【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方―

2000年12月01日 10時55分00秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究 」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

           永田満徳

―目次―

序章 『豊饒の海』における内と外

第一章 世界解釈の小説

 一 『豊饒の海』の自注自解

 二 世界解釈と人間の活動

第二章 作品外の現実

 一 不如意な現実

 二 不如意さからの脱出

三 政治活動の意味

四 初期構想の急変の謎

第三章 『豊饒の海』の作品世界

 一 『春の雪』論―感情とその行方、及び『奔馬』論―行為とその行方

 二 『春の海』『奔馬』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

 三 『暁の寺』論―認識とその行方

 四 『天人五衰』論―自意識とその行方

 五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

終章  三島由紀夫の晩年

 

【目的】

本文は三島由紀夫の畢生の長編小説『豊饒の海』第四巻をひとつの作品として論じたものである。早熟の才能をほしいままにしてきた三島が精魂を傾けて書き上げた作品である。三島の集大成的な意味を持つばかりではなく、近代小説の一つの到達点を示す意味でも重要な作品である。自注自解の内容を踏まえながら、作者の意図を探ってみたい。

【要旨】

【序章】「『豊饒の海』における内と外」

   つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は実に実に実に不快だつたのである。(中略)一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

(「小説とは何か」『波』第十五号・昭和四十五年五月)

「暁の寺」脱稿後に不快感を表明し、「作品外の現実」と「作品世界」とに分けていることから、この時期に活発化してくる、いわゆる政治活動と『豊饒の海』という作品との内外を視野に入れて考察すべきである。

【第一章】「世界解釈の小説」

 一 『豊饒の海』の自注自解

作品理解の基礎的作業として自注自解の内容を検討してみると、

三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

とあるように、『豊饒の海』は作家になって以来考え続けてきた〈世界解釈〉を意図したもので、最終的には唯識論哲学の元に「ニルヴァーナ(涅槃)」に到達する物語であることがわかる。ただ、初期構想では「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、言はば『たおやめぶり』あるひは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は檄越な行動小説で、『ますらおぶり』あるひは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾチックな色彩的な心理小説で、いはば『奇魂』、第四巻(題未定)はそれの書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれてゆくもの、といふ風に配列」(「『豊饒の海』について」)することを考えていた。しかし、この構想が破綻を来たしているのは第三巻「暁の寺」からで、特に第四巻「天人五衰」は、初期構想とおよそ懸け離れた自意識過剰な主人公安永透が登場している。

 二 世界解釈と人間の活動

三島のこの意図は、

Ⅰ 身体 A 動物的・即物的・無言語=無意識的         身体の世界=無言語領域    

Ⅱ 心  B 記述的・分別的                  心の世界=有言語領域

     C 間主観的・二項対立的

     D 逆説的・詩的

Ⅲ 魂  E 非二項対立的・非二元的・無言語的・超個的・超意識的  魂の世界=無言語領域

という高尾利数氏(「ブッタとは誰か」・柏書房・二〇〇〇・三)の人間の活動のモデルが参考になるばかりではなく、この人間の活動そのものを描くことにあった。

【第二章】「作品外の現実」

 一 不如意な現実

〈肉体〉の不如意を克服し、身体の世界、つまり無言語領域を垣間見た三島にとって、新たに乗り越えなければならない心の世界、〈老い〉の不如意、そして〈裏切り〉の課題が浮上してくる。一言で言えば、「暁の寺」の、

生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているやうなものだつた。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。

と言う一節に尽きる。老いや裏切りなどの〈不如意な現実〉に苦しむ作家像が浮き彫りにされる。

 二 不如意さからの脱出

創作も含めた心の世界を地で行きながら、その世界からの脱出を「葉隠」・唯識思想や身体の世界に誘う自衛隊の体験などに急速に接近していくことで、精神的危機の回避を図ろうとした。

三 政治活動の意味

かくて集団は、私には、何ものかへの橋、そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだ。               (「太陽と鉄」『「批評」」・昭和四十年十一月)

四 初期構想の急変の謎

やがて楯の会の先鋭化とともに三島の精神もまた閉塞化していくことになるが、そのような作品外の活動が『豊饒の海』の初期構想の変更に影響を与え、作品外の精神状況が登場人物の造型に投影することになった。

【第三章】「『豊饒の海』の作品世界」

各巻のキイワードを人間の活動のモデルに当てはめると、『豊饒の海』はまさしく人間の活動の記録である。

 一 『春の雪』論―感情とその行方、及び『奔馬』論―行為とその行方

「春の雪」の清顯の感情や「奔馬」の勲の熱意が物語の展開上重要であり、清顕の死への情熱は〈何か〉を媒介とするものであるのに対して、勲の死への熱意は最初から明確に存在するものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」を持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。〈何か〉という漠然とした期待が明確な意志へと変わるところに第一巻と第二巻においての最大の違いがある。

三島 昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(新潮)連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

三島 (中略)それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二十六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。(『毎日新聞』昭和四十二年十月二十一日)

