みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ

ベラルーシ音楽について紹介します!

(8) 歌「鶴(複数形)」(1968年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 1968年には、ついに音楽作品が誕生します。
 タイトルは「Журавли」そのまま「鶴」です。ただし複数形なので「たくさんの鶴」という意味です。
 しかし、この歌の内容は佐々木禎子さんや「サダコの千羽鶴の物語」にはあまり関連がないように私には思えます。しかし、佐々木禎子さんに関係がある曲と言われています。

 作詞者はダゲスタンの国民的詩人、ルスラン・ガムザトフ(1923-2003)。
 ベラルーシのマクシム・タンクもそうなのですが、旧ソ連の国民的詩人は政治の世界に進出する人が多いです。日本人の感覚では分からないでしょうが、こちらでは、詩人のステータスは高くて、詩人はつまり言葉遣いが上手だから演説も巧みで、知的であり、作品の内容によって人格も判断できるとされ、大統領選挙に出馬する人もいるのですよ。

 原爆投下から20年目経った1965年に、ガムザトフも詩人としてではなく、ソ連ダゲスタン共和国の政治家として、招かれて広島を公式訪問しました。
 タンクは政治家になる前に新聞記事を読んで「佐々木禎子の鶴」を発表していますが、その後政治家になってから、公式来日しています。
 一方ガムザトフは政治家になってから広島を訪問し、それがきっかけで「鶴」という詩を書いています。
 広島の平和記念公園訪問中、「サダコの千羽鶴の物語」を聞いて、とても感銘したので、「鶴」という詩を書いたというエピソードが残されている割には、サダコという名前や千羽鶴といったキーワードは書かれていない作品です。

 ガムザトフはこの詩をアヴァル語(ダゲスタン共和国で使用されている言語)で書いたのですが、1968年にナウム・グレブネフによりロシア語に翻訳されました。やはりタンクの「佐々木禎子の鶴」のように、ロシア語に翻訳されることで絵、多くの人に読んでもらえる可能性を考えたのでしょう。
(ちなみにガムザトフは「サダコの千羽鶴の物語」はテーマにしていない「広島の鐘」という詩も書いています。)

 そしてヤン・フレンケリャによって曲がつけられ、マルク・ベルネスが歌いました。その結果、大ヒット。
 外国語にも訳され、世界に広がっていきます。
 日本語訳は複数の訳詞が存在します。その中でも一番有名なのは鮫島有美子が歌っている中村五郎訳です。

 ロシア語オリジナルも、日本語版もこの歌はYouTubeで検索すればたくさんヒットします。
 ハミングの部分がラララーだったりルルルーだったりいろいろありますね。

 しかし、歌詞の内容は戦争で死んだ兵士への哀悼です。鶴もロシア語だと当然複数形なのは戦死者がたくさんいるからです。千羽鶴だから、複数形ではないです。
 そして鶴は戦死した兵士の魂のシンボルとしています。
 歌詞の中で、「兵士は大地に横たわることなく、白い鶴の姿に変身した(あの世に飛んで行った)と私は思う。」とはっきり書いているのです。

 戦後10年経ってから病死した日本人少女のイメージはこの詩にはありません。
 この戦死した兵士も、人種などはっきり書いているわけでもありません。
 第二次世界大戦戦死者への哀悼の歌です。
 しかし、広島を訪問したとき、詩人が「サダコの千羽鶴の物語」を聞いて感銘を受けて詩作したエピソードがある作品だそうなので、広島平和記念資料館にも、この曲は資料として所蔵されています。
 明らかに「佐々木禎子」という名前が作品中に書かれているロシア語(あるいはベラルーシ語の)文学作品は広島平和記念資料館には所蔵されていません。

 一方でこの歌は世界的にも有名で、千羽鶴云々というより、戦死した全ての兵士への哀悼の歌、つまり平和希求の歌の一つと考えられているので、広島平和記念資料館で所蔵の資料になり、視聴もできるのは当然です。
 
 私が注目したのは、この歌の中に登場する鶴は折り紙などではなく、死んだ兵士の魂をシンボルであるということです。
 「サダコの千羽鶴の物語」を来日中に知って感銘を受けたので、この話をシェアしたくなったという立場で書かれた詩ではありません。
 日本人とロシア語圏の人を結ぶメッセンジャーとして詩を書いたタンクやクチンとは、種類が異なる詩です。

 今、千羽鶴は平和のシンボルになっていますが、それは佐々木禎子さんが亡くなって何年も経ってからです。意外と最近できた「伝統」で、そもそも日本では千羽鶴は願い事を叶えてくれるかもしれないラッキーアイテム(お守り)でした。
 また鶴は千年、亀は万年と日本では古来から言われていたから千羽の鶴は、長寿のシンボルでした。
 佐々木禎子さんだって、病室で「世界が平和になって。」と願いながら鶴を作っていたのではなく、自分の病気が治りますようにと思いながら作っていたはずです。
 世界平和を願って鶴を作るのは万人のためですが、自分の病気が治りますようにというのは、個人的な願いで、自分だけのためのものです。

 「サダコの千羽鶴の物語」がだんだんと1人の女の子の病気治癒や鎮魂のためのものではなく、平和のシンボルに変化していくわけです。
 しかし、1968年の「鶴」という歌に出てくる鶴は、大勢の戦死者の魂のシンボルです。
 私はこれは作詞者は「サダコの千羽鶴の物語」に触発されて書いたのではなく、1957年のソ連映画「鶴は飛んでゆく」などの影響のほうが強いのではないかと思います。

 映画「鶴は飛んでゆく」(ミハイル・カラトーゾフ監督。グルジア人)は第二次世界大戦中、恋人が戦争に行ってしまったロシア人女性の悲恋の物語です。この映画はカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを獲得し、日本でも上映されました。そのときの邦題は「戦争と貞操」です。(こういうダジャレみたいながっかり邦題をつけるのはなぜなのでしょう? 最初から原題「Летят журавли」をそのまま直訳して「鶴は飛んでゆく」でいいと思うんですが。)

 この映画のラストシーンでは、戦争が終わっても帰ってこない恋人を駅で待ち続けるヒロインが、とうとう戦死したことを知らされ、モスクワの空を見上げると、鶴が飛んでいくのを見た・・・ので、タイトルが「鶴は飛んでいく」なのです。
 映画の冒頭のデートシーンでも二人仲良く鶴が飛んでいくのを見ますが、これは楽しかった思い出でもあり、二人の不吉な未来を暗示させるものでもあります。

