忘年会に行きたい。
いや、ほんとに行きたいわけでもない。
なにか、今をごまかすものを欲しているだけなのだと思う。
何か刺激があれば、それにリアクションすればいいから。
『◯◯しなければいけない』というような呪縛、
エセ優等生の残骸を経て、30歳を超えて、
その呪縛から、だんだん逃れる、ことを意識できるようになってきた。
それでも、まだまだ意識にこびりつく
『◯◯しなければいけない』という言葉、
何かをしているとき、なにもしていないと不安になる、
なにか、意味があることをしなくては。
遊びも旅行も、ほんとのところ何が楽しいのか、わからない。
と思う端から、
それを楽しむことを知ることでなにか人間として学べるかもしれない、
と思って、頭を正し、体験してみる。
もし、呪縛を失いきることができたら、(できるかはわからないけど)
もっとでたらめで冷酷な人になってしまいやしないか、
呪縛でなんとか保っているんじゃないか、とも思って、怖くもなる。
熱さ、みたいなものは、確かに自分のなかにもあるような気がする一方、
次々起こる、トンチンカンなできごとを、静かに見ている。
怖いから、静かに見ているふりをしているのか、
本当に静かに見ているのか、
脳内や心理をひっぺがしていった先に、
マトリョーシカのマトリョーシカの先に、ほんとは何があるのかは、わからない。
人間はどんどん変わっていく。
自分も、友人も、親も、
どんどんわからない人になっていく。
そんなこと考えていたのか、と、
爽やかな絶望と、人間って面白いなあ、とたまらなくくすぐったい気持ちになる。
あと、人は一人だということを知って、安心もする。
人間って、可笑しい、と知ることが増えるたびに安心するけど、
日本のリーダーのおかしさはこれ以上知りたくないから早く軌道修正してほしい。
楽しんで書きたいな、と思いながら机に向かっている。
頭が邪魔してくる。邪魔するおっさんを追い出す。
その攻防のすえに、一旦ブログを書いてみている。なう。
なう、って、もう使わないんだろうな。なう。
下書きに、小説を書いて→絵コンテを書いて→戯曲にする過程を経ながら、
演劇を書くのに向いていないんじゃないかと、毎回思うけどまた思っている。
一昨年は、玄関の前、
去年は、アパートの前で、
元旦の日に、まんまるふとったネズミが死んでいるのに出くわした。
そして、に年連続、近所の花壇に埋葬した。
あそこの花壇には、私だけがしっているネズミ1、ネズミ2、の墓がある。
この連続、今年は続かないといいな、と思う。
みなさま、よいお年を。
藤原
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