この両者に通底している身体の世界とその無言語領域である「血まみれ」「血みどろ」といった源流意識が清顕や勲の成算を度外視した行動に走る原動力であった。『豊饒の海』第一・第二巻は、理屈で割り切れぬ、内部から発するものに突き動かされる人間の内面劇として、きわめて輪郭の明らかな小説になっている。

 二 『春の海』『奔馬』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかつた。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。(「谷崎潤一郎」論)

「劇的空間」を各人の性向のままに生き抜き、それがそのままニルヴァーナ(涅槃)であるということである。

 三 『暁の寺』論―認識とその行方

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。

「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

一部で詳述されるインド体験の中で特に重要なベナレスで感じた「つねに目前にくりかへされる自然の事象」である輪廻転生というのは、死が完全な終わりであることを意味せず、生の絶対的一回性を大きく相対化するものである。ここに三島が仏教の空観と相対主義を結びつける理由がある。

現在のこの世界は、本多の認識が作つた世界であつたから、ジン・ジャンも共にここに住んでゐた。唯識論に従へば、それは本多の阿頼耶識の創つた世界だつた。

「暁の寺」では、心の世界、有言語領域の典型である本多の認識に焦点が当てられる。本多繁邦の認識の世界は清顕や勲とはまったく対照的で、徹頭徹尾理性、知性、理智の世界、つまり心の世界である。「たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されていない現実は執拗に認めまいとする頑なな心」をもつ「癖」があり、「一旦理知をとおすことなしには、決して外界に接しない性質」を持つかぎり、理智の世界から抜き出すことができないといってよい。その認識の呪縛とその脱出や癒しに努力するにもかかわらず、認識という心の世界とその有言語領域の限界に気づき、無言語領域と有言語領域との対立が決定的となる。

 四 『天人五衰』論―自意識とその行方

本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

   本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

      (「バルタザールの死」「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

この「天人五衰」の構想に関するコメントにはある共通する語感が含まれている。前者は〈解達〉であり、後者は〈ニルヴァーナ〉であって、ともに仏教思想に淵源する概念である。三島由紀夫はあきらかに登場人物のいずれにも仏教的な世界に昇華する役割を担わせていると言っても過言ではない。

「天人五衰」は、登場人物のすべてが〈自意識〉のもたらす悲喜劇に翻弄され、究極的には同じ本多家の住人になることになる本多繁邦・秀・絹江の三者の物語ということになろう。登場人物が涅槃の中に入るという初期の構想は、透にしても、絹江にしても、〈自意識〉の呪縛から、例えば透のように盲目となることによって断ち切り、絹江のように自殺未遂によって〈自意識〉を逆手にとって解脱、言い過ぎであれば、その契機をつかんだと見てよい。しかしながら、本多は老いて死の認識によって解脱の端緒を他の二人以上に直接的につかむが、結局は〈自意識〉をあらわにするだけである。このように自意識を手掛かりにすると、「天人五衰」は登場人物の自意識からの脱出とその果てに、有言語領域の徹底化された世界を描き出したものであることがわかる。

 五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

三島由紀夫の自注自解の中で特に触れられることの少なかった『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」とは、無言語領域、有言語領域の違いこそあれ、人の生を一つの枠に見立てて、その中での各種の生き様をさぐり、その徹底化の果てに見えてくる清顕・ジンジャンの彼岸、勲の昇天、本多・透の認識の無を描くことにあったといわなければならない。これこそが世界解釈とその行方に他ならない。

【終章】「三島由紀夫の晩年」

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉體の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉體が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉體が訪れたが、その肉體は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。  (「太陽と鉄」『「批評」」・昭和四十年十一月)

三島の晩年は、無言語領域と有言語領域との対立の中で、「作品世界」では有言語領域の侵犯というかたちで幕が下ろされ、「作品外の現実」では無言語領域への参入というかたちで終焉を迎える。三島の晩年に浮かび上ってくるのはこの二種対立する言語領域に佇立する文学者の肖像である。

 

〔本文〕

 序章 『豊饒の海』の内と外

 三島由紀夫の畢生の長編小説『豊饒の海』第四巻は、その第一巻「春の雪」が昭和四十年九月号に雑誌『新潮』に連載され始めて、ちょうど第二巻「奔馬」の四十二年二月号の連載と見合うかたちで、いわゆる政治活動の走りとも言うべき自衛隊への体験をその年の四月十一日に果たしている。そして、昭和四十五年十一月二十五日は最終巻「天人五衰」の擱筆の日付と自決の日付とが一致していることは周知の事実である。これは三島由紀夫の晩年はこの『豊饒の海』の執筆と政治活動を抜きにしては語れないことを示している。この両者の関係を如実に述べているのは、昭和四十五年五月発行の『波』第十五号の「小説とは何か」という文章である。

 つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は実に実に実に不快だつたのである。(中略)一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