 やはりこの映画でも、当然鶴は長寿のシンボルでも平和のシンボルでもありません。
 鶴は「死者の魂」「美しく去っていくもの」「過ぎ去るもの」の象徴です。
 
 TouTubeのコメント欄でも映画「鶴は飛んでゆく」を見ると、歌「鶴」を思い出すという書き込みをしているロシア人がいます。
 映画は1957年に作られ、詩は1968年です。作詞者がこの映画を見て、「戦死した兵士の魂は白い鶴になって飛んでゆくと私は思う。」という詩の着想を得た可能性は大いにあります。

 逆に言うと、1957年の映画の監督は、鶴をモチーフに使ったのでしょうか。
 鶴はもともと、ロシアでは母国や夫婦愛のシンボルなのだそうです。
 だから、映画「鶴は飛んでゆく」で、登場するわけです。
 ロシアで平和のシンボルは、鳩だと思います。
 そしてコウノトリは、赤ちゃんを運んでくるので、生命や人間のシンボル(ベラルーシではコウノトリはもともと人間だったという伝承があります。)ですね。

 ロシアでは「戦士した兵士の魂は鶴になって祖国に帰ってくるという伝説があります。」という情報もネットで読みましたが、「兵士」という言葉に引っかかります。
 ソ連軍兵士のことなのか、中世時代の騎士のことなのかでずいぶん与える印象が変わります。そういう伝説があるとしても、20世紀に作られた伝説のように思えます。

 どちらにせよ、世界的に有名な歌ですが、「サダコの千羽鶴の物語」とは関連が非常に薄い歌だと思います。
 この歌がロシア語圏で「サダコの千羽鶴の物語」を広める役割を持ったとは思えません。

(9)に続く。

(7) 詩「千羽の白い鶴」 イワン・クチン (1966年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 詩の世界では「サダコの千羽鶴の物語」は延々とモチーフに選ばれます。
 1966年はロシアのタンボフを代表する有名な詩人イワン・クチンが「千羽の白い鶴」を発表します。
 映画「こんにちは、子どもたち!」や佐々木禎子さんを紹介するドイツ語の本のロシア語訳、同じロシアの児童文学作家ヤコブレフの作品「白い鶴」に触発された可能性もありますね。

 このクチンの詩はとても長いです。子ども向けの作品ということになっていますが、驚くほど長いです。
 全文を読みたい方は、タンボフの図書館のサイトで公開されていますので、リンク先を貼っておきます。こちらです

 この詩の中には、何羽の折り鶴を作れたといった数字はないです。
 しかし、はっきりと、作品中に佐々木禎子さんの名前が書かれています。
 ただ、「サダコは名字、ササキは名前」という行があって、苦笑いしてしまいましたが。
 また、「ドクター・マコト・オサム」という主治医まで作品の中に登場。
 佐々木禎子さんの主治医は沼田丈治先生です。
 この漢字の「治」は「オサム」と読めなくともないですが、全くちがう名前ですね。
 1966年以前に、サダコの主治医の氏名は、マコト・オサムにしている文献があったのかどうかは私は確認できませんでした。
 作者が言葉の響きがいいなどの理由で、勝手に命名したのかもしれません。
 詩人なので、外国語であっても言葉の響きを大切にする場合が多いです。史実として正しいかどうかは二の次という考えの文学者もいますよ。

 この詩も冒頭は日本ではなくロシアなのです。
 (おそらくタンボフの)ピオネール会館にテーブルが置いてあって、そこに一羽の折り鶴が置かれていた・・・と導入部分があり、サダコの千羽鶴の物語や広島の原爆について、ロシアの子どもたちに教えてあげるよ、という感じで詩が綴られていきます。
 
 タンクのベラルーシ語の詩も冒頭が新聞記事の引用です。
「こういう広島の少女の話を知ったから、ロシア語圏の皆さんにもシェアしますよ。私は詩を使って、情報伝達する役割なんです。」
というのがタンクにもクチンにも共通する詩作の手法です。
「私は日本人ではないし、広島に行ったわけでもない。でもサダコの話を広く世界に、せめてロシア語圏には、文学を通して広めたい。」
というメッセンジャーのような立場にいるんですね。
 ある意味、当事者ではない(被爆者でもないし、原爆を投下した側の国の人間でもない)ことを明確にして、客観的に書いています。
 もちろん詩人としての自分の感情や、訴えたいことも織り交ぜています。

 こうして詩の世界での「サダコの千羽鶴の物語」はまだ初期の段階にあり、「知らない人が多いので、紹介しますよ。」という姿勢で書かれたものが主流でした。

 ただ、21世紀を生きている私から言わせると、戦争の過去の話なんて、語り続けないとすぐ忘れられます。戦争の記憶がある世代はどんどん減ってゆき、知らない世代がどんどん増えていきます。
 サダコの千羽鶴の話なんて知らないという世代が生まれてくるので、やはり紹介するという形を取るなら、このような初期のタイプの詩作品が常に求められると思います。

 次の段階としては、詩にメロディーがつけられ、歌に変化していきます。
(8)に続く。
 




(6) ロシア語で書かれたお話「白い鶴」 (1962年)

2021年08月08日 | サダコの千羽鶴
 ついにロシア語で書かれた「サダコの千羽鶴の物語」で、しかも児童文学が、ドイツ語で書かれた「サダコは生きる」のロシア語訳が出版され、映画「こんにちは、子どもたち!」が公開されたのと同じ1962年に発表されました。

 ユーリー・ヤコブレフ(1922-1995)が書いた「白い鶴 Белые журавлики」というとても短い子ども向けのお話です。
 訳すと少年少女新聞というロシアのサイトで全文読めます。リンク先はこちら
 とても簡潔にまとめられていて、小学校低学年向けのロシア語の「サダコの千羽鶴の物語」のお手本のような文章です。
 ここでは折った折り鶴の数にはこだわっていません。
 気になったのは、冒頭で「サダコは名前で、ササキは名字」と紹介しているのに、「ササキは鶴を作り続けた。」と、サダコと呼ばずに名字でずっと呼んでいるので、日本人としては違和感があります。
 子ども向けの文学作品なので、名前のサダコのほうで統一してほしかったです。
 
