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【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方― その2

2000年12月01日 10時45分17秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日(その2)

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究 」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

            永田満徳

 

第三章 『豊饒の海』の作品世界

一 「春の雪」論―感情とその行方、及び「奔馬」論―行為とその行方

さて、『豊饒の海』は、

清顕が時代を動かさなかつたやうに、本多も時代を動かさなかつた。そのむかし感情の戦場に死んだ清顕の時代と事かはり、ふたたび青年が本当の行為の戦場に死ぬべき時代が迫つていた。その魁が勲の死だつた。すなはち転生した二人の若者は、それぞれ対蹠的な戦場で、対蹠的な戦士を遂げたのだつた。

この本多の述懐は、『豊饒の海』第三巻の「暁の寺」が三島の分身である本多の認識の世界のこととして語られることからこの作品を見取り図として考慮すべきである。第一巻「春の雪」は清顕の感情の戦場を、第二巻「奔馬」は行為の戦場を描いた作品だといえる。さらに同じく戦場と名付けるならば、第三巻「暁の寺」は本多の認識の戦場、第四巻「天人五衰」は透の自意識の戦場とする、各戦場の格闘とその行方をそれぞれ描いているものと思われる。

     ① 清顕の情熱と勲の熱意

第一巻「春の海」・第二巻「奔馬」では主人公の性格付けに特徴がある。第一巻の松枝清顕と第二巻の飯沼勲は、三島の自注自解にあるように、何よりも〈絶対的一回性〉を送るために、死への志向を持つ青年として造型されている。両者の物語において、清顕は無意志の青年と規定されているのに対して、勲は「神風連の純粋に学べ」というスローガンを掲げる意志を持った青年と規定されている。この規定にこそ、第一巻は「たおやめぶり」、第二巻は「ますらおぶり」という初期における最も基本的な構想の意図が込められている。三島は絶頂のうちに二十歳で夭逝する転生者の物語という共通項のなかで、全く性格の違う主人公の軌跡を描き分けることに作家的力量のすべてを賭けたと言っても言い過ぎではない。その意味では、『豊饒の海』は三島の構想力を遺憾なく発揮した作品であるといえる。

「春の雪」の構想という面で、主人公清顕という性格に注意すべきであるということすでに先田進氏が指摘している。富と権勢をほしいままにする新興貴族である松枝侯爵家の嫡子清顕は「自分にとつてただ一つ真実だと思はれるもの、とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない『感情』のためだけに生きること」を宣言して憚らない。そのような清顕でありながら、その「感情」の底に「何か決定的なもの」を期待する心象を持つ人物として描かれている。漠然と求めている「何か決定的なもの」は聡子と洞院宮典王殿下との間の《勅許》による婚約成立によって実現する。構想の側からすれば、《勅許》という禁忌の成立ゆえに彼の感情が噴出するのではなく、むしろ彼の感情が噴出するために、禁忌の成立が必要であったといえよう。その《勅許》に至るまでの、聡子との恋の駆け引きのさまは、清顕の一方的な思い込みで、被害意識とみまごうほどである。その感情の絶え間ない感情の起伏こそが、絶対の不可能への挑戦の基盤をなしている。本多が聡子との関係に逡巡している清顕に対して決意を促すように、「行為の戦場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。それがおそらく、貴様をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ」といみじくも言ったのも故なしとしない。清顕は感情の戦場で戦死することで、大正時代の若者を代表することになるからである。

何が清顕に歓喜をもたらしたかと云へば、それは不可能といふ観念だつた。絶対の不可能。聡子と自分との間の糸は、琴の糸が鋭い刃物で絶たれたやうに、この勅許といふきらめく刃で、断弦の迸る叫びと共に切られてしまつた。彼が少年時代から久しい間、優柔不断のくりかへしのうちにひそかに夢み、ひそかに待ち望んでゐた事態はこれだつたのだ。(中略)絶対の不可能。これこそ清顕自身が、屈折をきはめた感情にひたすら忠実であることによつて、自ら招き寄せた事態だった。

