1 ”2003年12月”
年の瀬のこの時期になると,毎年のように”色々あったなぁ”なんて事を思う。
色々に含まれること。例えば,父親が昇進して家族で祝い合ったこととか。弟の受験でどたばたしたこととか。
いつも僕が思うのは,僕から見れば大きな,けれど世界から見ればちっぽけでしかない,そんなこと。
友人知人は僕のことを,「どっかのおじさんみたい」なんて笑って評すけれど,僕自身が”確かにそうかもなぁ”と思っているのでそれはそれでいいだろう。
そんな風に日常のちょっとしたことで一喜一憂したことを振り返ること。それは僕にとってはもう,当たり前とも言えることで。そうできることが素適なことだと感じている自分がいるのだから。
ただ,今年はいつもとは違った。
”別れよう?”
僕は,もう何度も繰り返されたその台詞がまた浮かんでくるのを感じて,目を閉じる。
ほんの数日前。咲紀から聞かされたその言葉。その時は,まさか別れ話をされるなんて思ってもいなかった。
僕はどんな受け答えをしたのだろう。……よく,覚えていない。頭が真っ白になったことまでが,はっきりとした記憶。とても大事な話をされていたはずなのに,咲紀の言葉も僕の言葉も抜け落ちてしまっている。
そんな自分に無性に嫌気がさした。こんなことだから別れ話をされることになったのかもしれない,と思う。と同時に,だけど――とも思う。
咲紀との出会いは中学に入学した時。いつの間にか親しくなって,同じ高校に進学して,気がつけばお互いがお互いを好きになって――。
そこにはドラマや映画にあるような展開なんて全くなくて。けれど僕はそれで良かった。劇的な恋愛なんてよっぽどのことでもなければ起こらないことを知っているつもりだったし,咲紀と一緒に居られるだけで幸せだったから。
咲紀も,同じだと思っていた。笑いあったり,ふざけあったり,時にはけんかしたりするけれど結局また笑いあったり。そんな二人の日々を幸せに感じていると思っていた。それは,僕の勝手な思いこみだったのだろうか。
今となってはもう分からないことだ。連絡が取れるかどうかも定かではないし,もし取れたところでそんなことを訊く気にはなれないだろうから。
――目を開けば,一人きり。外は薄闇に包まれて,電気を消したままの部屋からは夜景が綺麗に映る。咲紀と見た時には輝いて見えたそれが,今の僕には色褪せて見えた。
”隣に咲紀がいないから……”
そう訴えかけてくる感情に蓋をして,目の錯覚だと言い聞かせた。
時刻は夕飯時。夕飯でも作ろうかと体を起こし,とりあえず電気を点けようとして――どうしようもなく無気力な自分に気づかされる。そのまま体をベッドに投げ出した。
虚空の闇を見つめていても,頭に浮かんでくるのは咲紀のことばかり。何か別なことを考えようとするのだが,どうしてもそれしか考えられなかった。
”咲紀,こんなにも僕は君を想っているんだ。それなのにどうして……。咲紀――”
精神的に疲れていたのかもしれない。いつしか僕は深い眠りに落ちていた。
そうしてその冬は,咲紀のことばかり考えながら過ぎていった。
2 ”2004年8月”
咲紀と会わなくなって半年余りが過ぎた。僕がどれだけ咲紀のことを考えようとしても,いつまでもそれだけに浸るわけにはいかない。時間は容赦なく過ぎ去っていく。日々の生活に忙殺されるようにして,僕は咲紀のことから離れようとしていた。
それは残酷なことなのかもしれない。僕は無情な人間なのかもしれない。
僕だって,できることならば思い出と過ごしていたい。だけれどそんなことはできない。日常に生きるのなら,思い出に生きることはできないから。
その日は猛暑だった。まだ午前中だというのに気温は30度を超え,体中汗が噴き出してくる。家で冷房の効いた部屋にでも居たいところだったが,僕は外にいた。冷蔵庫の中がほとんど空に近い状態になっていたんだから仕方がない。
うだるような暑さに耐えながら,アスファルトの上を歩いていく。日光で熱せられているだろうアスファルトからは,煙が立ち上ってくるような気がしてくる。
向かう先は近所のスーパー。早くほどよく冷房の効いた店内に入ってしまいたくて,少し足を速める。
そんな時だった。僕がその姿を見つけたのは。
肩にかかる茶色がかった髪に,雪のように白い肌。両の瞳も色素が薄いのか茶色っぽく見える。
初めは,その少女のことを咲紀かと思った。だけれど違う。
黒い毛糸の帽子にコートにブーツ。白いマフラーと手袋。どこからどう見ても冬服としか思えない格好をしたその少女。この暑さの中,その少女は不思議と汗一つかいていなかった。
顔はよく似ているが咲紀ではない。僕はそう判断した。咲紀であるはずがないと思った。
当初の目的を思い出し,足を進めようとして――その少女から目が離せなくなっている自分がいた。なぜだか分からないが,その少女を見つめ続けていた。
どれくらいそうしていただろう。僕の視線に気づいたのか少女がこちらを向いた。視線と視線が交錯する。
何か口に出そうとするのだが,上手く言葉にならない。少女も僕を見たまま何も言わない――突然その視線が上へと動く。つられるようにして僕も上を向いた。天を仰ぐような格好になる。
「……え?」
何が起きているのか,よく分からなかった。見上げた空から降り注ぐ白い小さな物体。ゆっくりと落ちてくるそれが,僕の頬に触れた。一瞬遅れてひんやりとする。
”もしかして……雪?”
