Polepole Life new

びわ湖の湖南に在住。
亡きA.コッカーNOIRと山歩きを愛すシニアライフを綴ります。

英語の副題

2007-09-30 14:24:23 | 



英語は相変らず映画を見ていても歌を聴いてもチンプンカンプン。
ましてやニュアンスなんてわかるはずがない私がいうのは
おこがましいのだけれど、それでも上記ふたつの本の副題を見ると、
日本語のタイトルよりも内容がずっと伝わる。
両方とも日本人の著者なのに、どうしてだろう。

特に『世界に抱かれるために。』で恋人同士が抱きあう写真を
使用した田口ランディの本はこの著者のものでなければ
いかにおしゃれなカバーでも手に取らなかっただろう。
(著者がコレで納得した理由がわからないくらい。) 



世界に抱かれるために-How to connect with the world
田口ランディ 新潮社 2005/5
風水・ヒーラー・・・私は信じない。それなのに彼女がそれらに
近づいていく過程は共感できる。
「ティッシュをもらうちから」が印象にのこった。
今の私は、一応受け取るけど顔に迷惑や不愉快がでるだろう。
自分が疲れているのだ。
イヤな気持ちをウィルスのように撒き散らしていると、
まわりも汚染されるし、自分もしんどい。
著者は人間好き。一緒に暗闇に落ちていくのではなくて
一緒に洞窟を探検しているような共感+安心感が魅力だ。




水辺にて―on the water/off the water    
梨木香歩 筑摩書房 2006/11
表紙の写真がきれい。風景もファルトカヌーも。
私が漕ぐ船好きになったきっかけは、林間学校で乗った
カッター(大きなローイング・ボート。多人数乗れる)だった。
群馬県の赤城の大沼の霧に包まれ迷ったことがある。
漕いでも漕いでも宿舎近くの景色が見えない。
湖沿いの車に声を掛け、ようやく戻れたことがあった。
それでも、怖いような静けさの中、森と霧に包まれ
同級生達と異空間に迷い込んだかのような感覚は
もう一度体験したい思い出の1つだ。
カヌーを手に入れたものの、その時の追体験はまだない。
琵琶湖の岸近くをふらふらするばかり。

本は、期待を裏切らなかった。水面を滑っていて味わう
自然の静かさ、音、・・・ふと近寄る危険・・・出会い・・・
憧れの世界。




美術モデルのころ
長島はちまき バジリコ 2005/10
「レンアイ至上主義」っていうのがどうもね。私とは相容れない。
若い頃から私はそういうのはイヤだった。
でも、絵・・・うまい。美大出身だろうと思ったら違った。
美術モデルやPOP・イラストのアルバイト・・・
彼は劇団員で同棲したり地方公演の追っかけしたり
手伝ったり・・・

フン!といいながら時折魅かれたわー。そういうの。
ひとりで肩肘張ってがんばってたからねー、わたし。

でも、、、捨て身のピュアさがところどころ痛々しい。

有名な『チロといっしょ』の著者。




ミステリー・ディナー
デイヴィッド・グレゴリー(著
西田美穂子(訳  安西水丸(装画
ランダムハウス講談社 2005/11
安西水丸の表紙絵がゼツミョー。すきだなぁ。

著者はMBA取得後10年間のビジネスマン生活を経て
脱サラ。神学校で宗教認識論というのを勉強しているらしい。

宝石箱のような一冊。
こう語られるとキリスト教を少し理解できる気がする。
キリスト教のいい部分があたたかい口調で説明されている。


 ・ ・ ・

本とは関係ないけれど、キリスト教にまつわる<追憶>

むかし、日本人ブラザー2人に出逢った。
アフリカの貧しい人々の住む地域で共同生活を
しながら狭い住居の半分に祭壇を設けて、
祈りの場を同じ地域の隣人に提供していた。
穴倉のような暗い4畳半程度の部屋で
大人2人窮屈な暮らし。
「祭壇って、そんなに必要ですか?こんなに狭いのに」
とたずねる私に
「祭壇があって、マリア像や宗教画があった方が
わかりやすいから。ここに足を運ぶ習慣から始まるんですよ。」
「彼らはね。同じ大きさの空間に僕らの3倍以上の家族で
暮らしています。祈る場所は必要なんだ。」と答えた。

同じ頃、有名な日本人神父に出逢った。
同じ街の大きな教会で何不自由なく家族と信者と
日本人社会に包まれて教会や日曜学校の建物とは
別の屋敷にビジネスマンのように暮らしていた。

もちろん、宗派の違いもあるだろうけど
理解と実践は個人に掛かっているのだろうか。

私は、ブラザーたちのおだやかな空間を足繁く訪ねた。
「近所の女の子が抱いていた幼い兄弟に自分の食べ物を
分け与えようとして窒息死させてしまった。
よくあるんだ。そいうことが。
善意で精一杯しているのに、貧しさから来る事故が。」
そういって沈んでいることもあれば
学生時代好きだったバイクの話で盛り上がったりもした。

「勉強して、洗礼を受けたい。」と話すと
「日本に帰って、元の生活に戻ってからゆっくり考えると
いいですよ。いつでもできますから。いろいろ経験して、
ゆっくり考えてからでいいんですよ。」
と、あしらわれてしまった。

帰国後、手紙を書くと宗教画と聖書の一文が
書かれたしおりと、短い手紙が戻ってきた。
彼らはお元気だろうか。今はどこにいるだろうか。
宗教の話ではなくてもいい。
こころの話でなくてもいい。
どんな風に暮らしているのか伺いたい。

結局、私は宗教に馴染めず洗礼を受けることはなかったし
そんな気持ちも忘れかけていたけれど。
「ミステリー・ディナー」がきっかけで
その時期の記憶と気持ちがこみ上げてきた。





コメント (4)
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