層狙いもきっとあるのでしょうね(苦笑)。
映画「オペラ座の怪人」のジェラルド・バトラーがそうであるように、
ファントム三世次もどうやら男前路線で定着しそうですね。
イイ男が本気でワルになりきることほどドキドキするものはないですから。

で、唐沢さんの三世次、徹頭徹尾イヤ~なヤツを貫いてます。卑屈さとか、
<言葉使い>としての自分への過信がイヤらしく顔に出てます。その過信
が命取りになるわけなのでそのヘンうまいなあ~と思います。強さが前面
に出て、全く同情の余地なしという感じがするのは唐沢さんのほう。
2002年版の上川さんの三世次は、表面的なワルさとか強さではなく、内面
的な怖さを感じさせる、狡猾ですごく頭の切れる男という印象。特に後半
は、好きな女に決して愛されることのない男の哀れさが強調され、言葉を
巧みに操りながら自分の感情を操れない不器用さを見事に演じてました。
ラストのクライマックスで、上川さんの三世次にどうしても同情の余地が
残ってしまうのは、二人の演技の違いというより、脚色、演出の違いから
きていることが大きいのではと思います。(以下に書きます。)

ネタバレ注意・・・
●作品全体について
ものすごく乱暴な言い方をしてしまいます。
2005年蜷川版は喜劇(ブラック・コメディ)で、2002年いのうえ版は
悲劇。私にはそれくらいの違いがあります。

シェイクスピアに敬意を表しつつも、ウィリアムおじさんをサカナに大い
に遊んでカラッと笑い飛ばそう!みたいな剛胆さ、おおらかさがあるのが、
蜷川版。
舞台では三世次のラストシーンがあって、直後に煙幕。続いて奈落から笑
いながら出てくるユーレイたち。あの<墓場からのエピローグ>はカーテ
ンコールに続く洒落た演出でしょうけれど、あの笑顔を観たときヤラレタ!
と思いましたよ。もう悲惨なラストなんてブッ飛んでしまった~。
さっきまで眉尻をあげて性悪おんなを演じてた高橋恵子さんの、とびきり
美しい笑顔にマジ拍子抜けしました。ドッキリカメラかと思うほど(笑)。
そう、これはお祭りなんだよ! シェイクスピア遊び、楽しかったでしょ
う!というメッセージをカーテンコールの亡霊たちが全身で発してます。
それはたぶん、原作の井上ひさしさんの精神に極めて近いんだと思います。
だから、1作品も欠落することなく全作入れることに大きな意味があった
んですね。蜷川さんらしいと思われるアングラっぽさも見られましたが、
それ以上に、シェイクスピア作品に精通した人々の余裕の大人の舞台だな
あというのが実感です。

一方の2002年いのうえ版は、遊びというより、力技で勝負といった感じ。
カラカラ笑い飛ばすどころか、ウェットでずっしり。
プロデュース公演とはいっても、ふだん新感線の舞台に出てるメンバーが
中心なので、戯曲にないアドリブギャグの応酬が出るたびに客席は大爆笑
だったはず。それなのに全体のトーンとしては濃厚な悲劇色で、ところど
ころエピソードをじっくり見せながら進行するため、観ているほうは登場
人物に感情移入しやすかったと思います。
特に、王次に「尼寺へ行け」と言われたお冬(王次が怖いくらいウマイ!)
と、濡れ場で死にゆくお里。最後の三世次とおさち。
蜷川版が原作の趣旨を汲んでいるとすれば、いのうえ版は独自の脚色、演
出によって原作の猥雑な空気感をよく伝えているのではと思います。
ラストのヒタヒタと押し寄せる恐怖も、かなり戯曲に近い気がしました。
おさちが三世次への復讐に使う大鏡と、農民たちの磔のような槍ぶすま。
最後をスペクタクルなセレモニーに仕立てあげるところは、いのうえ演出
ならでは。三世次の最期に心が動き、呆然としてしまうラストでした。
カーテンコールの笑顔までが作品と一体化した2005年版と、なかなか席を
立てなかった2002年版。私にとっては違いを楽しめた貴重なお芝居です。

ネタバレ注意・・・
●お里について
2005年蜷川版は喜劇で、2002年いのうえ版は悲劇。それを何より象徴
していると思ったのが、夏木マリさん演じるお里の、死の濡れ場シーン。
三世次の言葉の毒にハマり、お里が浮気をしていると思い込んだ幕兵衛。
愛が深いゆえにお里を刺殺するという、男と女のまさに修羅場。
2002年版で西牟田恵さん演じるお里のあのくだりは語り継ぎたいほどの
名シーンで、男と女のシヌ、イクのさなかに、同時に死ぬ、逝くをやって
しまう。脚本もすごいけど、あの舞台でのお里は今から殺されるかもしれ
ないことがわかった上ですべてを受け入れたのかと思えるような情感がこ
もっていて、まさに鳥肌ものでした。
片や夏木マリさんのお里。このテがあったのかと私は目からウロコ!
しっとりとドラマチックな見せ場になることは百も承知で、あんなこと
する? 断末魔のニカッ!まさか笑うなんて。すごい、すごいよー。
その肩の力の抜け加減。大人のブラックジョークというか。ファッション
でいえばドレスダウン。あえてドラマチックを着くずしてしまうところに
蜷川シェイクスピア女優の意地を見ました。そして、これがそのまま
2005年蜷川版全体のスタンスだったような気がするのです。

以上が、2002年版を2回、2005年版を1回観た印象比較。明日(11/6)
2005年版千秋楽観劇後、訂正したくなるかもしれませんが・・・。

●千秋楽のお里について(11/6追記)
先週見たお里は、私の見間違いだったのだろうか? 最期の瞬間に笑って
などいなかったのかもしれません。ただ、かなり滑稽な表情だったので、
悲しい場面なのに客席からは笑い声があがったのはたしかです。
今日のお里はあの断末魔で一瞬、びっくりしたような顔をこちらに見せて
短く奇声をあげ、事切れただけ。全然ブラックジョークなんかではなく、
悦びから一転、最期を迎えてしまう女の悲惨で美しいシーンを見届けるこ
とになってしまいました。千秋楽のお里は本当に<いい女>でありました。
(同じシーンなのに観劇日によってこんなにも印象が違うなんて・・・。
観る側の思い込みや、あるいは役者さんのちょっとした表情の違いでも、
受け取り方がずいぶん変わってしまう。観劇というものがいかにあやふや
なものかを思い知りました。でも、そのあやふやさもまた、ナマの舞台
でしか味わえない楽しみのような気がします。)

●来年のシェイクスピア対決
いまわかっているところでは、2006年の蜷川幸雄さん演出のシェイクスピ
ア作品は「間違いの喜劇」。新感線は「メタル・マクベス」。
タイトルだけでもそれぞれの方向の違いが歴然ですね(笑)。


「天保十二年のシェイクスピア」を予習(このブログ内の関連記事)
天保十二年のシェイクスピア □観劇メモ(このブログ内の関連記事)
「天保十二年のシェイクスピア」大阪千秋楽(このブログ内の関連記事)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする