初出 「方位」25号 三章文庫 2007・3・3
『風浪』のモデルと改稿
永田満徳
一 寄贈資料
平成十九年、熊本近代文学館では、生前の多大な文学業績を讃えて、木下順二追悼展を企画し、文学講座を計画した。その文学講座の講師の依頼があり、資料を集めていたところ、木下順二から寄贈を受けた膨大な資料があるという。それは近代文学館の光岡明前館長が木下順二の資料の散逸を危ぶみ、寄贈を求めたことに応じて、およそ二年前、平成十六年十二月、木下順二自ら資料を整理し、寄贈したものである。『風浪』資料はきちんと整理され、『風浪』創作ノートと書かれた箱の中に入れていた。箱の中には『風浪』関係資料が三点(その一つは三冊のノート)入っている。
その一つは、『五十年記念 熊本班追懐録』という冊子である。その冊子の左上に「1935 福田先生より」の書き込みがある。福田先生は福田令寿氏のことで、ジェーンズの孫弟子にあたるとされる。大正十五年にまとまられた『五十年記念 熊本班追懐録』は文語体のかなり長文の文章で、海老名弾正をはじめ、ジェーンズの教え子たちから直接見聞きしたジェーンズに関するエピソードを丹念に調べ上げ、その人間像、教育内容を復元している。『熊本班追懐録』の第二章には横井小楠を淵源にする「熊本洋学校の背景」として、勤王党・学校党・実学派が手際よく紹介されている。
『風浪』というのは全体として一八七七年、西南戦争の前夜――私は元号反対論者ですから、天皇暦というのは使いたくないので、主として西暦で申します
けれど――その頃の熊本というのは、ご存じのように昔から藩の伝統を引き継いだ学校党というもの、それから横井小楠の系譜の実学党というもの、それから極右の神風連、それからジェインズの学校――これは学校党の政策の一つとしてつくられた学校ですが――その中から熊本バンドという、奉教趣意書というのを書いて花岡山でクリスト教の宣言をしたグループも出てきます。ただしクリスト教の宣言なんですけれども、奉教趣意書というのは意外に、何ていうのかな、国家意識といいますか、それが強くて宗教的要素が非常に少ない文章なんですが、とにかくそういうグループが出てきた。そういういろんな傾向のグループの、青年の群像がいろいろ悩むということを書いた芝居です、「風浪」というのは。「ジェーンズとハーン記念祭講演」(『ジェーンズとハーン記念祭~報告書~』平成四年七月二〇日・熊本日日情報文化センター)
この木下順二の熊本の明治初期の認識は『熊本班追懐録』の「熊本洋学校の背景」の記述とも一致していて、『熊本班追懐録』が『風浪』を構築する際に大いに参照されたものと推察される。木下順二は『熊本班追懐録』の奉教趣意書の署名者部分ではその名前の頭に○を付けているが、『風浪』では洋学校関係者が最も多くモデルになっていることと関係があるのかもしれない。そのほかの個所でも傍線が多く引いてあり、『風浪』の基礎資料として重要である。
二つは、A5ノートサイズの『神風連資料一』である。「昭和十四年」の書き込みがある。かなりの手書きがしてあり、神風連の事跡を多く調べていたことがわかる。この資料は、一九三九年十二月一日に熊本騎兵第六連隊に現役入営と決まっていた前日、十一月三十日木曜日午後二時に、『神風連』という題で一七二枚を書き上げた、「神風連の努力は結局はむなしいものだったということを一生懸命に書いた」(「座談会 歴史と文学」『文学』)一九百五十六年六月)ものであろう。『神風連』という題の戯曲は原『風浪』の意味を持つが、惜しいことにこの『神風連』という題の原『風浪』作品は存在しないので、この資料との関係は今ところはっきりといえない。