三島は最終行動の実行へと専心しつつあったが、自決の前日まで、『豊饒の海』を執筆していて、決して文学活動を放棄したわけでなかった。この作品内外の相克は実に恐るべきものがあったろう。『豊饒の海』を書くことは、作品内外の「二種の現実の対立、緊張」(「小説とは何か」)を作り出すべく努め、そこに身を置いて書くのを常としてきている三島由紀夫にとっても、「今度の長篇を書いてゐる間ほど、過度に高まつたことはなかつた」(「同右」)というように、なお一層対立、緊張を強いるものであった。それでも、第二巻「奔馬」では、それがうまく噛み合っていた。「怖いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと、事実の方が小説に先行することもある」(小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』構想社・昭和五十五・五)とあるように、「楯の会」の結成、およびその活動と「奔馬」の内容とは不思議に噛み合い、見事に相乗効果を上げて進んでいたから、「奔馬」の執筆時はむしろ精神的には高揚していて、作品内外の分裂はそれほど気にならなかったにちがいない。しかし、第三巻「暁の寺」の執筆を初めて間もなく、作品内外の均衡は崩れていくことになる。このことは〈実に〉という言葉を三度も使って強調しなければならなかった〈不快〉感とは無関係ではない。この「暁の寺」脱稿後の不快感は世界解釈の意図のもとに書かれようとしている『豊饒の海』という作品が残り、「作品外の現実」が「紙屑」になってしまったことに対しての言葉である。ここには明らかに「作品世界」と「作品外の現実」とはそれぞれ別のものとして捉えられている。「暁の寺」脱稿後に、この両者をことさら区別して考えなければならない事情が三島にあったということである。つまり、この事情は三島由紀夫の晩年を、『豊饒の海』の執筆過程と政治活動の軌跡という作品の内と外=〈二種の現実〉を視野に入れて考察すべきことを示唆している。

  第一章 世界解釈の小説

 一 『豊饒の海』の自注自解

『豊饒の海』については三島自身多くのことを語っていて、各々の論者は自注自解の役割をするこれらの文章を自分の論に必要な部分のみ拾い出してつまみ食いするといった具合である。三島の自注自解の文章を素直に受け取り、そのすべての言説を作品と照らし合わせて、その異同を明らかにした論がいまだにないのが不思議である。もちろん、作者が意図を超えた読みの大切さがわからないでもないが、作者の作品解説と作品との関係を考察することは作品理解の基礎作業として必要なことではないか。従って、作品の考察は自注自解を跡付けていくことになる。

 三島由紀夫は「『豊饒の海』について」毎日新聞・昭四四・二・二六)のなかで、「小説家になつて以来考えつづけていた『世界解釈の小説』が書きたかつたのである。幸ひにして私は日本人であり、幸ひにして輪廻の思想は身近にあつた」と述べている。それが『豊饒の海』で、輪廻思想を頼りに世界解釈の小説を書こうとの意気込みで書かれていることはまちがない。いずれも雑誌『新潮』に連載された。第一巻「春の雪」が昭和四十年九月号から四十二年一月号までの十七回、第二巻「奔馬」が昭和四十二年二月号から四十三年八月号までの十九回、第三巻「暁の寺」が昭和四十三年九月号から四十五年四月号までの二十回、第一巻から第三巻まで一度も中断することなかった。第四巻「天人五衰」は連載中初めて二ケ月の休みを置いて、昭和四十五年七月号から四十六年一月号まで七回掲載された。

 では、どのような世界解釈の小説を書こうとしたのか。三島由紀夫自身の解説を見てみたい。

三島 〈中略〉それはいま書いてゐる「豊饒の海」のモチィーフでもあるんで、あの作品では絶対的一回的人生といふものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説なんです。

 三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。       (「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

三島 一番考へてゐたのは、第二巻(「奔馬」)なんか、国家主義運動みたいなのが出てくるでせう。それだけで反発する人がゐますけれど、三巻まで読んでほしかつたんです。といふのは、現世の人間がこれが極致だと思つて考えへたことが、三巻で空観のはうへ、空のはうへ溶け込まされちやうふ。その残念無念といふのは、書いてる人間も残念無念。それを設定するにはどうしても戦前の日本ですね。そこに第一巻、第二巻を放り込んで、第三巻で、空が一度生じたら、それからあとはもう全部、現実世界といふのはヒビが入つてしまふ。現実世界の崩壊と、戦後世界の空白とが、これもまた次元がちがひますけれども、それが一種のメタファアになるといふふうにして書いていきたかつたんです。

三島 僕にとっても、戦後世界といふのは、ほんたうに信じられない、つまり、こんな空に近いものはないと思つてゐるんです。ですから、仏教の空の観念と、戦後に僕が持つてゐる空の観念とがもしうまく適合すればいいんですけれどもですね。小説としてはもう完全に下り坂になるわけです。そこからはもう「絶対」も何にもない。

三島 それを僕は四巻で主人公を悪魔的な、小悪魔ですけれども、さうしたんです。それ以外にないやうな気がしたんですね。しかし、それも成功するかしないかわからないんです。つまり、非常に僕は姑息な手段だと思つてゐるんですよ。つまり、空を支へるのが、空観といふ形で、悪魔の仕業のやうに考へるわけね。             (「文学は空虚か」『文芸』・昭和四十五年十一月)

