9
笑顔には笑顔。そのことを彼女から学んだその日から。僕は笑うようになった。
そして愕然と気づく。無個性であろうとするがために,感情すら摩耗していたというそのことに。
初めの笑顔はぎこちなく。その感情の向かう先は彼女だけ。それでも僕は笑えたのだ。その瞬間は。確かに。
少しずつ,彼女と接する時間だけが多くなった。僕は相変わらず無個性だったけれど,彼女と接する間だけは何かを感じ取れるような。そんな気がしていた。
そしてそれは決して錯覚ではないと。それを教えてくれたのも彼女だった。
あの日彼女が言った一言。
”あなたは違う”
それは,ある種の衝撃だった。
何が? と。彼女の言いたいことは半ば理解しつつも聞き返す僕に,笑顔を向けて。
”あなたはあなた。あなたは一人だけ。そうでしょう?”
彼女は全て悟っていたのだろうか。俺の心の奥底を。
俺にはよく分からないし,分からなくてもいいと思った。
とにかく俺はその言葉に救われたんだ。その事実だけでいい。
――なんて。そんな美談じみた回想を終える。
実際にはもっとこう……何と言っていいか分からないけれど,違った,気がする。何せ当時の俺たちは,まだまだ世界の汚さとか。醜さとか。そういった裏側を何も知らない子供であって。
俺は自分が事実だけを見る人間だと思うし,これからもそうあると思う。
それでも,いやそんな俺だからこそこの話くらいは美談として残しておいてもいいと思う。そうするべきなのだと思う。
10
暖かい空気を感じた
ふんわりした風が鼻をくすぐった。
ドアは閉めたはずなのに──俺はドアの方にちらっと目をやったが確かにドアは閉まっていた。
窓の外から誰かが呼んでいるような気がしたが,窓に目を向けるのも恐ろしくなってきた。
彼女と手を繋いで帰った時の,あの夕焼けの匂いに似ていた。
ピンク色の,オレンジ色の,紫色の,灰色の暖かいグラデーションだった。
遠くの空が,何かを語りそうで語らなかった。
そして僕たちも何かを語りそうで語らなかった。
ギュッと握った手が,彼女をしっかり伝えていたからきっと僕らには何の言葉も要らなかった。
そんな気がする。
彼女の黒い瞳に僕が映り込んで,僕の瞳に彼女が映り込んで,遙か彼方の上空から流れてくる空気の全てが,僕らの心を映し出していたから,それが世界の全てだった。
だから僕は永遠を夢見ていれば良かったし
夢見る僕らこそが人間だった。
11
――耳元での会話はまだ続いている。終わる気配は見えないようでいて,それでいて一瞬先には終わっていそうな気もする。どちらにせよ今の俺にはどうでもいい。
俺は,アプリケーションを終了させた。
窓の外は明るみ始めていて,やがて日が昇るという現実を告げてくる。
今日,俺は忘れかけていたものを見つけた。
それは,もとを辿ってしまうと今閉じたアプリケーションであり。そして俺に思考させた二人の会話であり。
けれどいくら事実だけを見る俺でも,それは忘れようと思った。現実主義者というほどではないから
時には夢も見るし,事実も改竄する。
それで,いいんだと思う。それも今日見つけたことだと,そういうことにしよう。
日が昇り,サーチライトは次の夜まで役目を終える。探し物は見つかったのだろうか? 俺は見つかった,と語りかけるように呟く。
とりあえず眠かった。こんな事を言わなければこの話もまた美談で終わるのかもしれないけれど。とにかく眠かった。
だから俺は眠る。不思議と,となりに彼女がいるような気がする。その日の夢は予想通りというか何というか,彼女の,夢だった――。 <了>
笑顔には笑顔。そのことを彼女から学んだその日から。僕は笑うようになった。
そして愕然と気づく。無個性であろうとするがために,感情すら摩耗していたというそのことに。
初めの笑顔はぎこちなく。その感情の向かう先は彼女だけ。それでも僕は笑えたのだ。その瞬間は。確かに。
少しずつ,彼女と接する時間だけが多くなった。僕は相変わらず無個性だったけれど,彼女と接する間だけは何かを感じ取れるような。そんな気がしていた。
そしてそれは決して錯覚ではないと。それを教えてくれたのも彼女だった。
あの日彼女が言った一言。
”あなたは違う”
それは,ある種の衝撃だった。
何が? と。彼女の言いたいことは半ば理解しつつも聞き返す僕に,笑顔を向けて。
”あなたはあなた。あなたは一人だけ。そうでしょう?”
彼女は全て悟っていたのだろうか。俺の心の奥底を。
俺にはよく分からないし,分からなくてもいいと思った。
とにかく俺はその言葉に救われたんだ。その事実だけでいい。
――なんて。そんな美談じみた回想を終える。
実際にはもっとこう……何と言っていいか分からないけれど,違った,気がする。何せ当時の俺たちは,まだまだ世界の汚さとか。醜さとか。そういった裏側を何も知らない子供であって。
俺は自分が事実だけを見る人間だと思うし,これからもそうあると思う。
それでも,いやそんな俺だからこそこの話くらいは美談として残しておいてもいいと思う。そうするべきなのだと思う。
10
暖かい空気を感じた
ふんわりした風が鼻をくすぐった。
ドアは閉めたはずなのに──俺はドアの方にちらっと目をやったが確かにドアは閉まっていた。
窓の外から誰かが呼んでいるような気がしたが,窓に目を向けるのも恐ろしくなってきた。
彼女と手を繋いで帰った時の,あの夕焼けの匂いに似ていた。
ピンク色の,オレンジ色の,紫色の,灰色の暖かいグラデーションだった。
遠くの空が,何かを語りそうで語らなかった。
そして僕たちも何かを語りそうで語らなかった。
ギュッと握った手が,彼女をしっかり伝えていたからきっと僕らには何の言葉も要らなかった。
そんな気がする。
彼女の黒い瞳に僕が映り込んで,僕の瞳に彼女が映り込んで,遙か彼方の上空から流れてくる空気の全てが,僕らの心を映し出していたから,それが世界の全てだった。
だから僕は永遠を夢見ていれば良かったし
夢見る僕らこそが人間だった。
11
――耳元での会話はまだ続いている。終わる気配は見えないようでいて,それでいて一瞬先には終わっていそうな気もする。どちらにせよ今の俺にはどうでもいい。
俺は,アプリケーションを終了させた。
窓の外は明るみ始めていて,やがて日が昇るという現実を告げてくる。
今日,俺は忘れかけていたものを見つけた。
それは,もとを辿ってしまうと今閉じたアプリケーションであり。そして俺に思考させた二人の会話であり。
けれどいくら事実だけを見る俺でも,それは忘れようと思った。現実主義者というほどではないから
時には夢も見るし,事実も改竄する。
それで,いいんだと思う。それも今日見つけたことだと,そういうことにしよう。
日が昇り,サーチライトは次の夜まで役目を終える。探し物は見つかったのだろうか? 俺は見つかった,と語りかけるように呟く。
とりあえず眠かった。こんな事を言わなければこの話もまた美談で終わるのかもしれないけれど。とにかく眠かった。
だから俺は眠る。不思議と,となりに彼女がいるような気がする。その日の夢は予想通りというか何というか,彼女の,夢だった――。 <了>