 ヤコブレフはロシアのペトログラード出身。第二次世界大戦中は出征していたソ連兵士でした。
 「白い鶴」は短くて分かりやすく、ソ連やロシアの学校の平和教育教材として使われるようになりました。
 こうして、「サダコの千羽鶴の物語」はロシア語圏の学校教育の現場でも広がっていきます。
 1962年以降、佐々木禎子さんの紹介が子ども向けのお話を教材としてソ連の学校で行われるようになったのです。

 画像は1962年に発行された「白い鶴」の表紙です。
 短編集の表題にこの話の題名が選ばれています。

(7)に続く。

(5) 映画「こんにちは、子どもたち!」(1962年)

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」のロシア語版がソ連国内で出版された同じ年にソ連映画「こんにちは、子どもたち!」が公開されます。

 監督はマルク・ドンスコイ。子ども向けの映画です。
 舞台はソ連で有名なサマーキャンプ場、アルテク。ここにはソ連中から子どもたちが集まり夏休みのキャンプ生活を楽しみます。さらにはソ連以外の国からも子どもたちが招待されてやってきます。
 その子どもの数の多いこと。団塊世代が集結したのかと思うぐらい。そして子どもたちの出身の旗が掲揚されているのはオリンピック会場さながら。

 年齢設定は10ー14歳ぐらい。いろんな国の子どもたちが共同生活を送るので、当然揉め事も起きます。有色人種への差別、第二次世界大戦の記憶がまだ多く残っていた60年代。「僕のお父さんは○○人と戦っていたんだ。」と○○人の子どもに言ったり、ささいなことで口喧嘩、それが枕投げ戦争になったりするのですが、騒ぎを起こし、仲が悪いのはとにかく男子。
 男子のお行儀が悪すぎるのに対し、女の子たちはみんな不思議なほど仲良しで、何の問題も起こさない。
 男子たちがまとまらないので、心を痛めるキャンプ場長。一応このキャンプ場長さんの女性が、キャスティングで言うと主役ということになっています。子ども向けの映画ですが、大人が主役ですね。
 
 ちなみに人種差別でいじめられている子に優しくするのは、ソ連出身の子どもである、という設定が多いです。
 喧嘩をするのもソ連の子どもが数の上で圧倒的に多いので、そうなっていますが、アメリカ人の男子が、ミサイルやモデルガンのおもちゃをたくさん持ってきて、男子がみんな大喜びで遊んだり、喧嘩をしたり、海水浴に行ったら、仲の悪い男子二人が水中でどっちが長く息を止められるか競争をして溺れかかり、
「敵に勝ちを譲ってはいけないって父さんに教えられたんだ。」
などと言い訳をするのを、
「まあまあ、男子はこんなもんですよ。(男は戦争が好きなんですよ。)厳しく叱らないでくださいよ。」
と男性の引率者がへらへら笑いながら、庇おうとするのを、女性キャンプ場長は、
「子どもがおもちゃと言えど兵器で遊ぶなんて反対です。子どもの遊びは社会の鏡ですよ。」
とびしっと言う。

 これも一種の男女差別になりはしないかと思うのですが、監督はとにかく、自分も男なのに、男子は争い事が好きであって、生まれつきの本能みたいなものであり、どうしようもないんですよ、でもね、これを平和に導いてくれるのは、女性なんです、女性。だからキャンプ場長は女性という設定にしてみました。そう、女性が世界を平和にし、男どもの頭を冷やしてくれるんです。という女性讃歌の映画を作りたかったようなのです。ちなみに脚本を書いたのは女性。

 男子は戦争好きの頭軽いという設定(人種差別を受けている男の子を優しく庇う男の子もいますが。)なので、常に男子はキャンプ場で問題を起こす。それを何とかまとめたいと悩むキャンプ場長。
 と、そこへ日本から少女、イネコがやってきます! これも女性ですね。
 
 このイネコ(たぶん漢字だと稲子さん)は着物を着て、子犬(秋田犬ではなく狆?)を胸に抱え、おかっぱ頭に大きなリボン、そしてロシア語ペラペラ。その可憐さに、その場にいた多国籍子ども集団が、男女年齢問わず、一瞬でめろめろになります。
 映画を見ていた日本人のおばさん(私)すらハートを射抜かれましたよ。萌えるという動詞の持つ意味が分かりました。

 イネコさん役は、ナターシャ・キシドさん。名前はロシア風ですが、純粋に日本人です。この映画が初出演で唯一の出演作品なのですが、それが信じられないほどの堂々とした演技で、キャスティング大成功ですね。
 はっきり言って、この映画の主役ですよ。主役のキャンプ場長より、他の国の子どもより、ずっと目立つように撮影されています。

 初登場シーンからして特別。夜中にふと目を覚ました男子が、暗がりの光(スポットライト風)の中で、着物姿のイネコを見る。隣で寝ていた男子を起こして、
「おい、妖精がいたぜ。ほら、あそこに・・・。」
「誰もいないぞ。」
「おかしいなあ。」
 着物の長い袖が妖精の服に見えたようなのです。
 翌朝、朝食の時間に、
「新しいお友達が日本から来ましたよ。」
と紹介されてキャンプ場の食堂に扇子をひらひらさせながら登場するイネコさん。ひと目見て、でへへーとなってしまう男子たち。
「あの妖精だ!」
「同じテーブルに入れてあげる人は誰ですか。」
とキャンプ場長が尋ねると、みんな、はい!はい!と手を上げる。
 大勢いる子どもの中で極端にイネコさん一人が大人気。

 切れ長の奥二重のまぶた、長めのおかっぱ、内側からにじみ出てくる美しさ。
 サマーキャンプが舞台なので出てくる水泳のシーンでは水着姿ですが、一人日傘代わりの番傘をさす。子どもたちのために日本語の歌まで披露。
 稲子さんの周りに群がる子どもたち。性別関係なし。
 上品で、優しくて気遣いもできて・・・と完璧日本人少女です。

 この稲子さんを見ているだけで、当時のソ連人が頭の中で作っていた日本人少女のイメージをそのまま監督は表現したことが分かります。
 ある意味ステレオタイプだし、
「着物着て子犬を抱えて日本からソ連のサマーキャンプ場に来る子なんかいるか?」
と突っ込みを入れたくなる日本人もいると思います。(他にもたくさん突っ込みどころが多い映画なんですが、多すぎて一つ一つここに書けない・・・。)
 しかし、インターネットも普及していない当時のソ連の子どもからすると、この動いてしゃべって、歌うイネコの姿が、記憶に強烈にインプットされました。