磯田光一氏は《勅許》を受けるという「障壁」によって、「情念純化」を生き抜く物語としてこの作品をとらえている。田阪昂氏は情熱が不可能の追求であるという、かなり自己流のバタイユの把握を踏まえて、「絶対不可能な事態に立ち至ったとき清顕は、『今こそ僕は聡子に恋している』と内心の叫びをあげ、生まれて初めての至純の愛の情熱をいだくわけである」と述べている。「至高の禁」を犯すほどの突出した情熱にこそ、清顕の不可解な行為の本意を読み取るべきである。「不可能」は絶対であろうがなかろうが、一つの制限、あるいは一つ障壁である。《勅許》というのは一つの制限であり、障壁である以上、行動の選択を狭める以外に行動することはできない。しかし、〈屈折をきはめた感情〉であればこそ、その障壁に隔てられれば隔てられるほど純化し、瞬発力を溜めるのは当然の成り行きである。優柔不断な性格の持ち主という設定自体は、《勅許》という障壁の出現によって劇的に興隆する感情を浮き彫りにさせる効果がある。ここで初めて、「僕はなかなかはじめないが、一旦はじめたら、途中でやめるやうな男ぢやない」という科白は暴発とも言うべき感情の急変の伏線になっていたことがわかる。

「奔馬」の場合は、飯沼勲の性格は見る者の立場になった本多繁邦の視点を通して描かれる。例えば、初対面のときの目に注目して、「正面を睨んで、外界の何ものも受けつけない」ものを感じ、「『人生について、まだ何も知らない人間の顔だ』」と思い、「『降り積つたばかりの雪が、やがて溶けもし汚れもしようということが信じられないでゐるときの顔だ』」と見たように、あまりにも自分の世界を強固に保ち過ぎることへの警戒感を持ち、純粋無垢の危険さを察知している。本多の認識の正しさは、憂国の至情から昭和の神風連を決行する直前に逮捕された新聞の顔写真を見て、「決して家常茶飯に融け合わない、非日常的に澄んだその光りに深い印象を受けた目はそのまま残っている。つねに眥を決しているという感じのあの目は、正にこの日を目ざしていたのだ」という感慨を持つことによって証明される。そのような勲の姿勢で最も印象に残るのは、決起の際最も頼みとする洞院宮から尋ねられて、

はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、陛下が御空腹ではなく、すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いもの喰へるか』と仰言つて、こちらの顔に握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上がつて、直ちに退つてありがたく腹を切らねばなりません。なぜなら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましようか。飯はやがて腐るに決まつています。これも忠義ではありましようが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

と答えているところである。ここには〈忠義〉そのものよりも事の成就如何にも関わらず、〈死〉あるのみとして、死への熱意が突出していることに特色があるといわなければならない。

純粋といふ観念は勲から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。勲はスローガンを拵えた。「神風連の純粋に学べ」といふ仲間うちのスローガンを。

純粋とは、花のような観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念。あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。

「純粋」にしても、「全生命を賭けてでも、自己に燃焼し尽くしたいというそのこと自体」に他ならないと捉え、目的達成を目指す熱意そのものに生甲斐を感じる勲像を提出している。「神風連史話」にしても、勲に宛てた手紙の中で、本多は「物語の危険は矛盾の除去であり、この山尾綱紀という著者も、書かれた限りの史実には忠実でせうが、こんな薄い小冊子の内容の統一のためには、多くの矛盾を除去したにちがひありません。」(九)と述べているように、「神風連史話」は、『神風連血涙史』他の先行文献に依拠しながら多くの情報を切り捨て、また独自の記述を付加する操作によって組み立てられたものであった。その求心的な構成は、「神風連史話」を類書から質的に隔てる特徴となっている。「神風連史話」は、いわば「純化された物語」とでも言うべき性格を備えた書物なのである。「神風連史話」における神風連について、山口直孝氏は「強度の現世否定の理念と実効性の希薄な行動様式とを併せ持つ集団として表象されている」(「『奔馬』の構造―『神風連史話』の解体と再生―」『昭和文学研究』平成八・二)と述べているように、成算を度外しした、死への熱意そのものが主題となっていると見てよい。

そのような「神風連史話」に心酔する彼だからこそ、挫折という現実すら、「現実が一つ崩れたあとも、すぐ別の現実が結晶しはじめて、新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか馴れはじめてゐる自分に気づゐた。その新らしい結晶からは中尉はすでに弾き出されてゐた。そしてその威丈高な軍服姿は、出口も入口もない透明な結晶体のまはりをうろうろしてゐた。勲はもう一つ高度の純粋へ、もう一つ確実性の高い悲劇へ辿りつゐたのだ」というふうに、矛盾の除去に働くのは当然のことである。「純粋」という観念はその除去の方便として機能するのである。彼は外部によって自己変革するような人物ではない。つまり、自己閉塞状況を打開する意志はまったくなく、自己本位の役割を演じ続ける。従って、処々に描かれる右翼・軍部・社会の状況は本質的に重要な事柄ではないのであって、勲の弧絶さが強調されはすれ、決して物語に決定的な影響を与えるものではない。