第一巻「春の雪」と第二巻「奔馬」では〈現世の人間〉の〈極致〉とされる〈絶対的一回的人生〉を送る主人公たちが登場し、第三巻「暁の寺」では戦後世界が持っている空の観念と仏教の〈空観〉とを一致させることによって戦後世界の空白と現実世界の崩壊とが一種のメタファアとして描かれ、第四巻「天人五衰」では第三巻の延長線上にあって、小悪魔的な主人公が登場し、空観を体現しながらカタストローフに至るというのである。

ただ、初期構想では「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、言はば『たおやめぶり』あるひは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は檄越な行動小説で、『ますらおぶり』あるひは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾチックな色彩的な心理小説で、いはば『奇魂』、第四巻(題未定)はそれの書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれてゆくもの、といふ風に配列」(「『豊饒の海』について」)することを考えていた。しかし、この構想が破綻を来たしているのは第三巻「暁の寺」からで、特に第四巻「天人五衰」は、

本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

 この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。 本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

    ( 「バルタザールの死」「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

というもう一つの初期構想ともおよそ懸け離れた自意識過剰な主人公安永透が登場している。それでも、三島は、次のような発言を繰り返している。

三島 〈中略〉それはいま書いてゐる「豊饒の海」のモチィーフでもあるんで、あの作品では絶対的一回的人生といふものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説なんです。

三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

(「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」前掲書)

第一巻「春の雪」・第二巻「奔馬」と第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」とを大きく隔てるのは戦前と戦後だが、絶対主義と相対主義との相違も企てられている。最終的にはその最高の相対主義である唯識論哲学に溶解し、いずれもニルヴァーナ(涅槃)に到達する小説であると言い張っている。この自注自解が「最後の言葉」と銘打ってあることもさることながら、結末部は昭和四十五年八月に書き上げられていたということであるから、『豊饒の海』の結末部がすでに決定されていた時点での弁であることは留意していい。

   二 世界解釈と人間の活動

各巻は主人公が二十歳で死ぬまでの数年間に限定されていて、その限られた空間をあたかも短距離走者が駆け抜けるように生き抜く「劇的な時間」が明確に打ち出されている。その「劇的な時間」をいかに生き抜くべきかが『豊饒の海』に課せられた課題であったろう。そういう意味では、『豊饒の海』がニルヴァーナ(涅槃)に到達する小説であるという三島の主張は首肯できる。高尾利数氏の「ブッタとは誰か」(柏書房・2000・3)を参考にして言うならば、『豊饒の海』はまさしく人間の活動のモデルを示そうとした作品であるからである。

高尾氏によれば、人間の活動は、

Ⅰ 身体 A 動物的・即物的・無言語=無意識的         身体の世界=無言語領域    

Ⅱ 心  B 記述的・分別的                  心の世界=有言語領域

     C 間主観的・二項対立的

     D 逆説的・詩的

Ⅲ 魂  E 非二項対立的・非二元的・無言語的・超個的・超意識的  魂の世界=無言語領域

の三段階に分類される。この分類は、高尾氏によれば、次のように説明される。

Aのレヴェルはまだ言語が発生していない段階で、ちょうど人間以外の動物の世界といってよい。何が何だかわからない状態で、何の区別のつかず、当然ながらまだこの意識もない言語以前の世界なのである。Bのレヴェルでは「記述的」と呼ぶのが適切で、ここで初めて「言(事)分ける」ことができるようになり、仏教でいう「分別の言葉」である。この言葉は人間が次第に成長して意識を持つようになり、記憶が生じ、その結果いろいろなものを区別することができるようにならなければ生まれてくるものではないから、Cのレヴェルである「心あるいは知性」が生じてきた段階でしか発現しない。このレヴェルは言うまでもなく、定義上客観と主観とを分け、二項対立的な言葉で表現する有言語の世界である。DのレヴェルはCとEのレヴェルとの間に位置するもので、Cの叙述的有言語の世界がどうしも分別・対立・区別の相にあるために、Cのレヴェルの言葉で心や知性を越えるEの段階を表現しようとすれば逆説であったり、あるいは極端に象徴的であったりして非日常の言葉を用いるほかはないという世界である。最後にEのレヴェルであるが、このレヴェルの世界は単なる知性や悟性では捉えられないもっと高くて深い相である。禅宗では「不立文字」などというように、いわゆる分別知というレヴェルを乗り越えた「魂」の段階なのである。

ここで注目したいのは、AとEとがともに無言語領域であることである。

そもそも病弱で自家中毒症状を呈し、級友たちから「アオジロ」と呼ばれ、腺病質で痩せこけていた少年期の三島にとって、自意識過剰で、自尊心が人一倍強かったがゆえに、肉体的劣等感は想像以上であったことだろう。その極みは兵役検査で不合格になったことであった。ボディ・ビル、ボクシング、剣道へと進むのも、兵役検査で不合格の烙印を押されたというという屈辱の反動であったことはまちがいない。驚くべき克己によって、貧弱な肉体は運動神経だけはあいかわらず欠いていたものの、頑健な肉体へと著しく変貌した。ボディ・ビルを始めてわずか一年で「薄紙を剥ぐやうにこの肉体的劣等感は治つて、今では全快に近い」(「ボディ・ビル哲学」『漫画読物』昭三一・九)と書くまでになっていた。年齢には関係なく、過激でない運動はということで剣道ひとつに絞っていきはすれ、肉体ほど不如意なものはないという考えは遠い過去のものとなっていた。このような文筆活動以外の身体の世界の経験に基づいて「肉体」の世界における「語りえぬもの」、つまり無言語領域を畢生の作品『豊饒の海』で表現したいと強く思ったにちがいない。というのは、井上隆史氏の言葉(「『豊饒の海』における世界解釈の問題」『國語と國文学』平成六年9月号)を借りれば、「言葉以前の領域」にまでも遡り、「未だ混沌たる世界における生の多面性」を「統一的世界像を打ち出すことができれば、それによって一つの世界解釈が成し遂げられる」からである。それは作品外の活動においても、作品内においても、〈世界解釈〉のできる位置を見定めることができる自負に支えられていたと思われる。三島の生そのものが世界解釈であったといってもいい。