今回、最も注目すべきは次の三つ目の資料である。B5ノートサイズで三冊あり、いずれも『風浪』取材の資料で、カメラ好きであった順二らしい、写真資料である。ノートの表紙には『Janes旧邸』『花岡山』『近沢侃(すなお)氏邸』と書いてある。そのノートに貼ってある写真の保存状態はよく、中には昭和二十八年当時の様子が窺える貴重な写真もある。それぞれのノートから、写真資料が1953(昭和28)年の調査で、Janes(ジェーンズ)邸が8月21日、近沢氏邸の調査が8月24日、花岡山が8月24日の取材であることからもわかった。つまり、写真資料は8月21日から24日にかけてのものである。
もちろん、『風浪』の第一幕に「花岡山」、第三幕に「古城にある洋学校教師館」という記述があるところから、「古城にある洋学校教師館」はJanes(ジェーンズ)邸であり、「花岡山」は花岡山であることが今更言うまでもないこととされてきていたが、今回の新資料の出現で、そのいずれのモデルも実地調査されていること、そしてそのときの写真資料が残されていたことでそれぞれのモデルが確証された。この点で大きな収穫であった。が、それ以上に驚くべきことは「近沢侃(すなお)氏邸」と書いてあるノートの方で、『風浪』の山田蚕軒の屋敷がこれまで考えられてきた竹崎茶堂の日新堂ではなく、「近沢侃(すなお)氏邸」(資料1 カタカナ書きは木下、以下同じ、上の写真の右側は木下)であることがわかった。この新事実はこの写真資料の持つ意味として強調しすぎることはない。幸い、近沢侃(すなお)氏邸は現存していて、現在の徳富旧邸・大江義塾跡(資料2)である。徳富旧邸(大江義塾跡)は昭和三十七年に熊本市に寄贈されて、徳富旧邸(大江義塾跡)として公開されている。ちなみに、写真資料ノート『近沢侃(すなお)氏邸』は「近沢侃(すなお)氏邸」という表題の下には「(実学党士族・家)」とペン書きしてある。そのノートをさらにめくると、ページタイトルが「写真位置」とあり、近沢邸の見取り図(資料3)が鉛筆で描いてある。ところどころペン書きがしてあり、見取り図には①・②・・・と番号が振ってあった。その番号は写真の位置を示すもので、次ページからは近沢邸、及びその周辺を写した写真が貼ってある。表紙も含めて18ページほどであるが、それぞれの写真には簡潔で、要を得た説明が施されている。
二 初演と出版
しかし、『風浪』第一稿(「人間」)は一九四七(昭和22)年に発表され、単行本『風浪』(未来社)は一九五三(昭和28)年二月に刊行されたことを知っている者にとっては不思議に思われる。なぜなら、この調査(写真資料)が『風浪』の第一稿の刊行後であり、少なくとも『風浪』第一稿の取材ではないということになるからである。
そこで、『風浪』の初演がぶどうの会によって、一九五三(昭和28)年九月二〇日から二二日まで、第一生命ホールにおいて、第九回勉強会としておこなわれていることに注目したい。
木下 ああ、そうだったかな。最後の書き直しの時のことはおぼえてるな……春にね、九州熊本のわが田舎のね、幕末以来の家のなかに閉じこもって書き直した記憶があるな。春から夏にかけてかな。そして、その書き直した原稿は、祖父江(昭二)君たちがやってた「文学評論」にのっけた。単行本としては新潮社と『角川文庫』(共に五五年)ですね。対談『木下順二作品集 Ⅵ』(未来社・‘62)
この文章からも、昭和二八年の春から夏にかけて、『風浪』の書き直しを行っていることがわかる。いずれにしろ、この調査(写真資料)が初演と出版とは深く関わっていることはまちがいない。