 さて、もてもてのイネコさんはかつての敵国であるアメリカの男の子から、しゃべる人形をプレゼントされたりします。ケンカばかりしていた男子もイネコさんのほうばかり見ているので、キャンプ場は一気に平和になります。
 あるとき、キャンプ場の近くにある山へ子どもたちは登山に行きます。そこで空を見ていたイネコは、もくもくとした雲が沸き起こるのを見て、
「あの雲はいや! こんな空はいや!」
と悲鳴を上げて倒れてしまいます。
 実はイネコさんは広島出身で、原爆の被爆者だったのです。雲が原爆のきのこ雲に見えて、記憶がフラッシュバックしたのでした。
 担架でキャンプ場に運ばれたイネコさんは、被爆のために白血病になったと突然診断されます。
 病気を治すためにモスクワからドクター二人がヘリに乗って、キャンプ場にやってきます。
 そのうち一人は日本人の医師、ウシハラ(牛原?)教授。この教授の役を演じているのが、ナターシャ・キシドさんのお父さん、ヤコブ・キシドさんなのです。名前はロシア風ですが純日本人です。
 この共演したキシド親子については後述します。

 牛原教授は、イネコさんを励まそうと、折り鶴を作れば病気は治るよと教えます。病床で鶴を作り始めるイネコ。完全に佐々木禎子さんがモデルになっています。
 しかし、この映画の中ではなぜか千羽鶴ではなく、30万羽作ったら元気になれると説明しました。
 30万羽・・・とても一人では作れません。
 そのためイネコを助けるんだとキャンプ場の子どもたちが立ち上がります。喧嘩も差別も戦争ごっこもすっかり忘れて、紙で鶴を作り始めます。
 折り鶴もあれば、切り紙で鶴を作る子どもも。キャンプ場の近くに住む地元住民の子どもまで噂を聞きつけ、鶴を作って届けます。
 こんなにキャンプ場の子どもの心が一つにまとまったことがあったでしょうか。
 折り鶴は山のように増え、そのてっぺんに日の丸が立てられます。
(日本人は、この映画を絶対見るべき・・・とまでは言いませんが、存在ぐらいは知っておいてほしいと思いながら、この記事を書いています。)

 イネコの病気によって、キャンプ場の子どもたちは一致団結、みんな仲良しになります。
 しかし病状は悪化するばかり。
 骨髄移植しか方法はない、とフランスとドイツからその第一人者がヘリで飛んできて、キャンプ場の中で移植手術を決定。
 ドナーは、
「日本に原爆を落としたのは私の母国、アメリカ。だから私がドナーになります!」
と子どもを引率してきたアメリカ人女性が手を挙げる。
 他人同士だし、ちょうど合う骨髄を持っているとは限らないのでは・・・というつっこみはさておき、手術は成功。

(「サダコと千羽鶴の物語」がソ連で広がったのは、米ソ冷戦時代で「原爆を落としたアメリカという国はひどい。」というイメージを広げる隠れた意味があった・・・という意見もあるのですが、この映画を見ていると、アメリカ人の男の子がイネコさんに絵英語でしゃべるアメリカン・ボーイのお人形をプレゼントしたり、アメリカ人女性が骨髄ドナーになったりと、とてもアンチ・アメリカ意識をソ連の子どもに刷り込もうとしているようには見えません。)

 ところが突然イネコの容態は悪化。日本語でお母さん・・・と呼びながら痛みに苦しむイネコさん。(このあたりから私の涙腺は緩みっぱなしに。)

 次に音楽でイネコを励まそうと、子どもたちはコンサートを始める。自分の国の民族衣装を着て、踊ったり歌ったりする。
 病室で子どもたちの歌声に耳を傾けるイネコさん。しかし、その両目の光がだんだん薄れてゆき、イネコは死んでしまいます。

 このシーンを見ていて、泣いたソ連の子どもは何百万人といるでしょうね。

 映画では仲良くなったキャンプ場の子どもたちが別れを惜しみながら、それぞれの故郷に帰っていくシーンになります。人種を超えた友情、子どもが戦争の犠牲にならない平和な世界を作ることを約束し合います。ドナーだったアメリカ人女性はイネコさんが飼っていた犬をもらってアメリカへ。
 日の丸が立てられていた折り鶴の山に風が吹き、鶴は空へ撒き散らされます。
 そして、ここから合成の映像になるのですが、世界中の空に紙の鶴が数え切れないほど飛んでいきます。
 やはり鶴は平和のシンボルで、それが世界中に飛んでいく・・・このラストシーンを監督は撮りたかったんだろうなあと思います。

 この映画はこんなに日本のアイテムが出てくるのに、日本では未公開です。
 日本の歌も挿入歌で入っています。こんなにたくさんの多国籍の子どもが出演しているのに、映画のポスターは手書きのイラストで大きく日本人少女の顔と空を飛ぶ白い鶴が飛んでいます。でもこのイラストの女の子はイネコさんに似ていません。

 この映画を見たい人はYoutubeで「Здравствуйте, дети!」1962で検索してください。日本語字幕などはついていないオリジナルが見られます。

 監督が佐々木禎子さんをイネコのモデルにしているのは明らかです。
 そのイネコを演じたナターシャ・キシドさんとそのお父さん、ヤコブ・キシドさんについて。
 この映画はソ連映画を紹介するサイトで、詳細を知ることができます。
 ここで出演者の情報も分かります。
 
 それによると、ヤコブ・キシドさんは他にもソ連映画に日本人の役で出演しており、そのときはヤコブ・キシダという表記だった。(本名は岸田さん?)
 ヤコブやナターシャはロシアに住んでいたときの通称名で、本名ではない可能性が高い。
 ヤコブ・キシドさんは戦前サハリンに住んでいたが、戦後レニングラード(今のサンクト・ペテルブルグ)に家族で引っ越した。レニングラード大学で働いていた。
 キシド一家はロシアに約20年住んでいたが、日本に帰国した。
 ナターシャ・キシドさんはロシア語の通訳になった。
 結婚されたので、現在の名字はキシドでもキシダでもない可能性が高い。