明らかに雨ではないし,雹でもない。この季節にまさか,と思ったがそれ以外考えられなかった。
”けど,どうして――?”
僕の視線が再び少女へと注がれる。この少女なら疑問の答えを知っているという,確信めいた思いがあった。
「……はおん」
透明感のある澄んだ声がした。綺麗な,声だった。
「私,羽音」
僕を見て少女は一言。急なことで,どう返したらいいか分からない。戸惑いを隠せずにいる僕を,しかし少女は気にする風もなかった。にこりと微笑みを浮かべたかと思うと,くるりと後ろを向いて走り出してしまった。
「あ,おい」
慌てて追いかけるが,少女の足は予想外に速くなかなか距離は詰まらない。少し行くとT字路になっていて少女はそこを左へと曲がっていった。僕も数秒と間を空けずにそれに続く。が,しかし。
「あれ,いない」
曲がった先に少女の姿はなかった。
”羽音……か”
全力で走ったせいで上がった息を整えながら,羽音と名乗った少女のことを考える。何もかもが不思議で忘れられるとも思えない出来事だったが,最後の笑顔が特に強く印象に残っていた。
「また会えるかな」
口に出して初めて,自分がまた羽音に会いたいのだと気づいた。理由はよく分からない。単なる好奇心なのかもしれないし,そうでないかもしれない。
また会えるかどうかなんてことが今の僕に分かるはずもない。ただ,確信めいた予感があった。
そして僕は,それが気のせいではなかったことを知ることになる。
夏のある暑い日。僕と羽音はこうして出会った。 <続>
年の瀬のこの時期になると,毎年のように”色々あったなぁ”なんて事を思う。
色々に含まれること。例えば,父親が昇進して家族で祝い合ったこととか。弟の受験でどたばたしたこととか。
いつも僕が思うのは,僕から見れば大きな,けれど世界から見ればちっぽけでしかない,そんなこと。
友人知人は僕のことを,「どっかのおじさんみたい」なんて笑って評すけれど,僕自身が”確かにそうかもなぁ”と思っているのでそれはそれでいいだろう。
そんな風に日常のちょっとしたことで一喜一憂したことを振り返ること。それは僕にとってはもう,当たり前とも言えることで。そうできることが素適なことだと感じている自分がいるのだから。
ただ,今年はいつもとは違った。
”別れよう?”
僕は,もう何度も繰り返されたその台詞がまた浮かんでくるのを感じて,目を閉じる。
ほんの数日前。咲紀から聞かされたその言葉。その時は,まさか別れ話をされるなんて思ってもいなかった。
僕はどんな受け答えをしたのだろう。……よく,覚えていない。頭が真っ白になったことまでが,はっきりとした記憶。とても大事な話をされていたはずなのに,咲紀の言葉も僕の言葉も抜け落ちてしまっている。
そんな自分に無性に嫌気がさした。こんなことだから別れ話をされることになったのかもしれない,と思う。と同時に,だけど――とも思う。
咲紀との出会いは中学に入学した時。いつの間にか親しくなって,同じ高校に進学して,気がつけばお互いがお互いを好きになって――。
そこにはドラマや映画にあるような展開なんて全くなくて。けれど僕はそれで良かった。劇的な恋愛なんてよっぽどのことでもなければ起こらないことを知っているつもりだったし,咲紀と一緒に居られるだけで幸せだったから。
咲紀も,同じだと思っていた。笑いあったり,ふざけあったり,時にはけんかしたりするけれど結局また笑いあったり。そんな二人の日々を幸せに感じていると思っていた。それは,僕の勝手な思いこみだったのだろうか。
今となってはもう分からないことだ。連絡が取れるかどうかも定かではないし,もし取れたところでそんなことを訊く気にはなれないだろうから。
――目を開けば,一人きり。外は薄闇に包まれて,電気を消したままの部屋からは夜景が綺麗に映る。咲紀と見た時には輝いて見えたそれが,今の僕には色褪せて見えた。
”隣に咲紀がいないから……”
そう訴えかけてくる感情に蓋をして,目の錯覚だと言い聞かせた。
時刻は夕飯時。夕飯でも作ろうかと体を起こし,とりあえず電気を点けようとして――どうしようもなく無気力な自分に気づかされる。そのまま体をベッドに投げ出した。
