内田樹「昔は、中国の周辺地域って――韓国もベトナムもそうなんだけども――
表意文字と
表音文字、現地語と外来語っていうのが併存していたわけだよね。
(中略)
外来語と現地語のハイブリッドの形で残ってるのって、
世界でもう日本だけなんだよ。
現地語であるところの大和言葉の上に漢語をのっけて、1500年間やってきた」
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内田の発言も(本人も言うとおり)
養老孟司の受け売りなんだけれども、
そうなると、なぜ、日本の
マンガもまた“特殊”な表現として
海外に迎え入れられたのか?という問いが、頭をもたげてくる訳。
養老は「
マンガとはルビのある漢字であり、日本人の脳は、
漢字を読む場所とカナを読む場所が違うことから始まり、
日本の国語教育を受けていると、マンガの読解力が進む」と明言していて、
これは極めてクリアな意見なのだけれど、とある場で
同じことを(優しく)発言したつもりが、なかなか伝わらない人もいて……。
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その時には苛立ちもしたけど(人間が出来てないッす)、後から落ち着いて考えるに、
「日本語」の枠の中でのみ考える以上、異国の言葉との違いも見えてこない。
ただの印象や感想で、異文化・異言語の比較をされてみたところで
反例ひとつを挙げれば、すぐに破綻が見えるのだけれど、
中に安住している人間にはその自覚すらない。
「訳のわからん人が何や言うてはるわ」で本人は自己完結しているから、
投げかける言葉は宙に浮く。違ったふうに考えるのは、非常にむつかしいことなのだ。
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解剖学的にいうと、表意文字と表音文字、図像と音声などは
脳内の異なる2つの場所で処理をしていて、日本人は
日本語(~マンガ)を通して、それを日常茶飯事に行ってきたことになる。
そういう含蓄、陰影を日本語が構造的に伴うことがわかっていなければ、
「行間を読む」だとか「紙背に徹する」だとかの行為も無理なんではないか?
いや、そこで、そういった(深遠な?!)読解に本来、価値はあるのか?
と根源的な疑惑にぶつかってしまう訳なんだけれど……。