 ・・・お二人とも今は芸能人などではなく一般人として暮らしておられるので、上記サイトに載っている内容をあまり詳しく訳していません。
 ただ、このサイトのコメント欄に一人のロシア人女性が、
「ナターシャと中学2年生から高校1年生まで同じクラスだった。どうしたらいいのか分からないけどナターシャに連絡を取りたい。ナターシャはとてもかわいくて成績優秀でおとなしく、控えめな子だった。」
と2019年に書き込んでいるんですよね。
 ナターシャ・キシドさんはロシア語ができるのですから、もしこのコメント欄を見たら、私を友達が探している・・・とすぐ分かると思います。
 ただ、このロシア人女性、現在住んでいるところをアメリカのミルウォーキーにしているんですよね。ロシアからアメリカに移住したのかもしれません。そうすると連絡を取り合うのが難しいかもしれませんが、コメント欄の書き込みから2年経って、連絡がついたのかなあ・・・とベラルーシで勝手に思っています。

 おそらくお二人とも1950年代のお生まれで、今60歳代か70代初めぐらいだと思うのですが、それでも懐かしくてナターシャに会いたいとロシア人の友達から言われているので、本当に魅力的な人なんだろうなあと思います。

 画像は映画「こんにちは、子どもたち!」からのスクリーンショット。隣の女性はキャンプ場長さん。
 つまりですね、このキャンプ場長さんのような、母性を体現しているような女性と、イネコさんのような純粋な心を持った少女が、世界を平和に導くんですよ、とこの監督は言いたかったのでしょう。

 映画の影響は大きいですね。
 ソ連の子どもたちに消えない印象を与えたイネコ。
 そのモデルになった佐々木禎子さん。
 映画によってソ連(ロシア語圏)の中で「千羽鶴を折る病気の日本人少女」のイメージが広まり、固定化されていったと思います。つまり視覚的なアイコン化です。
 
(6)に続く
 

(4) ロシア語に翻訳されたドイツ語書籍

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数が643羽とするのは、ソ連圏内では新聞に取り上げられたことや、マクシム・タンクが詩に書いたことによって広まったと思います。
 
 少し話はそれますが、この数字について調べたことを書きます。

 「サダコと千羽鶴の物語」は当然のことながら1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなった途端、世界に広がったものではありません。「訃報! あの佐々木禎子さんが死去。千羽鶴も甲斐無く・・・」などというニュースが1955年10月26日に世界を駆け巡ったわけではありません。
 やはり1958年5月5日に原爆の子の像が建立されてから、世界的なニュースになり、「サダコと千羽鶴の物語」も広がったと思います。

 世界的に広がるにはやはり日本語だけではなく外国語で紹介しないと詳細が分からないので、やはり外国語への翻訳あるいは外国語による紹介は大変重要です。

 その意味において「サダコと千羽鶴の話」を最初に外国で書籍の形で紹介したとされるのは、ロベルト・ユンク著「廃墟の光・甦るヒロシマ」とされています。
 ユンクはオーストリアのジャーナリストで、1956年に来日しています。その後単発的にドイツ語で新聞や雑誌に「サダコと千羽鶴の物語」を紹介する記事を書いた可能性は大いにあります。(私はドイツ語によるドイツ語圏での紹介は調べていません。)
 これでドイツ語圏に広がります。
 一方きちんとした本の形としての発表は1959年です。これが「廃墟の光・甦るヒロシマ」(原題 Strahlen aus der Asche)ですが、この中に643羽説などが書かれていたとしても、この本を情報源にしてドイツ語が得意だと自負するソ連の新聞記者が1958年に記事に書くことはできません。
 ちなみにこの本は世界14カ国で出版され、ロシア語訳が出版されたのは1962年です。(ロシア語の題名は「ЛУЧИ ИЗ ПЕПЛА」)

 次に外国語で「サダコと千羽鶴の話」を広めたきっかけになる本はオーストリアの作家カール・ブルックナーのドイツ語で書かれた本「サダコは生きる」(原題 Sadako will leben!)ですが、これも1961年発表で、多くの言語に翻訳されましたが、ロシア語訳(ロシア語の題名は「Садако хочет жить!」日本語に訳すと「サダコは生きたい!」で、ニュアンスが異なりますね。)も1964年に出版されました。
 この本にどんな数字が書かれていたとしても、1958年のソ連の新聞記者が情報源にできないのは明らかです。
 やはり643羽と1958年に新聞に書いたソ連の記者は日本で広がっていた643羽説を日本で、あるいは日本人経由で聞いて、あるいは映画「千羽鶴」の内容を聞いて、直接記事に書いた可能性が高いです。

 一方で、上記のドイツ語で書かれたオーストリア発の書籍2冊は、ロシア語にも翻訳された後はロシア語圏内(ソ連)で読まれたのですから、マクシム・タンクの詩や新聞記事だけでは得られない「サダコと千羽鶴の物語」を詳しく広めたと思います。
 この書籍が「サダコと千羽鶴の物語」の詳細をソ連で広める基礎になったと言えるでしょう。
 つまりドイツ語の作家の功績は大きいと言えます。しかし作者による創作部分もあるでしょう。

 画像はロシア語版「サダコは生きる」の表紙です。
 このようにロシア人画家によって、本に添えられた挿絵や表紙絵によって、佐々木禎子さんはおかっぱ頭でもなかったのに、いかにも外国人が想像しがちなステレオタイプの日本人の少女サダコの姿が、イメージとして次第に固まっていくわけです。

 しかし、ソ連の、特に子ども世代に「サダコと千羽鶴の話」を強烈に印象付けたのは映画でした。
(5)に続く。

(3) 佐々木禎子さんが折った鶴の数 643羽説

2021年08月07日 | サダコの千羽鶴
 佐々木禎子さんが折った鶴の数は諸説あるのですが、ソ連圏で「サダコと千羽鶴の物語」が紹介された1958年には、ソ連の新聞記事に643羽と明記されてしまい、新聞のほか、マクシム・タンクが書いた詩がロシア語に翻訳された際にもこの数字がそのまま、文芸誌に記載されたので、ソ連国内に643羽説が広まったと思います。

 このソ連の新聞記者は643羽という数字をどこから聞いたのかと考えたら、当然日本のジャーナリストでしょう。あるいは日本語で書かれた記事を読んだのだと思います。英語やドイツ語で書かれた記事をロシア語に翻訳した可能性もありますが、そうすると今度は、その英語の記事を書いたアメリカ人だかの記者はどこからこの数字を聞いたのか、ドイツ人の記者は誰からこの数字をきいたのかという疑問が起こり、結局行き着く先は日本人の誰かが、直接あるいはメディア媒体を通じて間接的に外国人ジャーナリストにそう伝えた、ということになります。

