6
手探りでドアの側まで近寄り,ノブを握ってバタンと閉める。
さっきの声はなんだったのか,よくわからないまま思い出そうとする。
”あなたは違う”
と確かに聞こえた。
言葉はハッキリ憶えているがどんな声だったのかよく思い出せない。
だけど,昔聞いた事がある声だと思う。
それはすごく懐かしい声だった気がする。
瞼を開いて自分の手を握ったり開いたりする。
そして再び瞼を閉じる。
マイク先の二人の声は濁ったりクリアになったりする。
二人が同時にしゃべると声は濁り,どちらかが譲ればクリアに聞こえる。
だがどちらにせよ,二人には俺の声は届かないだろう。
届くのは言葉と音の波形情報だけだ。
声は決して届かない。
”あなたは違う”
その意味を,もう一度考え直す。
あなたはとは本当に俺の事なんだろうか?
俺の事だと思う。それだけは何故かハッキリとわかる。
心の中で何度も何度もこの言葉をリピートする。
この声を,決して忘れてはいけないような気がする。
曖昧だった声を何度も何度もリピートしていると,ポタポタと机の上に雫がこぼれている。
透明な液体を舌先で舐めると,少しだけしょっぱい。
7
論理的思考の帰結する先として。机が塩味だなんていうことはあり得ない。非常にナンセンスであるとしか言えない。
だからこれは液体がしょっぱいのだと。そう結論づけるのが当然だ。
今は冬。一応部屋に暖房はつけているが,それはもちろん適温に設定しているわけで。運動をしているわけでもないので,この液体は汗ではない。
とすればこの液体は――。
目元に手をやると,予想通りというか濡れていた。
あぁ,そうか,と。俺は納得しながら思いをはせる。過去へ。過去へ。過去へ――。
思えば俺は,個性を探していたのだろう。
本当に無個性なのは俺自身。周りの個性が目に眩しく。俺は無個性であることを,個性であると認識することにした。そうでもしないとやっていられなかった。
誰だってそうだと思う。周りには何かしら才能だとか取り柄だとかがあって,それが自分だけに見つからない。そんな環境に放り込まれたら,周りの方が異常なのだと認識したくなるはずだ。
空気の共有? 空気は俺だ。ただあるだけ。存在するだけの俺。存在するために俺はあるのか? そんな存在は自分自身認めたくない。うんざりだ。
いっそこんな存在は,消え去るのが当然の終焉なのだと。そう考えるのが珍しくなくなり始めた頃。
そんな終わりきった――終わりきりかけたときの話。
僕は,彼女に,出会う。
8
彼女は最初,僕の中で特別な人ではなかった。
ただのクラスメートの一人だった。
初めて知った時の印象は声の綺麗な人だった。
ただ,それだけでしかなかった,そんな気がする。
だけど彼女がときおり見せる爽やかな笑顔だけは最初から特別だったのかもしれない。
僕は学校という四角い整理された部屋の中で無個性な一つの生徒番号にしか過ぎなかったけれど,彼女を通して自分を見た時だけ,何故か僕は俺だった。
単にカッコツケだったのかもしれないし,新しい何かが生まれたのかもしれなかった。
いつだって無機質に教室を観測していた機械で出来た物体も彼女が見ている時だけは人間に近かった。
あるいは人間だったのか。
そして人間に憧れた。
笑顔に答えられる表情は,笑顔しかなかったのかもしれない。 <続>
手探りでドアの側まで近寄り,ノブを握ってバタンと閉める。
さっきの声はなんだったのか,よくわからないまま思い出そうとする。
”あなたは違う”
と確かに聞こえた。
言葉はハッキリ憶えているがどんな声だったのかよく思い出せない。
だけど,昔聞いた事がある声だと思う。
それはすごく懐かしい声だった気がする。
瞼を開いて自分の手を握ったり開いたりする。
そして再び瞼を閉じる。
マイク先の二人の声は濁ったりクリアになったりする。
二人が同時にしゃべると声は濁り,どちらかが譲ればクリアに聞こえる。
だがどちらにせよ,二人には俺の声は届かないだろう。
届くのは言葉と音の波形情報だけだ。
声は決して届かない。
”あなたは違う”
その意味を,もう一度考え直す。
あなたはとは本当に俺の事なんだろうか?
俺の事だと思う。それだけは何故かハッキリとわかる。
心の中で何度も何度もこの言葉をリピートする。
この声を,決して忘れてはいけないような気がする。
曖昧だった声を何度も何度もリピートしていると,ポタポタと机の上に雫がこぼれている。
透明な液体を舌先で舐めると,少しだけしょっぱい。
7
論理的思考の帰結する先として。机が塩味だなんていうことはあり得ない。非常にナンセンスであるとしか言えない。
だからこれは液体がしょっぱいのだと。そう結論づけるのが当然だ。
今は冬。一応部屋に暖房はつけているが,それはもちろん適温に設定しているわけで。運動をしているわけでもないので,この液体は汗ではない。
とすればこの液体は――。
目元に手をやると,予想通りというか濡れていた。
あぁ,そうか,と。俺は納得しながら思いをはせる。過去へ。過去へ。過去へ――。
思えば俺は,個性を探していたのだろう。
本当に無個性なのは俺自身。周りの個性が目に眩しく。俺は無個性であることを,個性であると認識することにした。そうでもしないとやっていられなかった。
誰だってそうだと思う。周りには何かしら才能だとか取り柄だとかがあって,それが自分だけに見つからない。そんな環境に放り込まれたら,周りの方が異常なのだと認識したくなるはずだ。
空気の共有? 空気は俺だ。ただあるだけ。存在するだけの俺。存在するために俺はあるのか? そんな存在は自分自身認めたくない。うんざりだ。
いっそこんな存在は,消え去るのが当然の終焉なのだと。そう考えるのが珍しくなくなり始めた頃。
そんな終わりきった――終わりきりかけたときの話。
僕は,彼女に,出会う。
8
彼女は最初,僕の中で特別な人ではなかった。
ただのクラスメートの一人だった。
初めて知った時の印象は声の綺麗な人だった。
ただ,それだけでしかなかった,そんな気がする。
だけど彼女がときおり見せる爽やかな笑顔だけは最初から特別だったのかもしれない。
僕は学校という四角い整理された部屋の中で無個性な一つの生徒番号にしか過ぎなかったけれど,彼女を通して自分を見た時だけ,何故か僕は俺だった。
単にカッコツケだったのかもしれないし,新しい何かが生まれたのかもしれなかった。
いつだって無機質に教室を観測していた機械で出来た物体も彼女が見ている時だけは人間に近かった。
あるいは人間だったのか。
そして人間に憧れた。
笑顔に答えられる表情は,笑顔しかなかったのかもしれない。 <続>