第二章 作品外の現実

    一 不如意な現実

肉体的劣等感を克服し、身体の世界、つまり無言語領域のすばらしさを垣間見ることによって肉体の不如意の問題を解決した三島にとって、新たに乗り越えなればならない心の世界の課題が浮上してくる。それは老いに対する不如意であった。かつて拙論「三島由紀夫の〈老い〉の問題」(『方位』・一九九四・九)の中で、〈老醜〉に対する嫌悪感の根を乳幼時期祖母の病室の中で過ごした経験にもとめ、「この経験は乳児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、『人間がもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきである』という認識を育てた」とまとめて、この時期、特に昭和四十二年頃に〈老醜〉に対する決別を決意したと指摘したことがある。「天人五衰」には〈老い〉というものが最も多く記述され、最もその課題が示されているのは、「老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間といふもの、どんな喜びのさなかにも絶えず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた」からである。ここでも〈老い〉は〈不如意〉とまったくの同義語として扱われている。

三島由紀夫にとって不如意な現実はこの〈老い〉というものばかりではなく、一連の事件もあった。昭和四四年夏頃に合い次いで起こった「楯の会」脱会事件、つまり『論争ジャーナル』の共同創設者だった中辻和彦が他の数名の会員とともに脱会したあと、その一週間後には早大生で「日学連」と呼ばれた右翼的学生組織の中心人物、昭和四三年三月から三十日までに同じく滝ヶ原分屯地にて行った体験入隊の学生隊長を勤め、右腕的存在であった持丸博が脱会したことは少なからず〈裏切り〉の問題を三島に突き付けずには置かなかった。拙論「『蘭陵王』論」(『方位』・一九九〇・七)で触れているように、結尾の一文にその影響が認められる。「奔馬」では裏切りのため大きな挫折を強いられ、獄中に繋がられた主人公が「人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起つて、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだらうか?」と述懐していることも無視できない。「剣」(昭和三十八年)でもこの種の裏切りが重要な鍵となっていることからも、〈裏切り〉という問題は三島にとっては決してないがしろにできないものであることを物語っている。梅津齊氏もまた、まさしく「『裏切りの季節』―三島由紀夫の変容」と題した論文(「方位」・二〇〇〇・三)のなかで、詳しくはその論文に譲るとするが、これまで述べられることの少なかった演劇面からこの「『挫折』 や『裏切り』 というキーワード」で三島由紀夫の晩年を切り込んでいる。福島次郎氏の「三島由紀夫―剣と寒紅―」(平成十年三月)によると、「三島さんが、死ぬ直前に、『自分は、親しくしていた数人から、一度に裏切られた』ということを、激越な文章で東京新聞に書いていると雑誌で読んだときに、やっぱりという気持がした」という。というのは、三島との関係を偽名で本人には見せない約束で『日本談義』に発表したのを荒木精之が三島に送っていたことがわかり、そのころから三島の表情が険しくなったそうだが、その原因を自分の裏切りに求めているからである。ことの真偽はどのようであるとしても、この当時の三島周辺には〈裏切り〉というままならぬ現実が渦巻いていたのである。この不如意な現実の葛藤こそ、心の世界とその有言語領域での出来事であったといえよう。

このような〈肉体〉や〈老い〉の不如意、そして〈裏切り〉を一言で言えば、「暁の寺」の、

   生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているやうなものだつた。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。

という一節に尽きる。この一節は、〈人間存在〉の〈不如意〉という現実に直面しながら、「文」と「武」の間の「極度のコントラストと無理強ひの結合」(「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」『サンケイ新聞』・昭和四十五年七月七月日)を過激に実践し、泥沼のような状況になり、悪戦苦闘する事態に陥っていた当時の三島の状況とみごとに符合していると言わなければならない。

二 不如意さからの脱出

 そうはいっても、当時の三島由紀夫をこと細かく検証してみると、この人間存在の不如意に対処するのに本人自身が自覚的であったかは定かではないが、いくつかの努力が払われていたことがわかる。