敗戦の翌年それに手を入れ始め、一九四七年三月号の「人間」に、全六幕、二九三枚の作品として発表することができた。五三年、ぶどうの会が初演するに当って、全六幕の第一幕を削り、全体に手を加えて全五幕とした。それがここに収めたものである。その際に削った第一幕は、『木下順二作品集 Ⅵ』(未来社)に、「風浪補遺」として収載してある。あとがき『木下順二戯曲選Ⅰ』(岩波文庫・1982・7)
つまり、初演準備のための調査である。『風浪』では洋学校も主な舞台の一つであるためか、写真資料の『Janes旧邸』の冊子は、ドアや天井、欄間など細かいところも写真にとってあり、明治当時のものかどうかを確認するメモが記してある。『花岡山』の冊子にしても、「花岡山頂カラ万日山ヲ望ム」のページでは万日山には段々畑がないことを気にしている。なぜなら、『風浪』で「万日山の段々畑」と事実と異なるからである。この取材で、木下順二がいかにモデルと初演舞台つくりとの参照に腐心しているかを想像できる。ここに、リアリズム劇作家としての木下順二の素顔が表れている。実際の初演舞台((資料4)を見ると、徳富旧邸(大江義塾跡)とはよく似ている。これらことからも、この調査が初演の舞台つくりのためのものであったことはもう疑う余地がない。
以上のことを踏まえて述べると、一九五三(昭和28)年九月の「ぶどうの会第九回勉強会」の上演台本(第二稿)のために「全体に手を加えて」(木下・既出)書き改めた。そして、この改稿が一九五四(昭和29)年一月に理論社から刊行された第三稿(最終稿・決定稿)の『風浪』であるということである
もしそうであれば、当然、この調査の結果が上演台本(第二稿)に影響し、第三稿(決定稿)に現れているはずである。第一稿の第二幕と第三稿の第一幕との比較とを比べてみよう。第三稿では第一稿の第一幕が削除され、第一稿の第二幕(以下、第一稿)と第三稿の第一幕(以下、第三稿)が同じ場面である。なお、傍線は筆者である。
第一稿の第二幕
前幕より一月ほど後、明治八年初夏の或る晴れた午後。
熊本西郊、花岡山の頂きに近い木崎蠶堂の屋敷。
實學黨の長老木崎蠶堂が、しっかりした木組みだ(ママ)のただっ廣い士族屋敷を奉還金で買い取って、こここの高みに引き直したこの家の二十に餘る部屋部屋は、主人の奉ずる「實學」主義に從い、二三を残してすべで或いは養蠶の作業部屋に、或いは製茶の火室に使われて、例えば、右手に見える十畳敷きの書院の間も、部屋一杯に組まれた蠶棚のあいだから、奥の床の間に掛けてある實學黨總本山横井小楠の――「明堯舜孔子之道盡西洋器械之術何止富國何止強兵布大義於四海而巳 小楠」――という書幅がやっと覗いて見えるという状態である。(以下十七行ほど省略)
第三稿の第一幕
明治八年初夏のある晴れた午後。
熊本西郊、花岡山の中腹にある蚕軒山田嘉次郎の屋敷。しっかりした木組の農家を蚕軒が買いとって建て増しした不恰好な藁家(わらや)である。
右手に半分見えている部屋には一杯に蚕棚が組まれている。
その次の正面の部屋は茶揉み室に使われているが、本来は書院の間として改造された部屋であり、正面にりっぱな床の間。そこに「明尭舜孔子之道尽西洋器械之術何止富国何止強兵布大義於四海而巳 小楠」というりっぱな軸がかかっている。
その次の部屋は蚕軒の居室で、ガラス入りの額縁のワシントンの肖像画、台付ランプ、ガラスの花立、置時計、胃腸薬マグネシアのびん、古風な手まわしミシンなど。
左手から奥の方へ見渡せる庭は、僅かの面積を残して悉く耕され、馬鈴薯(ポーテートー)、玉蜀黍、赤(トメー)茄子(トー)、甘藍、落地生(落花生)などが試作されている。
その奥の地続きには茶畠、桑畠、それからりんご、さくらんぼ、西洋ぶどう、西洋梨、あめん桃(どう)などの果樹園、それらの更に奥、谷一つ越えた向うには、晴れた初夏の青空を劃って、層々たる万日山の段々畠が、一面の麦の緑におおわれている。
