スーの旅日記

ひとり旅の日本100名城スタンプラリー、神社仏閣めぐり、その他。

名古屋城の石垣 2

2013-01-24 19:04:47 | 日記
複雑に入り組んだ丁場での作業は、トラブルを避ける為に石に刻印(刻紋)が刻んであり、築城の慶長時代には124個、そのうち分かっている刻印は75個になるそうです。

せっかく遠くから運んできた石を盗まれたら元も子もないですよね。石垣造りはかなり大変だったみたいですね。それでもハイスピードで全丁場の石積みは年内で終わったようです。

名古屋城には、ここかしこに石の刻印が見られるようですが、残念ながら私には見つけられませんでした。チーン




↑ 清正流、扇の勾配

説明板によると…「清正流三日月石垣」といわれ、この技法は石垣を内面に湾曲させ石の重みと内側の土圧による力を分散させ、はらみを避けるため…と書かれてありました。

この反り具合が良いですね。美しいです。石垣マニアなら一番の見所じゃないでしょうか?



最も難工事である大天守台と小天守台の石垣の築造は加藤清正公が自ら願い出たようです。そして、石垣職人の技術が他の大名に盗まれないようにと作業場に幕を張ったそうです。なんと凄いことに天守台は三ヶ月で出来たそうです。

ここかしこにある刻印は見つけられなかったのですが、二度目の登城(笑)の時に大天守台北東隅にある刻印を見つけました



↑ 「加藤肥後守 内小代下総」と刻まれている。(画像2011.7.30現在)

篠山城築城の普請総奉行だった池田輝政の刻印しかり、こういうメインの刻印を見つけるとテンションがあがります。



↑ 清正公石曳きの像

巨石を修羅に乗せて運ぶ時に、着飾った小姓とともに石に乗り、自らは長烏帽子の兜に陣羽織を着、日の丸の軍扇を開いて音頭をとり、見物人には酒を振舞い、盛り立てたそうです。

この像は何故か天守側には無く、離れた二の丸の隅にあり、天守台に背を向けて?立っています。…というか東南隅櫓が遮り天守台が見えない…。

忍び返しという防御に優れ、見た目も美しい扇の勾配の清正流石垣が天守台として現存しているので、せめて天守台の方を見させてあげたい…と私個人的に思いましたね(笑)。



↑ こんな感じで人夫たちは石を曳いていたのでしょうね。

名古屋城天守閣内にあり、石曳きが体験出来ます。一人なので誰も居ない時を見計らって引っ張ってみましたが、重くてびくともしませんでした。



↑ 清正石

清正公が運んだとされているが、ここの丁場は黒田長政だったので違うようです。巨石=清正公…と言われるほどに石曳きが有名で築城の名手だったせいでしょうね…。





↑ 石垣の修復工事の為に順に並べられた石。(2011.4.9現在)

見ていると考え深いものがあります。石積みに従事した当時の家臣や職人そして人夫の汗と涙の結晶ですな。もう本当に心の底から「お疲れ様でございました」という感じになりました。

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