 日本人がまちがった数字を伝えた、ということです。もしかすると通訳の翻訳のまちがいかもしれません。

 643羽説については興味深い資料を見つけました。広島平和記念資料館の公式サイトに、所蔵資料の紹介があります。
 これは1957年12月1日に発行された雑誌「少女」12月号に掲載された、折り鶴を読者から募る記事です。
 そしてこの記事の中でも「禎子さんがなくなるまでつくったつるは643羽でした。」と書かれています。
 残り357羽を読者から募集して霊前に供えようという雑誌企画ですね。ここでは折り鶴は平和のシンボルではなく、健康祈願、鎮魂の意味合いで募集されています。
 
 注意点は、まずこの記事が掲載された雑誌「少女」12月号が発行されたのは1957年12月1日なので、1955年10月25日に佐々木禎子さんが亡くなってから、どんなに遅くても1957年11月30日までのおよそ2年の間には、すでに643羽説が日本国内に流布していたという点です。
 
 もう一つの注意点は、この記事の説明として広島平和記念資料館が、
「禎子さんは1300羽以上の鶴を折りましたが、映画『千羽鶴』では643羽としたため、この記事でもその数が使われています」
と公式サイトに説明を記載している点です。
 これは広島平和記念資料館の間違いだと私は思います。
 映画「千羽鶴」(木村荘十二監督)は1958年に公開されたからです。
 
 1957年発行の雑誌の記事に「643羽」と書いてあるのは、1958年公開の映画のシナリオで「643羽」とされているから、という広島平和記念資料館の説明は矛盾しています。

 もっとも、この映画の撮影のために広島の少年少女が出演していて、広島でロケをしていたので、1957年には、まだ映画は完成しておらず公開されていないけれど、映画の内容が外部に漏れていて、それを聞いた雑誌「少女」の記者が「643羽」と書いたのですよ、だから元の情報は映画「千羽鶴」なのです・・・という可能性もありますね。
 ただ、可能性としては小さいです。

 雑誌「少女」の643羽は、映画「千羽鶴」から得た数字ではなく、別の情報源があったと思われます。
 映画監督あるいは脚本家もそちらの情報源を、正しい数字として脚本に書いてしまった可能性が高いです。
 または、脚本を書いているときに、
「もうちょっと具体的に何羽作ったとはっきり数字を出したほうが、表現としてインパクトがあるんだが・・・誰か知らないかなあ・・・。」
と探していたら、偶然耳にしたのが643羽だったのではないでしょうか。

 1957年にはすでに643羽説が都市伝説のように広がっていたのでしょう。それがそのまま1958年のソ連の新聞記事に記載されたのだと思います。
 あるいは映画「千羽鶴」が1958年に公開されて、そこに出てくる数字が、そのまま1958年5月5日以降発行されたソ連の新聞に掲載され、ベラルーシ人の詩人が自分の作品の中に記した・・・ということもありえます。

 結局643羽説がどこから生まれたのか特定することはできませんでした。日本にも住んでおらず日本に存在するかもしれない紙媒体の情報源を探すこともできない私としては、これ以上突き詰めて調べるのは難しいので、この作業は続けません。
 ご存知の日本の方がおられましたら、ご一報ください。このブログ上でご紹介させていただきます。

(4)に続く

(2) 詩「佐々木禎子の鶴」 (1959年) ベラルーシ語原詩

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 1958年にベラルーシの国民的詩人マクシム・タンク(1912-1995)が、ベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは、間違いありません。
 しかし、ベラルーシ語原詩が詩集「Мой хлеб надзённы」に収録され、発表されたのは1962年のことです。
 この詩集「Мой хлеб надзённы」そのものは見つけられませんでしたが、マクシム・タンク全集第3巻に詩集がそのまま収録されています。
(Максім ТАНК, Збор твораў, 3 том Вершы (1954-1964), Мінск, 2007, Беларуская навука, Нацыянальная Академія навук Беларусі, Інстытут літаратуры імя Янкі Купалы)

 画像は105ページに掲載された「佐々木禎子の鶴」の前半部分です。
 これを見るとタイトルに続いて、「新聞からの引用」が書かれています。この部分に、どうしてタンクが「佐々木禎子の鶴」という詩を書くことにしたのか理由が書いてあるのです。
 
 このブログの投稿記事序文に理由を書きましたが、私は作品をベラルーシ語あるいはロシア語から日本語に翻訳するつもりはないので、この「新聞からの引用」も詩の本文も訳しません。
 しかし、「新聞からの引用」の内容を要約すると、以下のことが分かります。
1 作者であるマクシム・タンクはおそらくロシア語で書かれたソ連の新聞を読んで、サダコと千羽鶴の物語を知った。
2 佐々木禎子さんは自分の健康を願い、千羽鶴を折ったが、643羽しか作ることができなかったとロシア語でソ連の新聞で報道された。
3 佐々木禎子さんの慰霊碑が建立されたが、日本の子どもたちが主体だったことも報道された。

 この「新聞からの引用」ですが、タンクは、何という新聞のいつの日付の記事を引用したのか記していません。詩の作品の一部として、新聞記事の内容を挿入しているわけですから、引用元を細々書かないことにしたのでしょう。

 ただ、はっきり言えるのは、この新聞は1958年5月5日に建立された原爆の子の像建立をニュースにしたものであり、1958年5月5日以降12月31日までに発行されたソ連の新聞を一つ一つ探せば、タンクが情報源にした新聞に行き着くことができるということです。
(序文に書いたように私はベラルーシ国立図書館に行って、1958年のソ連の新聞を全部探す気力はないです。)

 ここで問題なのは、佐々木禎子さんが643羽しか折り鶴を作れなかったと、ソ連の新聞記者が書いたという点です。
 佐々木禎子さんは実際には1300羽は作っていたことはまちがいありません。
 そもそもこの643羽という数字はどこから出てきたのか気になり、調べてみました。
 結論を先に言うと、他にも644羽説や700数羽説などいろんな数字が出てくるのです。

 佐々木禎子さんが亡くなったのは、1955年10月25日で、そのとき、お棺に折り鶴を参列者が入れたりしているので、ご遺族がそんな状況のときに「うちの子、643羽までは作ったのに。あ、ちがう。えーといくつかな。今から数えよう。」などとのんびり数えていたとはとても思えません。