第一稿の第二幕と第三稿との変更は明らかである。登場人物の名称変更はもちろんのこと、舞台設定が大幅に変わっている。特に、「士族屋敷」が「農家」に、「二十に余る部屋部屋」がなくなり、「建て増しした不格好な藁家」になっている。近沢氏邸の関係者の私家本「カタルパの木陰で」という文章によっても、徳富旧邸(大江義塾跡)が「もと百姓家だったようで、雨が降る時は藁からポタポタ雨もりがしていたという話」で、第三稿の「農家」「藁」家の文字と重なり、まさしく現在の徳富旧邸(大江義塾跡)が近沢侃(すなお)氏邸であることを示している。徳富旧邸の間取りが第三稿の「建て増しした」という記述とも合致している。つまり、徳富旧邸(大江義塾跡)の取材がそっくりそのまま第三稿に生かされているのであるということができる。
この調査には大江志乃夫氏と森田誠一氏が同行していた。森田氏は写真資料『花岡山』には大江氏とともに「熊本ノ政治ノ研究会」という肩書きが書いてあったので、もしかしたら地元に詳しく、熊本大学の助教授でもあった森田氏に道案内といった程度で同行してもらったのかもしれない。木下順二と森田氏は東京帝国大学の文学部の同級であった。ちなみに、大江氏とは当時木下文書を調べていた大江氏が木下順二の母から順二が自分の息子であると知らされてからの付き合いで、この調査の夏休みの頃であるということである。木下順二を含めた三人のうち、現在、存命の方は大江志乃夫氏だけである。そこで、2007年1月18日にこれまでのことを確認するために、大江氏に連絡を取ってみた。大江志乃夫氏からの証言は次の通りである。
※木下さんは当時書き改めていて、具体的なものが必要だった。
※木下さんは大江義塾タイプにしたかったと言っていた。
※木下さんは調査する前から、近沢私邸(大江義塾跡)を知っていた。
この証言をまとめると、演出家岡倉史朗氏とともに初演に向けた舞台のイメージを作り上げていく中で、「実学党・家」の「具体的な」モデルとして、木下順二の脳裏には近沢私邸(大江義塾跡・徳富旧邸)があった。そして、舞台の内容上、「大江義塾タイプ」がふさわしいと思っていたということである。第三稿の山田蚕軒邸のモデルが現在の徳富旧邸(大江義塾跡)でなければならない理由がここにある。しかし、これだけの理由で事足りるのだろうか。
三 改稿の意味
ここで思い出したいのは、第一稿のモデルは明らかに竹崎茶堂とその茶堂が行っていた塾「日新堂」であるということである。
官をやめた竹崎律次郎と順子は、熊本の高田原町から郊外本山村に屋敷を求めて移りました。養子吉勝(熊太改)節子夫婦も子供を連れて横嶋から出て來て其處に同居する事になりました。本山村は今の本山町です。それは白川を中にして熊本停車場に近く、北西の二方を白川が矩形(かねなり)に流れ、南東は宇土下益城まで打つづく平(へい)蕪(ぶ)で、昔は静かな士族村でありました。順子の長姉三村にほ子夫妻は大分前から其處に住んで居ました。藤嶋もと子も高田原から其處に移つて居りました。小楠門下の太田黒惟信、嘉悦氏房、醫師内藤泰吉、其他も前後して其處に住むで居たので、本山村は實學村の觀がありました。此處に引越した竹崎律次郎夫妻は、家塾日新堂を興すと共に、手廣い屋敷に多く茶を植ゑて、製茶など盛にやらせたもので、律次郎が茶堂の號もそれから出ました。櫨と桑と楮(こうぞ)は以前から肥後でも奨励したものでしたが、殖産興業の上に眼早い律次郎は今後の一大國産であるべきを豫想して、躬(み)づから範を示したのであります。.律次郎は一時白川(はくせん)の雅號を用ゐて居ました。肥後が白川縣となつたので、白川の號を癈し、以後は専ら竹崎茶堂を名のるやうになうました。竹崎茶堂先生の名は、家塾日新堂と共に當時の肥後に響いたものであります。日新は大學の「日日新又新」からとつたのです。