このように、清顕の死への情熱は〈何か〉を媒介とするものであるのに対して、勲の死への熱意は最初から明確に存在するものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」を持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。〈何か〉という漠然とした期待が明確な意志へと変わるところに第一巻と第二巻においる最大の違いがあり、通低しているには主人公の意志の問題である。ともあれ、清顕と勲はともに〈椿事〉を待望する少年の系譜に添う人物であり、その人物たちの集大成的な役割を担わされているといえよう。清顕の「情熱」や勲の「熱意」は、大正時代であったからこそ可能になったともいえよう。戦前の社会の大きな特徴である天皇という絶対者の存在を抜きにしては成り立たないからである。

     ② 「血まみれ」と「血みどろ」

ところで、清顕の「優雅」や勲の「純粋」の実質については近年疑義を挟む論が多く出されていて、むしろ清顕における聡子の「優雅」の模倣性、勲における「神風連史話」の「純粋」の模倣性が問題にされてきている。清顕の「優雅」も勲の「純粋」も彼らの内部から発し、彼らの行動を方向付けているように思われる観念は外部で提示されたものを学んで得たに過ぎない。「優雅」や「純粋」が完全に先験的に与えられたものでないことは、清顕や勲自身によって絶えずわが身が疑われていることからもわかる。それでは、彼らの内部から発せられるものは何かといえば、清顕においては「情熱」、勲においては「熱意」とか呼ばれるもので、それはいずれも利害打算を抜きにしたファナテックで、身体的活動そのものである。

そういう意味で言えば、「春の雪」においては、蓼科の存在は無視できない。聡子の乳母である蓼科は狂言回し的な存在で、清顕と聡子の間に介在し、二人の行く末に重大な影響を及ぼしていることは明らかである。

蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの虜になつてゐた。自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの望みのない恋の燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらずどんな危瞼と引きかヘにしてもよい痛烈な快さになつてゐた(中略)

実際蓼科の役目は聡子を悪から護るためにあつた筈だが、燃えてゐるものは悪ではない、歌になるものは悪ではない、といふ訓へは綾倉家の傳承する遠い優雅のなかにほのめかされてゐたのではなかつたか?

蓼科の独自性は、〈若い美しい二人〉の運命を弄ぶことに喜びを得ようとすることにあるのでなく、人間世界の「情熱の法則」に通じ、情熱の政治的力学を知り尽くしているという自負を持っていることである。清顯に優雅の典型と思われている聡子にとって優雅の指南役は蓼科であったことを忘れてはならない。優雅のいろはに長けている彼女が、一見世俗のすべてから遊離しているかのような「優雅」の裏にある「血まみれなもの」を知悉している「血まみれなものの専門家」であることは強調してもしすぎることはない。「血まみれなもの」の源流であり、「暗い熱い血と肉にひしと包まれた形而上的な何か」である無言語的領域の子供を宿した聡子は既に蓼科の世界の住人である。つまり、蓼科は優雅のなかにある身体の世界に通暁している無言語領域の人物なのである。

そのような蓼科によって引導を渡された清顯が、密会を通して、「かねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めてゐる」ことを知ることになるのは時間の問題であった。清顕の情熱の噴出はいわばこの身体の世界の住人である蓼科の導きによって行われたという他はない。

一方、「奔馬」においては、禊の錬成会を飛び出した勲の行動を「素盞鳴尊」に比され、「荒ぶる魂」だと慨嘆される場面からいって、飯沼勲自身身体の世界に親しんでいることはまちがいない。「奔馬」がこうした身体の世界「荒魂」を描こうとした作品だと言っても過言ではない。

「どうして帰らんのだ。これだけ言はれても、まだわからんのか。」

と勲は叫んだが、これに応ずる声は一つもなく、しかも今度の沈黙はさつきのとは明らかにちがつて、何かの闇の中から温かい大きな獣が身を起こしたやうな感じのする沈黙だつた。勲はその沈黙に、はじめてはつきりした手応へを感じた。それは熱く、獣臭く、血に充ち、脈打つてゐた。

死を賭した決起に参加するかどうかを試す最も重要な場面であるだけに、参加の反応を〈獣〉と比喩し、〈熱く、獣臭く、血に充ち、脈打っていた〉という「獣」的イメージで表現していることは、「奔馬」の世界が身体的世界であり、無言語の領域でることを物語っている。本多が「暁の寺」において、「民族のもつとも純粋な要素は必ず血の匂ひがし、野蛮な影がさしてゐる」と回想している場面は、飯沼勲が体現している身体の世界・無言語領域を的確につかんでいたと言わなければならない。従って、勲の考える「純粋」は「匂やかな桜の花」の観念と「血みどろの屍体」、「切腹の観念」とを直結させたものであるが、これは清顕が「優雅」の観念を「血みどろの実質」と見るのとはまったく同質のものといえよう。この結び付きようのない対蹠的な観念をみごとに結び付けることのできるキーワードは身体の世界・無言語領域以外にはない。