 まずは、昭和四十二年九月に「葉隠入門-武士道は生きている」(光文社)を刊行していることである。「戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるぺージを読んで感銘を新たにした本といへば、おそらく『葉隠』一冊であらう」と述べているほどの本である。三島はその説明で「合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ自分の目を向けさせるといふ機能を営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ暴発力を内攻させたものに化してゆく過程を示している。死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである」と述べている。〈死〉という生の遮断によって保障される精神の自由を「精神衛生の大切な要素」に数えている。三島好みの逆説といえばいえるが、しかしこの逆説に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という有名な一句に対する彼ならではの解釈が窺える。そして、いみじくも田中美代子氏がその「解説」で「三島由紀夫は、何にもまして思索の人、観念の人であった。それ故、その果て知れぬ思念の深海の水圧に耐えかねて、時には自己を軽やかな外気に向かって解き放ちたいと願った」と言っていることから、『葉隠』への親近は、〈精神衛生〉の上からも、〈自己を軽やかな外気に向かって解き放ちたい〉という気持ちからも必要であった。実はこの『葉隠』について、ステイシ・B・ディは精神医学の立場から、「『葉隠』の基盤をなす心理精神的力は、副交感神経的様式のものであり、単に二十一世紀を生き抜くための英知であるばかりでなく、日本のみならず、西洋、その他の地域でも過去五十年の間、意識的であれ、無意識的であれ、抑圧されてきた文化を解放し、すべての若者に対し教育上の有益な門戸を開き、それを向上させるための英智でもある」(「西洋から観た『葉隠』の驚異」『葉隠シンポジウム』葉隠研究会・平成四年十一月)と述べて、『葉隠』に副交感神経的働きを認め、〈抑圧されてきた文化を解放〉するものであるという、驚くべき見解を示している。実践行動の行き着く先に「死」を覚悟する知行合一の哲学「陽明学」などを推奨して行くのも、それらが「葉隠」と同じく、副交感神経的様式の思想であったからである。

そして、「葉隠」などと同じように心の均衡に寄与したものに、「大乗の深層心理学」と呼ばれる「唯識」思想が挙げられる。三島が死を決意したのはいつなのか定かではないが、自衛隊の体験入隊や「楯の会」の活動等の最も切迫した只中で、死ぬことも恐れずに自然に受け入れられるようになるにはどうすればいいのかについても、説得力のある説明をしてくれる「唯識」思想に心引かれるのは当然といえば当然であったろう。この「唯識」思想が端に『豊饒の海』の輪廻転生を理論的に支えるためのみのものであれば、ドナルド・キーン氏のように、「仏教の部分は、ここにそれを絶対に加えねばならぬほど三島にとって重要に感じられたのであろう。いや、むしろ仏教を論じたこの部分こそ、三島が四部作『豊饒の海』を書かねばならぬ理由だったかもしれないのである」(『日本文学の歴史』⑮・一九九六・九)と述べて、三島が『暁の寺』において〈仏教の部分〉を重要視していること注目することはなかったはずである。確かに〈仏教の部分〉はその追求の仕方に異常すら覚える。この〈仏教を論じたこの部分こそ〉当時の三島由紀夫の精神状況の反映がある。「唯識」思想は潜在意識=深層心理を考えるフロイトなどの精神分析学の登場によって、にわかに脚光浴びるようになった。もちろん精神分析学が設定する分析装置よりも徹底しているものの、「唯識」思想の阿頼耶識が精神的治療に活用されている深層心理、無意識の問題を含んでいることから、現代の心理学者も関心を持っていることに留意する必要がある。

従って、阿頼耶識という深層心理、無意識への関心こそ、この当時の三島由紀夫がいかに精神的均衡を図らざるを得なかったかが窺い知れるということである。そしてまた、副交感神経的様式への親近は当時の三島が交感神経を高ぶらせていたことの逆証明にもなるということである。交感神経的様式が優勢である西洋文化を身をもって示しながら、副交感神経的様式が優勢である東洋文化へ接近を図っていたのである。

    三 政治活動の意味

ところで、「交感神経」と「副交感神経」という言葉は心身医学用語である。人の身体の各器官をコントロールしている自律神経は「交感神経」と「副交感神経」とに分けられるが、「交感神経」は緊張をもたらし、「副交感神経」は弛緩をもたらす働きがある。この両者がバランスよく機能し合っていれば、毎日を快適に過ごしことができる。しかしそれが何らかの事情で、一方だけが働き続けるようなことがあると、やがて自律神経失調症を招くことになる。身体の内外の刺激や環境の変化に敏感に反応するのがこの自律神経である。当時の三島由紀夫は、常に崖っぷち立たされているようなもので、副交感神経に比べて交感神経が際立って働き続けていたといってよい。そのような不安な状態で将来のことを考えるということを繰り返えせば、将来に対する思考は不安感と結合する。物事の一つの面を取る癖が一旦できあがると、どんなものでも、その面でしか捉えられないように自動化、つまり習慣化してしまうのである。「暁の寺」における破滅意識は本多の認識の反映であるとするならば、それは三島の自動化、習慣化された不安感の投影と言い換えることができる。ナチス・ドイツについて、「本来芸術に求めるべきものを、芸術では満足せず実際行為の世界に移し、生の不安を社会の不安に投影し、死との接触により生の確かめを無理やり作り出し、戦闘的行為によつて、それを証ししようとした」(「若きサムライのための精神講話」)としたと述べていることに興味を持つのは、作品との関係で生じる〈生の不安〉の処理の方法が〈社会〉に向かい、みずからの〈死〉と結び付くという、あたかも三島自身の作家工房を見せつけられた思いがすることである。