徳富健次郎『竹崎順子』(傍線筆者)
この徳富(蘆花)健次郎の『竹崎順子』と『風浪』の第一稿とは多くの語句が一致する。木下順二自身、「私は横井小楠の家の複雑な家族構成を参考にしてつくったと記憶するが、その際大いにお蔭を蒙ったのは徳富健次郎述『竹崎順子』であった」(『本郷』)と述べていることからわかるように、木崎蠶堂とその屋敷が『竹崎順子』を参考にして形づくられたことは異論のないことだろう。
木下順二と徳富家とは近くはないが、親族で、当時の木下順二家と近沢氏邸(徳富旧邸)とは歩いて5、6分のところにあった関係で、近沢氏邸(徳富旧邸)をよく知っていたはずである。どうして初稿から近沢氏邸(徳富旧邸)をモデルにしなかったのか。当たり前だが、初演の舞台にふさわしくなかったからである。その大きな理由は「日新堂」はすでになく、記念板があるのみであったためである。初演の舞台のイメージを得るためには具体的なものが必要だったといわなければならない。そこで、竹崎茶堂と同じく実学党の徳富一敬(淇水)縁りの徳富旧邸(近沢氏邸)が浮かび上がってきたということであろう。
第三稿の山田蚕軒屋敷の「藁家」に注目すると、木下順二の写真資料『近沢侃(すなお)氏邸』に「モト「屋根ブキ」(ワラブキ)ヲ淇水ガ瓦ニシタ」というメモ(資料5)がある。木下順二はこの写真資料にも写っている近沢侃(すなお)氏氏から聞いてかして、ノートにメモをして、第三稿に「藁家」と書いていることは確かである。徳富旧邸(大江義塾跡)が「藁」葺きの「農家」でなければならなったということである。このことは木下順二の「大江義塾タイプ」にしたかったという思いと関係する。つまり、たまたま徳富旧邸(大江義塾跡)が「藁」葺きの「農家」であったというばかりでなく、「士族屋敷」か、「農家」かは、第一稿から第三稿への改稿が「風浪」の内容にかかわる問題であることを示している。
そうはいうものの、「近沢侃(すなお)氏邸」と表紙にはその文字の下に「(実学党士族・家)」とペン書きしてあった。近沢侃(すなお)氏邸をあくまでも「士族・家」のモデルとして取材している。このことは竹崎茶堂は士族ではなく豪農であり、徳富旧邸(近沢氏邸)は農家であったことと齟齬を来すのではないかという疑問が起こる。実は、木下順二によれば、明治の「熊本の雰囲気」を「非常に感覚的にナショナルだし士族的ですね。或いは豪農層的といっていゝのかもしれないけれども」(「対談 熊本バンドをどうとらえるか」『熊本展望』田水社、一九七八年・四月)というときの「士族」は文中の「豪農層」と同じく下層の士族の謂いである。思えらく、『風浪』はそういう下層「士族」=「豪農層」に焦点を当てて、「明治というものを本質的には悲惨な時代だったというふうに規定する人が多いけれど、(中略)むしろあの中では、自分の中のエネルギーが解放された時代と考えて、日本の封建制では見られなかったエネルギーを、はじめてそこで発揮したのではないか。(中略)明治の解放されたエネルギーは評価しなければならない」(「演劇の本質」『現代演劇講座』第一巻・三笠書房・一九五八・十一 )という「明治のエネルギー」を描いたとみるのが妥当であろう。その「士族」階級=「豪農層」に「明治のエネルギー」をみたからこそ、山田蚕軒の屋敷のモデルは徳富旧邸(大江義塾跡)でなければならなかったというわけである。
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