    ③ 「源流」意識

三島由紀夫は、神風連の事績を、

神風連といふものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離といふのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神といふもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだつたと思ふのです。

(「対談=日本人論」・番町書房・昭和41・10)

と述べ、手段と目的とが一致する希有な運動であるとして、

三島 〈中略〉絶対者に到達することを夢見て、夢見て、夢見るけれども、それはロマンティークでもあつて、そこに到達できない。その到達不可能なものが芸術であり、到達可能なものが行動であるといふふうに考へると、ちやんと文武両道にまとまるんです。到達可能なものは、先にあなたのおつしやつたやうに死ですよね。それしかないんです。だけど芸術の場合は、死が最高理念ぢやないんですよ。芸術といふのは、もうとにかく生きて、生きて、生き延びなければ完成もしないし、洗練もしない。だけど行動となると、十八歳で死んだつてよいんだからね。そこで完成しちやふ。ぼくは、ただ為すこともなく生きて、そしてトシを取つていくといふことは、もう苦痛そのもので、体が引き裂かれるやうに思へるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家である生きがひなんだと思ふやうになつたんです。

(「三島由紀夫 最後の言葉」前掲書)

と行動と芸術の違いが述べられてはいるものの、政治的というより芸術的なものといっていることに注意しなければならない。手段と目的が乖離しなければ、その分、行動はしやすくなる。「奔馬」は勲を通して、そのことを示すことになる。「ファナティックな日本精神の純粋実験」という言葉は、「神風連史話」と勲の関係からしても、「奔馬」作品そのものが「ファナティックな日本精神の純粋実験」を試みたものであるといえよう。

 この「ファナティック」なものへの嗜好は、

三島 どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きで仕様がない、うんとファナティックな、蒙昧主義的な、そういふものがとても好きなんです。それがぼくの中のディオニソスなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいふべき破壊衝動につながつてゐるんです。

「いまにわかります」(『図書新聞』昭和四十五年十一月十八日)

とあるように、根深いものであり、『豊饒の海』の主人公はもとより、ほとんどの登場人物が〈破滅衝動〉に突き動かされるのも無理のないことである。

三島 昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(新潮)連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

三島 (中略)それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二十六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。

(『毎日新聞』昭和四十二年十月二十一日)

この「源流」意識と密接に関わっているのである。身体の世界といい、その世界の無言語領域というのはまさに「源流」意識そのものであるからである。

    ④ 現世離脱

 「春の雪」の「何か」を待ち望む心象は、何の変哲もない日常への脱出願望であることは論を待たない。無意志・無感動の清顕の性格付けはこの願望の対比として設定されたものと思われる。こうした志向は、現実的な規範、制約から遁れることで、初めて獲得しうる至福の世界を希求してやまない。そこでは、一切の行為が、それを規定する現実世界、社会制度等による汚れを蒙ることなく、もっとも純粋な結晶となりうるからである。死を賭しての至福世界への到達といったところで、それは、そもそも徹底した現実忌避によってのみ辛うじて支えられるという性質のものにすぎない。

このように、現実からの離脱のみが強調され、その結果その離脱の過程そのものがこの小説のストーリーとなるのである。

柴田勝二氏がすでに述べていることだが、

清顕は聡子との関係を深めることによって、さらに彼岸的な場所に自己を追いやっていくことになる。その時にこの作品は世俗からの離反の物語としての姿を現すことになるのである。(中略)もともと聡子は優雅という価値を媒介させて天皇の彼岸性へとつながっていく人間であったが、さらに現実世界に域外へ自己を追いやっていくのである。(「優雅の行方―三島由紀夫『春の雪』論―」『日本文学』平成一〇・九)

「彼岸」への志向こそ、初期構想で三島が語っている「ニルヴァーナ(涅槃)」を示している。「春の雪」における「ニルヴァーナ(涅槃)」は、時には〈情熱〉に点火しうる「感情」という「とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない」無言語の世界を通して達成されたものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。

『豊饒の海』の勲が身体の世界の住人であることは、

勲はそこに、この薄暗い電燈の下、黴くさひ畳の上に、自分の焔の確証を見た。頽れかけた花の、花弁は悉く腐れ落ちて、したたかな蕊だけが束になつて光りを放つてゐる。この鋭い蕊だけでも、青空の眼を突き刺すことができるのだ。夢が痩せるほど頑なに身を倚せ合つて、理智がつけ込む隙もないほどの固い殺戮の玉髄になつたのだ。

