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CACAO通信パート2

食べ物、思い出、その他、不定期に更新しています。
また、母校の県立生田高校3期生の連絡も。

のん木さんのところへ行ってきました

2007年08月04日 | 本と雑誌

7月28、29日と1泊で、のん木さんの住む高梁市へ行ってきました。その様子は、ブログに詳しく書いていただいたので、補足を・・・。

まず工房ですが、山の上でほとんど回りに人も住んでいないような、元農家を利用した所です。とにかく静かなのです。私の住む亀山もわりと静かだと思っていましたが、周りに人がいない静けさというのはあんなに心に沁みてくるものなのだと、しみじみ思いました。風が木の葉を揺らす音が間近に聞こえました。散らかっている工房にビックリ・・・とありますが、全然そんなことはなく、また一見散らかっているように見えて実はそれなにり整然としているという風でした。確かに、和箪笥に惹かれました。特に金具が良かったですね。朝鮮半島からの箪笥というのも、ホテルの方で見ましたが、これはまた趣が違って興味深かったです。金具が細かく細工されていて、数がたくさん付いているのです。目を奪うというのでしょうか。ただ、おもしろいのですが、長く使うというのであれば和箪笥の方が飽きない、五月蝿くないのかという気がしました。帰って、家でいただいた奥様の手料理は、まず好物のポテトサラダがうれしかったです。あと、薄切り肉に大葉を巻いたのが気に入りました。実はその味が忘れられず、我が家で作ってみまのですが、肉が厚かったようで、のん木さんの家の味の再現にはなりませんでした。お刺身も美味しかったです。立山はすっきりとしてよかったです。今度はワインを飲んでもらって、感想を聞いてみたいです。

翌日の寅さんゆかりのお寺は、正直なところ階段だけ見れば充分かなと。広兼邸は、私は古民家とか好きなので、おもしろかったです。石垣の下から見上げる姿は迫力があります。建物では、下男部屋、下女部屋、漬物部屋、仔牛部屋、また茶室、主人居室、玄関など、見応えがありました。車中から見た吹屋小学校はまだ実際に使われているとのこと。中には入れないそうですが、周りから見てみたかったですね。時間が無かったため、のん木さんは山道を飛ばしてくれました。私は、船や車に酔う方なのでハラハラでしたが、幸い酔わずにすみました。

20年数年(?)振りの再会でしたが、若い頃に同じ釜の飯を食べた仲間というのは、まるでちょっと前に分かれただけというような会話が出来るというのは本当にいいもので、何にも代えがたいものです。そのことを感じることが出来たことが、最大の収穫だったと言えると思います。

今度は是非、落語のコレクションを一緒に聞かせていただいて、説明などもお願いしたいものです。


フューチャリスト宣言とウェブ進化論

2007年06月16日 | 本と雑誌

「フューチャリスト宣言」については、まず下記のHPを覗いて見て下さい。

http://www.chikumashobo.co.jp/special/futurist/talk/

印象に残ったのは、これかの最高学府はインターネットの中にあるということ。大学へ行かなくても勉強は出来るということ考えですね。やる気がなきゃもちろんだめですが、その気があればとことんまで出来るという訳です。あと、これからは名刺(履歴書)代わりに、URLやブログがなっていくのでは、ということです。どんな組織に属しているか、あるいはいたかではなくて、どんなことを考え発言しているかという履歴を見てもらうということです。自分の足跡をあちら側に刻むということですね。ニックネームでなく、ローマ字で名字だけですが、自分のブログのサブタイトルに入れたのは、このあたりの影響です。二人の、これからをどうやって生きていくか、(実際の内容的には)ウェブで生きていくということはこういうことではないかという考えが述べられていて、興味深いです。対談というのは普通の本より、まとまりにはやや欠けますが、取っ付きがいいですね。

「ウェブ進化論」(梅田望夫)はインターネットのこの10年あまりの変化と実情、そしてその変化とどうやって付き合い、現実社会とどうおりあいをつけて合わせて生きていったらいいのかということについて書いてあります。特に興味深かったのは、私も公私共に使わない日はないと言って良いくらいの「グーグル」についての記述です。グーグルは、私にとっては便利な検索エンジンという感覚でしかなかったのですが、そうではなくて根本的な発想が従来あったものとは全く異なっているのだということが、まだなんとなくですが、分かりました。そしてそれが極めてアメリカ的というか、シリコンバレー的であるということも。私の感覚でいうと、個人でコンピューターという道具を持てて、世界中と繋がっていろいろな情報を見ることが出来て便利だなぁ、ということに過ぎませんでした。著者の書く「あちら側」つまりウェブ社会というものが、「こちら側」つまり現実の社会と並列する存在として発展していく存在という認識抜きにしては、これからは取り残されてしまうということが感覚としてですが、分かったような気がしました。もちろん、こちら側だけで生きていくことも可能だと思うのですが、自分なりのレベルであちら側の世界も生きないともったいないという気がします(笑)。ウェブの世界で何が起きているのか知るには、一読の価値がある2冊だと思います。

