『私は、かご一ぱいの梅の実を見つめながら、H子さんにいった。「梅の木は、春先には清楚な花を咲かせて、私どもの目を楽しませ、初夏には枝もたわむほどいっぱいに実をつけて、食べさせてくれます。しかもしれに対して梅の木が、どんな賞賛や返礼を要求したでしょうか。
それにくらべると、私ども人間というものは、大自然の大きな恵みにすっかりなれっこになってしまって、増長し、わがままになり、感謝を忘れて、身勝手な要求ばかりしている、とは思いませんか。とくにちかごろの若い人は、自ら苦労して植物を育てるとか、人を愛するということは何もしないでいて、ただ多く与えられることばかりを、むやみに要求しているようですね。それは、天地自然の道にさからった、恥ずべきことではないでしょうか。ほんとうのしあわせは、愛されるよりも、愛することの中にあるのではないでしょうか。?』「あるがままに生きる」水谷啓二著(p.14)
人間の本来性として、他人を愛することの喜び、人に喜んでもらうことが嬉しいということがあるのでしょうね。水谷先生の本の中には、全治した人からの感謝の手紙がたくさん掲載されていますが、それを読んでいて思ったのは、人を愛することの喜び、人のためになることの喜びに気づいたというものです。
『「"天罰だと思いなさい"と先生からいわれたときには、<ずい分ひどいことをいわれる>と思いましたが、しかし今考えてみると、<それでよかったんだ、なぜそれにもっと早く気がつかなかったろう>と思っています。かくしていたことを先生のほかにみんなに告白し、<よかったな>というのが今の実感です。お彼岸の中日に、兄や親戚の仏様におまいりにいきましたところ、私の人相がとても明るくなったといってくれました。人から愛されることばかりを求めていた私に、愛することのしあわせがようやくわかってまいりました。」』(「あるがままに生きる」p.66)
それにくらべると、私ども人間というものは、大自然の大きな恵みにすっかりなれっこになってしまって、増長し、わがままになり、感謝を忘れて、身勝手な要求ばかりしている、とは思いませんか。とくにちかごろの若い人は、自ら苦労して植物を育てるとか、人を愛するということは何もしないでいて、ただ多く与えられることばかりを、むやみに要求しているようですね。それは、天地自然の道にさからった、恥ずべきことではないでしょうか。ほんとうのしあわせは、愛されるよりも、愛することの中にあるのではないでしょうか。?』「あるがままに生きる」水谷啓二著(p.14)
人間の本来性として、他人を愛することの喜び、人に喜んでもらうことが嬉しいということがあるのでしょうね。水谷先生の本の中には、全治した人からの感謝の手紙がたくさん掲載されていますが、それを読んでいて思ったのは、人を愛することの喜び、人のためになることの喜びに気づいたというものです。
『「"天罰だと思いなさい"と先生からいわれたときには、<ずい分ひどいことをいわれる>と思いましたが、しかし今考えてみると、<それでよかったんだ、なぜそれにもっと早く気がつかなかったろう>と思っています。かくしていたことを先生のほかにみんなに告白し、<よかったな>というのが今の実感です。お彼岸の中日に、兄や親戚の仏様におまいりにいきましたところ、私の人相がとても明るくなったといってくれました。人から愛されることばかりを求めていた私に、愛することのしあわせがようやくわかってまいりました。」』(「あるがままに生きる」p.66)