スーの旅日記

ひとり旅の日本100名城スタンプラリー、神社仏閣めぐり、その他。

竹田城跡に登城 1

2012-02-27 02:54:36 | 日記
観光案内所の人に教えて頂いたルートは“駅裏登山道”になり、距離は800m、徒歩で約30分です。


いよいよ出発!!



↑線路ガード下をくぐるのですが、かなり低くて腰を屈めて進まなければなりません…。頭がぶつかりそうになります。でも、何だか楽しくて楽しくて、「わぁ~キツいな~」とか一人でブツブツ言いながら、ヘラヘラ笑いながら進んで行きました。


ガード下をくぐり抜け、少し歩いた所に碑がありました。



↑竹田城跡登山口です。

ワクワクしてきました。この道を歩き進めると“屋敷跡”がありました。見た感じただの広場でしたので(苦笑)、画像には撮りませんでした。説明板によると城主や家臣団は屋敷に住み、政務や戦の時に城に登ったと書かれていました。

ところで、竹田城で戦があったそうです。資料によると、1577年(天正5年)11月、織田信長の命で羽柴秀吉が播磨を平定した後、但馬に侵攻。弟秀長が大将となり、総勢3200人(内300人は鉄砲隊)の軍勢に3日3晩攻められ、太田垣輝延は降参し、城を明け渡したそうです。






↑山道に来ました。石垣が見えますが、当時に造られたものでしょうか…。

竹田(兵庫県朝来市)

2012-02-26 17:32:23 | 日記
2011年3月12日(土)


和田山駅から播但線に乗って竹田駅に来ました。

駅はこじんまりとしていて、駅舎内には観光案内所があります。そこで、竹田城跡に行くルートを教えて頂き、資料も頂きました。案内所の方がとても親切にして頂いたのが嬉しかったです。




↑分かりにくいですが、竹田城の模型です。

標高353.7mの山頂に位置する竹田城跡。1443年に但馬の守護大名山名宗全が基礎を築き、最後の城主赤松広秀が石積みの城郭を整備したそうです。

和田山

2012-02-25 15:35:49 | 日記
2011年3月11日

福知山からJR山陰本線に乗って、宿泊する和田山まで行きました。

3月だというのにまだまだ寒くて、車窓から観える夜久野(やくの)辺りの景色は、まだ雪が残っていました。


↑和田山駅に着くと雨が降っていました。

今回泊まるビジネスホテルの場所が分からなくて、反対方向を歩いたりして、道に迷いながらも何とかたどり着いたので、良かったです。(^_^;)

部屋に入り、テレビを付けると東北の地震の事ばかりでした…。どのチャンネルを変えても同じでした…。

私はここで初めて地震の大きさや被害の大きさを知ったのです…。本当にショッキングで、私はこんな所で遊んでいて良いのか…!?…といたたまれない気持ちになってしまいました…。

こんな時に旅してて申し訳ない…。あ~ぁ。(ρ_;)

でも、どうする事も出来ないし…。あ~ぁ。(*_*)



そして、翌日は天空の城“竹田城跡”に行くために再び和田山駅に行きました。



↑和田山駅近くにあるミニチュアのお城。どこのお城の模型なんでしょうか…?





↑播但線の寺前行きに乗って竹田まで行きました。

福知山城内

2012-02-24 18:08:41 | 日記
また今頃になって更新ですが…、前回の続きになります。(^_^;)


↑福知山城天守閣の鯱瓦




↑豊磐の井(とよいわのい)
井戸の深さが50m、井戸底は海面下7mに達し、城郭内湛水井としては日本一になるそうです。

機械が無い時代に人力で掘ったのが凄いですよね。

資料によると、築城時(石垣や井戸等)に地元の人達が「ドッコイセ~」と言って運んだのが、“福知山踊り”の合いの手になったそうです。




↑朝暉(あさひ)神社
御神体は江戸時代の福知山初代藩主朽木稙昌(たねまさ)の父“稙綱(たねつな)”〈朽木元綱の三男にあたる〉が祀られています。




↑天守閣最上階から見た福知山市内




↑銅(あかがね)門番所
二ノ丸の登城路にあった銅門の番所。大正時代は天守台に移転、天守閣の再建に伴い本丸に再移転されました。現存になるそうです。


ゆっくり観ている時間がなく、1時間ぐらいで切り上げあげました。お城を散策している時は雨が降り出し、お天気が良くなかったのですが、お城を出てからは雨が止み晴れ間も見えて、変な天気でした。福知山城には歓迎されてないのかしらん?と思う程でした。
(^_^;)