 そのような交感神経を刺激する不安な状態、つまり人間存在の不如意がますます「作品外の現実」、つまり政治活動にのめり込む契機になったであろうことは想像に難くない。というのは、「太陽と鉄」(講談社、昭和四十三年一〇月)に次のような記述があるからである。

 政治活動の第一歩である昭和四十二年五月初めての自衛隊体験で、落下傘の操縦訓練の際の「私の自意識から解き放たれてゐた」ことに始まり、訓練をすべて終えた夕方、一人で風呂に行き、宿舎に帰る途上のこと、「精神の絶対の閑暇あり、肉の至上の浄福があつた。(中略)私は正に存在してゐた!/この世界は、天使的な観念の純粋要素で組み立てられ、夾雑物は一時彼方へ追ひやられ、夏のほてつた肌が水浴の水に感じるやうな、世界と解け合つた無辺際のよろこびに溢れてゐた」と感じ、いかなる〈自意識〉からも無縁に、ただ今ここにある喜びに満たされる。それから十カ月後、富士学校での学生たちとの第一回の自衛隊体験では「肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だつた」(「同右」)とあるように、〈集団〉による〈同苦〉によって〈個性の液化〉され、〈神聖が垣間見られる〉ことを求めたことは、三島由紀夫の〈自意識〉の解放の問題を探るうえで重要な意味を持っていると言わなければならない。

   私一人では筋肉と言葉へ還元されざるをえない或るものが、集団の力によつてつなぎ止められ、二度と戻つてくることのできない彼方へ、私を連れ去つてくれることを夢見てゐた。それはおそらく私が「他」を恃んだはじめであつた。

 これもまた「太陽と鉄」の文章からであるが、自衛隊の体験によって得られる〈他〉という概念こそが〈自意識から解き放たれ〉る働きを果たしているのがわかる。「心臓のざわめきは集団に通ひ合ひ、迅速な脈搏は頒たれてゐた。自意識はもはや、遠い都市の幻影のように遠くあつた。私は彼らに属し、彼らは私に属し、疑いやうのない『われら』を形成してゐた」(同右)という心境は、思えば昭和三十一年の地元の夏祭りで神輿の担ぎ人の一員として参加し味わった陶酔と質を同じくしているといってよい。〈集団〉のもつ力を改めて思い起こす気持ちであっただろう。〈集団〉の一員となったことで、かえってあれほど苛んでいた〈自意識〉を〈遠い都市の幻影のやうに遠く〉に感じることができたのである。

 「実感的スポーツ論」(『読売新聞』夕刊、昭和三九年十月五、六、九、十,十二日)で、剣道の際に挙げる叫びを、私一個を突き抜けて得えられる〈喜び〉として、「渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには『現象』が飛びすぎ、こちらには『本質』が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと一体化することの最も危険な喜びを感じずにはゐられない」と述べている。これは初めての自衛隊体験で得た〈よろこび〉と同質のものである。そして、少年時代、あれほど嫌悪していたのにもかかわらず、いまやその叫びが好きになったのはなぜだろうと自問しながら、「思ふに、それは私が自分の精神の奥底にある『日本』の叫びを、自らみとめ、自らゆるすやうになつたからだと思はれる」と述べていることは、精神の〈奥底〉=〈本質〉の叫びが自己という殻を破り、「日本」という集合意識に到達する瞬間に発せられることを言い止めている。

   この叫びには近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。(中略)それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐたるところの、民族の深層意識の叫びである。このような怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰えて呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。(「実感的スポーツ論」)

と述べ、この〈深層意識〉は「日本」という集合意識の言い換えであるが、〈深層意識の叫び〉であるがゆえに、三島一個人を越えたものの〈唯一の解放〉につながることをいわんとしている。この巧みな比喩によって浮かび上がってくるのは三島由紀夫という個人の滅却である。三島にとって〈集団〉が意味あるものになり、「日本」という集合意識の存在を知ったことは、自己を越えて、他者も自分と同じ存在とみなす共同存在性が育つという「自己探求」の過程を示している。そしてこのことは、「楯の会」に傾注していく契機となり、結果的には日本回帰、天皇制への傾斜を招き寄せる素地となったと言っても過言ではない。

   かくて集団は、私には、何ものかへの橋、そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだ。(「太陽と鉄」)

 この〈一つの橋〉とはもちろん〈自意識〉とは対極にあるものであり、いわば脱自の感覚そのものである。これは近代的な自我意識を否定しようとしていることと同義である。三島の〈神聖〉的なもの、超越的なものへの志向はこの脱自の感覚とはおよそ懸隔を生じるものではないといえよう。