虚空の闇を見つめていても,頭に浮かんでくるのは咲紀のことばかり。何か別なことを考えようとするのだが,どうしてもそれしか考えられなかった。
”咲紀,こんなにも僕は君を想っているんだ。それなのにどうして……。咲紀――”
精神的に疲れていたのかもしれない。いつしか僕は深い眠りに落ちていた。
そうしてその冬は,咲紀のことばかり考えながら過ぎていった。
2 ”2004年8月”
咲紀と会わなくなって半年余りが過ぎた。僕がどれだけ咲紀のことを考えようとしても,いつまでもそれだけに浸るわけにはいかない。時間は容赦なく過ぎ去っていく。日々の生活に忙殺されるようにして,僕は咲紀のことから離れようとしていた。
それは残酷なことなのかもしれない。僕は無情な人間なのかもしれない。
僕だって,できることならば思い出と過ごしていたい。だけれどそんなことはできない。日常に生きるのなら,思い出に生きることはできないから。
その日は猛暑だった。まだ午前中だというのに気温は30度を超え,体中汗が噴き出してくる。家で冷房の効いた部屋にでも居たいところだったが,僕は外にいた。冷蔵庫の中がほとんど空に近い状態になっていたんだから仕方がない。
うだるような暑さに耐えながら,アスファルトの上を歩いていく。日光で熱せられているだろうアスファルトからは,煙が立ち上ってくるような気がしてくる。
向かう先は近所のスーパー。早くほどよく冷房の効いた店内に入ってしまいたくて,少し足を速める。
そんな時だった。僕がその姿を見つけたのは。
肩にかかる茶色がかった髪に,雪のように白い肌。両の瞳も色素が薄いのか茶色っぽく見える。
初めは,その少女のことを咲紀かと思った。だけれど違う。
黒い毛糸の帽子にコートにブーツ。白いマフラーと手袋。どこからどう見ても冬服としか思えない格好をしたその少女。この暑さの中,その少女は不思議と汗一つかいていなかった。
顔はよく似ているが咲紀ではない。僕はそう判断した。咲紀であるはずがないと思った。
当初の目的を思い出し,足を進めようとして――その少女から目が離せなくなっている自分がいた。なぜだか分からないが,その少女を見つめ続けていた。
どれくらいそうしていただろう。僕の視線に気づいたのか少女がこちらを向いた。視線と視線が交錯する。
何か口に出そうとするのだが,上手く言葉にならない。少女も僕を見たまま何も言わない――突然その視線が上へと動く。つられるようにして僕も上を向いた。天を仰ぐような格好になる。
「……え?」
何が起きているのか,よく分からなかった。見上げた空から降り注ぐ白い小さな物体。ゆっくりと落ちてくるそれが,僕の頬に触れた。一瞬遅れてひんやりとする。
”もしかして……雪?”
明らかに雨ではないし,雹でもない。この季節にまさか,と思ったがそれ以外考えられなかった。
”けど,どうして――?”
僕の視線が再び少女へと注がれる。この少女なら疑問の答えを知っているという,確信めいた思いがあった。
「……はおん」
透明感のある澄んだ声がした。綺麗な,声だった。
「私,羽音」
僕を見て少女は一言。急なことで,どう返したらいいか分からない。戸惑いを隠せずにいる僕を,しかし少女は気にする風もなかった。にこりと微笑みを浮かべたかと思うと,くるりと後ろを向いて走り出してしまった。
「あ,おい」
慌てて追いかけるが,少女の足は予想外に速くなかなか距離は詰まらない。少し行くとT字路になっていて少女はそこを左へと曲がっていった。僕も数秒と間を空けずにそれに続く。が,しかし。
「あれ,いない」
曲がった先に少女の姿はなかった。
”羽音……か”
全力で走ったせいで上がった息を整えながら,羽音と名乗った少女のことを考える。何もかもが不思議で忘れられるとも思えない出来事だったが,最後の笑顔が特に強く印象に残っていた。
「また会えるかな」
口に出して初めて,自分がまた羽音に会いたいのだと気づいた。理由はよく分からない。単なる好奇心なのかもしれないし,そうでないかもしれない。
また会えるかどうかなんてことが今の僕に分かるはずもない。ただ,確信めいた予感があった。
そして僕は,それが気のせいではなかったことを知ることになる。
夏のある暑い日。僕と羽音はこうして出会った。 <続>