 ところが、1955年10月25日から1958年5月5日までの間、およそ2年半の間に折り鶴の数に関しては、いくつか説が出てきており、その一つが643羽説だったことは間違いないようです。
 そして、この643羽説を聞いたソ連人の新聞記者がそのまま記事に書き、それを読んだベラルーシ人のマクシム・タンクが、自分の作品の中に新聞記事をそのまま引用して、詩の一部分にしてしまった、ということです。

 この643羽説については次の記事(3)に続きます。 

 ちなみにタンクはこの詩を書いた時点では、日本に行ったことは全くありませんでしたが、政治家になってから来日し、その後「富士山」「ハチ公」というベラルーシ語の詩を書いています。1976年にこの作品が書かれているので、その少し前に来日したと思われるのですが、記録は見つかりませんでした。私がもっと頑張ればはっきり分かるのですが、序文に書いたように、調べ尽くす気持ちあありませんし、この2つの作品も日本語に訳しましたが、公表する気は今のありません。
 
 

(1) 詩「佐々木禎子の鶴」 マクシム・タンク ベラルーシ語(1958年)ロシア語訳(1959年)

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 広島の原爆で被曝し、1955年に白血病のため亡くなった佐々木禎子さんを明らかに題材にした作品で、ロシア語で発表されたものを探していましたが、現時点で見つかったもののうち、もっとも古く書かれていたのは、1958年、マクシム・タンクがベラルーシ語で書いた詩「佐々木禎子の鶴」でした。

 マクシム・タンクはベラルーシの国民的詩人で、ベラルーシでは知らない人がいない有名人です。
 そのタンクがロシア語ではなくベラルーシ語で書いた詩が、ロシア語圏内では佐々木禎子さんを題材にした作品の中では最も古い(推定)ことが分かり、私も思うところがありました。
 当時はロシアもベラルーシもソ連という国だったのですが、公用語はロシア語でした。そんな中で、ソ連の端にある国でしか使われていないベラルーシ語でベラルーシ人の詩人が、佐々木禎子とフルネームを出した詩を書いたことには意義があります。
 当時は冷戦時代で、アメリカもソ連も核実験を繰り返していました。ソ連ではセミパラチンスクが実験場でしたが、これは今のカザフスタンにあります。ロシア国内ではないのです。

 さて、マクシム・タンクはベラルーシ語で「佐々木禎子の鶴」を書いたのは1958年と記したものの、実際にこの詩が、詩集「Мой хлеб надзённы」に収録されて発表されたのは1962年のことです。
 ところがこの詩は、ロシア語に翻訳されて、まずはロシア語の作品として、単独で文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の93ページに掲載されました。この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、
 リンク先はこちら
 この雑誌の名称は日本語で「民族友好」、7万5千部発行で、ソ連中で読まれていたのですから、ベラルーシ人しか知らないベラルーシ語で発表するより、ロシア語で雑誌に載せるほうが多くの人に読んでもらえる、つまり佐々木禎子さんのネームバリューも大きくなったと思います。

 ただ、このロシア語訳は Я. Хелемскийという翻訳者が担当したのですが、作品の一部(新聞記事からの引用部分)を訳していないのです。 
 省略された部分はベラルーシ語オリジナルで読む必要があります。(2)に続く

・・・
 画像は「佐々木禎子の鶴」ロシア語訳が掲載された文芸雑誌「Дружба народов」1959年11月号の表紙。これがロシア語で「サダコの千羽鶴」を題材にしたロシア語で最初の文芸作品と思われます。(推定)

文化の広がり サダコの千羽鶴について 序文

2021年08月06日 | サダコの千羽鶴
 ベラルーシの詩人、ジャルハイが1957年に「広島」というベラルーシ語の詩を書いていたことについてすでに投稿しました。
 その前からも、その後も絵本「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」(うみのしほ・作 狩野富貴子・絵 PHP研究所・出版)を使って、ベラルーシの小学生を対象におりづるのワークショップを続けています。
 そんな中、いわゆる「サダコの千羽鶴の物語」がロシア語、つまりソ連圏でどれぐらい広がっているのか気になりました。
 ここで言う「サダコの千羽鶴の物語」とは、「広島の原爆により被曝し、白血病になった少女、サダコ(モデルは佐々木禎子さん)が快癒を願って千羽鶴を折ったが、願いは叶わず死んでしまった。」というストーリーのことです。

 以前「おりづるの旅」をゴメリの児童図書館に寄付したとき、司書の方が、こんな歌がありますよ、とわざわざかけてくれた歌で「日本の鶴」という歌があったのです。
 それを今度は私がミンスクの児童図書館で小学生に聞かせていたのですが、「日本の鶴」というタイトルの歌なのに、日本人の私が知らなかったのです。

 それも日本人として恥ずかしいかなと考え、ロシア人がロシア語で作った歌、しかも1971年の発表で、今からちょうど50年前の歌であることから、ロシアとベラルーシ、つまりソ連圏で、どれぐらい「サダコの千羽鶴の物語」は広がっているのか、もう少し詳しく調べることにしました。

 その結果、驚くほどいろいろな作品に登場していたことが分かりました。
 堂々と「佐々木禎子さんに捧ぐ」と献辞が冒頭に書かれている作品もあります。
 しかし、佐々木禎子さんはもう故人なので、当然ですが自分にロシア人がロシア語で詩を書いて捧げていても知るよしもありません。
 見方を変えると、故人だからと、作品を作る側が勝手に献辞して、売名行為をしているようにも見える場合もあります。
 献辞した外国人は佐々木禎子さんのご遺族には、もちろん連絡をしないので、こんなにたくさんのロシア語作品が禎子さんに捧げられていることをご遺族も知りません。
 ご遺族も、ああ、どんどん勝手に故人の名前を使ってもいいよ、売名行為に使ってもいいよと思われているかもしれません。
 外国語だから、世界中で佐々木禎子の名前を使っていても、いちいち把握しようがないと思われているでしょう。