 このように、集団の意味の覚醒と〈奥底〉=〈深層意識の叫び〉の自覚という問題がくしくも「唯識」の深層心理的側面とも重なり合う部分を持っていることに注目しなければならない。なぜなら、自我意識のすべてを含む第七識である「末那識」を立て、さらにその奥に、究極の識、無我の流れとしての「阿頼耶識」を設定する「唯識」がまさしく自我の存在を否定する思想体系であるからである。この無我の「唯識」思想の理解と相俟って、三島の内部では超自我の必要性が否が応にも高められたとみてよい。昭和四十二年に中村光夫との対談(『人間と文学』昭和四十二年刊)で、三島は「自我固執」が「何か守る」という形の「不自然な倫理観」を「日本の近代文学全体」に与えたと批判していることからもわかるように、三島の内なる「自我」との対決のためにこの「唯識」思想を作品に取り入れたといえる。つまり、このまま自我の殻に閉じこもり、自意識だけを過剰に増殖さて行けばいずれ近代的な自我意識は根を上げて崩壊してしまうであろう。これは自意識の極限を生きた三島であればこそ、気付くことのできた自我の崩壊の未来像であり、切羽詰まった超自我への希求であったのである。

 いずれにせよ、交感神経をなだめる役目をしたものは「葉隠」や「唯識」思想ばかりではなく、このような外部への発散もまた自意識からの解放に大きく働いたということである。「唯識」思想によって自我の矮小化を知り、政治活動によって超自我の必要性を理解したことは疑いようのないことである。

   四 初期構想の急変の謎

このように三島由紀夫の晩年を見たとき、

しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

(「小説とは何か」)

と述べていることは意味深いことである。この〈しかし〉以後の言葉は、「春の雪」「奔馬」の執筆時においては「過度に高まつた」(「同右」)とはいえ、適度に保たれていた作品内外という〈二種の現実の対立・緊張の関係〉が「暁の寺」執筆中に失われ、〈作品外の現実〉が霧散してしまった無念さを意味している。「暁の寺」執筆の〈一年八ヶ月〉を年譜で見てみてもわかるように、昭和四十四年八月には三島の怒りを買い、『論争ジャーナル』の中辻、万代らの数名の会員が「楯の会」を脱退し、さらには最も信頼していた学生部長の持丸までも脱会するという経験や、一〇月には国際反戦デーで、「十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正をまちこがれて自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外された(略) 日だつた」(「檄」)という痛切な経験を味わっている。これらの経験が「作品世界」と張り合う形で拮抗していた〈作品外の現実〉を〈紙屑〉化してしまったと思われる。いうなれば〈作品外の現実〉の失望と見合う言葉である。

思えらく、何もかも三島の私費でまかなわれていた私兵集団「楯の会」が昭和初期に「死のう、死のう」と叫んで切腹をした宗教団体と類似しているのは故なしとはしない。他者が介在しない、閉鎖的な集団が辿る道筋は決まって現実と遊離し、先鋭化し、死を前提にする過激な行動で終焉を迎えるからである。祖国防衛構想の破綻に始まり、会員の離脱、少数派による行動へと向かい、果ては切腹による自決は、「楯の会」が「奔馬」で描かれた勲の軌跡と追うことになる。それは三島が現実のほうを強引に「奔馬」に引き寄せたともいえる。自らの言葉で通じる範囲の集団に狭められた「楯の会」はおのずから三島の自意識内の集団にならざるを得ない。このように「楯の会」が虚構化していったとき、まったき意味の文武両道もまた虚構化の道を突き進んでいったと思われる。「楯の会」という集団そのものが生の不如意の問題になっていったのである。「盾の会」の結束の強化を取ったとしてもどうしようもないことであり、それほど当時の三島由紀夫は精神的に追い詰められていた。それはそのとき、本人が意識していなかったとしても文武両道の名のもとで量られていた精神の均衡は崩壊していくことになる。精神の解放であった政治活動が皮肉なことに精神の抑圧になってきたのである。

この時点から、とどのつまり「作品外の現実」であった政治活動もまた人間存在の不如意の一つとして襲ってきて、どちらに行くにしても八方塞がりの状態となったことは明らかである。そのような作品内外の不如意さからくる認識や自意識の問題がまず『暁の寺』に現れ、「天人五衰」に大きい影を落とすことになった。「暁の寺」ではあるが、松本徹氏が三島「自らの認識者としての在り方を極端に肥大化させ、この世界を覆いつくさずにはおれないのである」(『三島由紀夫の最期』文芸春秋・平成十二年十一月二十五日)と指摘していることに同感するのにやぶさかではない。つまり、第三巻「暁の寺」では認識の呪縛、第四巻「天人五衰」では自意識の地獄が前面に押し出されてくることになったと考えられる。「暁の寺」も「天人五衰」も初期構想を変更してでも、本多繁邦を通してどうしても引き剥がすことのできない当時の三島由紀夫自身の精神状況を書かざるをえなかった作品だったといえる。「暁の寺」脱稿後に不快感を吐露した三島が長期連載『豊饒の海』で唯一二カ月の休みを入れて書き始めた「天人五衰」ではその主人公透が本多と同じ認識者として登場し、認識者の世界がさらに徹底化されていることは無理のないことである。

このような身体の世界と心の世界の軋轢を意識的、あるいは無意識に『豊饒の海』という作品に投げ入れていることは明らかである。

 

(その2に続く)

 

 


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