とあるように、反理智の立場に立っていることからも窺える。かつて寺田寅彦が「頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからであるけがを恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がいい人は戦士にはなりにくい。」(「鉄塔」・昭8)と述べた文章を持ち出すまでもなく、本多のように理智的であればあれば行動の障害になるからである。

飯沼勲の世界がまさしく手段を弄せず、ファナティックに、そして動物的に行動をする無言語の世界であったからこそ、

社を背にして立つ勲のまはりに、二十人の若者が集まつた。勲はそれらの無言の目が、等しく夕日を受けて燃え立つて、身も心も天外へ拉し去つてくれる灼熱した力を翹望して、自分につかみかかろうとしてゐるのを感じた。p211

とあるように、決起の仲間に〈無言の目〉で見守られながら〈身も心も天外へ拉し去つてくれる灼熱した力を翹望〉することができるのである。〈身も心も天外へ拉し去つてくれる〉への〈翹望〉は、公判の最後の陳述において、「一身の利害」を超えて、「身一つで天に昇ればとよい」と答えていることからも、いわゆる昇天願望がより強く打ち出されている。この身体的世界を通して達成される昇天願望こそ、三島が語っている「ニルヴァーナ(涅槃)」の問題と大きく関わるものである。いわば、川端康成の「ニルヴァーナ(涅槃)」が平面的であるのに対して、三島のそれは直線的であるのである。

このように、『豊饒の海』第一・第二巻は、理屈で割り切れぬ、内部から発するものに突き動かされる人間の内面劇として、きわめて輪郭の明らかな小説になっている。

   二 「春の雪」「奔馬」における「ニルヴァーナ(涅槃)」

それにしても、三島が語った「ニルヴァーナ(涅槃)」は一般に理解されていることとは違って、彼独特の「ニルヴァーナ(涅槃)」観であるように思われる。ここにニルヴァーナという言葉を使っている「谷崎潤一郎」論の次のような文章がある。

谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかつた。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。

この文章は谷崎を〈長寿〉型の作家として、その秘密を解き明かそうとしたものである。三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいる。谷崎の本質というものは谷崎の〈長寿〉が〈老い=死=ニルヴァナ〉という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いている。つまり、三島が谷崎を通してみた〈ニルヴァナ〉は、己の本分を尽くし、しかるべきところに落ち着いた先に到達されるものであるということである。従って、『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」とは、各巻の主人公が「劇的空間」を各人の性向のままに生き抜き、それがそのままニルヴァーナ(涅槃)であるということである。

このような「ニルヴァーナ(涅槃)」観を実際の『豊饒の海』に当てはめるとどうなるか。松枝清顕の場合は、落飾した聡子に「死を賭して」会おうとした結果、ついに病に倒れた折、

   清顕はすでに自分を、松枝家という岩乗な一族の指に刺さつた「優雅の棘」だとはさらさら考えなくなつてゐた。さりとて自分も亦、その岩乗な指の一本に他ならぬと、思い直したわけではない。彼がかつてわが内に信じた優雅は涸れ果て、魂は荒廃し、歌の原素となるやうな流麗な悲しみはどこにもなく、体内をただうつろな風が吹いてゐた。今ほど優雅からも遠く、美からさへ、遠く隔たつた自分を感じたことはなかつた。

しかし、自分が本当に美しいものになるとはそのやうなことだつたかもしれない。こんなに何も感じられず、陶酔もなく、目の前にはつきりと見えている苦悩さへ、よもや自分の苦悩とは信じられず、痛みさへ現の痛みとも思はれぬ。それは何よりも癩病人の症状と似通つていた、美しいものになるといふことは。

という境地に至る。この境地は感情に生起するすべての計らいを喪失した状態を示している。感情を唯一の手がかりにした清顯がそのとらえどころのない感情を放し飼いにし、本能のままに生きた証である。〈美しいものになるとは〉という言葉は感情の戦場でつかみ取った「ニルヴァーナ(涅槃)」ということになる。従って、「奔馬」の有名な最後の場面は、勲の行為の戦場で勝ち取った「ニルヴァーナ(涅槃)」の世界である。

勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突つ込んだ。

正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫変と昇つた。

飯沼勲の場合は、意のままに生き抜いた果てにつかんだ瞬間で、死と引き換えに幻視することができた〈日輪〉=「ニルヴァーナ(涅槃)」であったといえる。

 

(その3に続く)


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