 また別の考え方では、例えば大学の先生で、日本の文化の一つとして、佐々木禎子さんの名あるいは「サダコの千羽鶴の物語」がどのぐらい世界に広がっているのか研究している人がいれば、ご遺族は把握しなくてもいいわけです。
 しかし、私は大学で文化学を教えているような身分でもないですし、誰かに研究してくださいと強要するわけにもいきません。
 このような資料を収集、保管すべき広島平和記念資料館の所蔵リストにもなく、資料館側も、経年劣化が進んでいる被爆者の遺品収集に注力しているせいか、世界に広がる平和運動に関しては、外国語の文化資料には熱心ではありません。

 また著作権の問題があり、ロシア語作品の内容を日本の方にお知らせしたくて、日本語に翻訳したくとも、原作者やあるいはその遺族の許可がいちいち必要なので、翻訳する気力が私にはありません。

(ちなみに詩「広島」の作者シャルハイ・ジャルハイの著作権については、ベラルーシの著作権保護協会に連絡して、公式回答ももらい、すでに著作権そのものが消滅していることを法的に確認済みです。)

 それに日本人に
「佐々木禎子さんのことがロシア語で作品になっているんですよ。」
と言ったところで、ふーん・・・ぐらいの反応しかなさそうです。
 逆にベラルーシ人に
「ベラルーシの○○が日本語に翻訳されて、日本人は知ってるんですよ。」
と教えてあげたら
「え、本当?! うれしいなあ。ありがたい。」
と大喜びするんですが。
 まあ、日本人の意識だと
「日本の○○がロシア語に翻訳されて、ロシア人は知っているんですよ。」
とロシア人に言われても、
「そりゃそうだよ。日本の○○は、有名で人気で優れた作品なんだから。」
と驚かないでしょう。

 日本人が驚かないこと自体を、いいとか悪いとかこのブログ上で議論するつもりはありません。

 ともかく、私自身はロシア語圏における「サダコの千羽鶴の物語」の広がりについて、広く日本人に、原爆被爆者に、研究者に、ご遺族に知らせようとは思いませんでした。

 一方で、今回いろいろ調べているときに感じたのは、やはりインターネット上で情報を残していると、いつか誰かがどこかで調べ始めたときに、見つけてもらえやすいということです。
 紙媒体で発表されたものの、その後デジタル化されていない情報は、今鎖国状態になっているベラルーシで、調査の対価(調査費用、発表への対価や評価、発表そのものの機会)もない私には探す労力を考えるとやる気が起きません。
 もちろん今回私が見つけられなかったものは存在していないもの、とは言えません。かと言って調査し尽くすこともできません。

 つまり中途半端なんですよね。内容も日本人に知らせても反応がなさそうだから、和訳する気力もないし、広島の平和運動関係者の依頼だったら、著作権の問題をクリアしてでも翻訳するけれど、日本人は世界で佐々木禎子さんがどのように扱われているのか関心がないので依頼もしてこないでしょう。

 このような事情により、完全網羅したわけでもなく、和訳もなく、自分の備忘録として、以下の記事を投稿します。
 もちろん心の片隅では、もしかしたら遠い将来、どこかの誰かが私のブログ(デジタル媒体情報)を見つけてくれて、サダコの千羽鶴の話の広がりの一枝として読んでくれる日が来るかもしれないとも考えています。
 そして、今回の私の記事の執筆を佐々木禎子さんの鎮魂に繋げたいです。
 さらに、今のベラルーシで生きる者として、私自身が戦争反対の立場でいる人間の表明にします。

広島の原爆投下から76年の今日から少しずつ記事を投稿します。ご興味のある方は御覧ください。
 (1)の記事はこちらです
 

シャルヘイ・ジャルハイの詩「広島」を翻訳しました

2020年09月10日 | シャルヘイ・ジャルハイ
 ベラルーシの詩人シャルヘイ・ジャルハイの詩「広島」をベラルーシ語から日本語に今回翻訳しましたのでこのブログ上で発表したいと思います。

・・・・・・・

広島


石の廃墟の上で
永遠に
君の姿は戻らない
死と苦しみの
広島。
灰は
混乱を生き埋めにし、
そして、安寧は見つからず
私たちの心の底で澱となる。
広島。
私たちは愛し、忘れない
私たちは探し続け、望みを捨てない
私たちは信じ、支えよう。
私たちは支えよう
広島を。
一分、
黙祷の一分で哀悼を捧げよう
起こったことを思い出しながら・・・
ほんのわずかな時間であっても、
広島に。
兵器による永遠の静寂、
世界の黙祷
記憶を讃えよう
君の犠牲を
広島の。
いつか時が来る。
春、花が世界中に咲く時が
そして、再生し復活する。
君の静かな栄光が
広島の。


(翻訳:辰巳雅子  Пераклад: Масако Тацуми, 2020)
引用先 Дзяргай С. Чатыры стыхіі, Мастацкая літаратура, Мінск, 1988, ст. 39-40

・・・・・・・

Хірасіма

На каменні руін тваіх
Адвіты
На вечныя векі
Смерць і пакуты,
Хірасіма.
Попел жывы
Поўніць бязмежжа
І, не знаходзячы спакою,
Асядае ў нашіх сэрцах,
Хірасіма.
Мы любім і помнім,
Мы шукаем і спадзяемся,
Мы верым і змагаемся.
Змагаемся,
Хірасіма.
Адна хвіліна,
Хвіліна жалобнага маўчання
У памяць таго, што было, –
Гэта вельмі мала,
Хірасіма.
Вечным маўчаннем гармат,
Цішынёй вечнага міру
Ушануем памяць
Ахвар тваіх,
Хірасіма.
Прыйдзе час:
Ўся зямля будзе ў веснім цвеце
І адродзіцца, уваскрэсене
Ціхая слава твая,
Хірасіма.

 1957 г.

・・・・・

 シャルヘイ・ジャルハイ(1907-1980)によるベラルーシ語原詩はこちらの電子図書サイトでも読むことができます。


 1行目の「石の廃墟」というのは原爆ドームのことだと思います。

 私の同僚の図書館司書の話によれば、作者のシャルヘイ・ジャルハイはベラルーシで特別有名でも人気のある詩人というわけではないそうです。ミンスク生まれミンスク育ちで文芸雑誌の編集長をしながら、ロシア語やポーランド語の詩をベラルーシ語に訳したという功績のある人です。

 おそらく来日したこともなく、広島に何かゆかりのある人だとも思えません。

 そうであるにも関わらず「広島」という題名の詩を書いたのはなぜなのでしょう。

 それはやはり、反戦、反核、そして平和を願う強い気持ちから、この作品を書いたのではないでしょうか。