さて、私にとってのインプットは本を読むとかTVを見るとか他の人のブログを読むとかがあって、アウトプットにはブログがあります。インプットはコマ切れでも可能なためコンスタントに少しずつしていますが、残念ながらブログを書くのはある程度まとまった時間がないと出来ません。立派な説や考えを述べるというレベルには達していないので、感想を書き連ねたり、良いと思った本などをすすめてみたりというのが実際です。日々の些細なことの中に感じた事も書いていきたいと思っています。この辺が、現在の私のウェブ宣言というところでしょうか。


吾が輩は猫である&坊ちゃん

2007年02月11日 | 本と雑誌

年明けから思い立って、夏目漱石の「吾が輩は猫である」と「坊ちゃん」を読みました。猫は長い!買う時にもおもいましたが・・・(笑)。これまでのイメージとして、猫の目を通して、人間世界を皮肉たっぷりに描いているユーモア小説というものでした。確かにそうには違いないのですが、レベルが高い。禅語とか漢文とか織り交ぜているので、やたら注釈が多い。さすが漱石先生という感じでしょうか。最後の辺りは、それでも分からない。それに引きかえ、坊ちゃんは素直に面白いといえました。痛快ですね。人物設定やら話しの展開やら、分かり易いです。どちらにも共通しているのは、俗な人物達に対する鋭い批判の目です。でも他人に対するだけでなく、猫ではくしゃみ先生という漱石と思われる人物もしっかり批判しているあたりは、さすがです。ちょっと一休みして、他の作品も読んでみたいものです。


小さき者へ/重松清

2006年12月17日 | 本と雑誌

今年は本当に重松清の本をたくさん読んだなぁという気がします。

文庫の裏表紙によると、「家族」と「父親」を問う全六篇、だそうです。結構コミカルな要素も含んだものが多くて、考えさせられつつも楽しく読めるます。「団旗はためくもとに」の、元応援団団長のお父さんは好きだなぁ。「押忍の心は、(後悔しても)言い訳しない心なんだ。」というあたり、気概を感じます。シリアスな2篇のひとつ、「小さき者へ」は、学校へ行けなくなった息子への出さない手紙という形式ですが、息子との関係より、主人公の子供の頃の父との場面が胸を打ちます。レコードを買うために家のお金を盗もうとした主人公を目撃した父が、怒らずに散らばった小物を一緒に拾って「おまえが落とした物は、一緒に拾うちゃるけん。」「それしか、ようできへん」というところは、涙ものです。本当のところ、親なんてたいしたことなんか出来ない、よかれと思ってしたことがピントはずれで子供にはかえってうっとおしいことも多い。なんか思い当たる気がします。もうひとつ、「海まで」は、帰省した主人公一家と年老いた母との話です。気持ちを表現することに不器用な長男、彼を避けるようなかたくなな祖母、間に入って戸惑う主人公。最後の場面は、切なくでもちょっと心温まります。でも、家族って難しいですね、ホント。


エイジ/重松清

2006年09月30日 | 本と雑誌

これも再読です。中二の男子が主人公。町で通り魔事件が続発。その犯人が同級生だった。その後、主人公が犯人の、お調子者の友達が被害者の気持ちを疑似体験。

重そうなテーマですが、主人公も家族も友達も、結構良い奴ばかりで、そうでもないのです。つまり、週刊誌の再現記事的でなく、実際的なありそうな内容となっています。細かい、抑制の効いた、したがってありそうな描写が巧みです。

今回の印象に残ったフレーズ。『「キレる」って言葉、オトナが考えている意味は違うんじゃないか。我慢とか辛抱とか感情を抑えるとか、そういうものがプツンとキレるんじゃない。自分と相手のつながりがわずらわしくなって断ち切ってしまうことが、「キレる」なんじゃないか。』

微妙な差だとは思いますが、その差を感じることが大事なのかも。

個人的には、主人公が片思いする相沢志穂って女の子が気になったりして・・・。