ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

境界の日本史 森先一貴、近江俊秀 進歩・中心史観に挑戦 発想や歴史観の大転換を求める

2019年07月28日 | 読書日記
境界の日本史 森先一貴、近江俊秀 日本列島における地域性の違いはどうやって生まれたのか
 
 
 書き出しが挑戦的だ。最初の見出しが「進歩・中心史観からの脱却」とある。「これまでの日本史は、発展段階論にもとづく『進歩史観』と、列島中央部に成立した一政権に焦点をあてた『中心史観』によって語られることを基本としていた」。進歩史観とはマルクス史観あるいはそれに影響を受けた発展史観で、中心史観とは天皇中心史観やそれを基軸にする歴史観だろう。だが、著者はそれに異を唱える。「元をたどればこうした歴史観は、世界を支配せんとばかりに植民地主義を推し進めてきた西洋文明が、自らを世界の中心かつ人類発展のめざすべき頂点とし、植民地の先住民社会を進歩史上の遅れた存在とみなす、一九世紀に主唱された考え方である」。
 
 筆者は地域史の重要性と「境界」から地域をみることの「意味」に着目する。「地域を分かつ境界がどのようにして生み出され、受け継がれるのか」「まず一部では、先史時代の生活文化の地域性を探る。獲得経済に立脚していた日本列島の先史時代(旧石器時代・縄文時代)において、境界の形成は自然に規制されていたといえる」「二部では、稲作が弥生時代に到来・定着してから中世までの歴史を扱う。(中略)境界の形成を考えた場合、土地所有の概念がより強く認識され、いうなれば『越えるべからざる境界』が明確に認識されるようになる」。
 
 鮮烈な問題意識に圧倒されるが、これが歴史学の地平のひとつの到達点なのだろう。二人の筆者はともに文化庁の文化財調査官。森先氏は1979年生まれで、専門は先史考古学。近江氏は1966年生まれ。専門は日本古代交通史。ともにフィールドワークを重視する異色の歴史学者のようだ。一部は森先氏、二部は近江氏の担当だ。
 
 こうした発想は最近のものかと思っていたら、岡正雄という民俗学者は1933年に「『日本文化』の形成過程について、周辺大陸文化との比較をもとに壮大な見取り図を発表し、近代的な学問分野としての日本民族学の基礎を作り上げた人物と評される」。彼は1958年の著作で、「『おそらく日本列島には先行文化を一挙に消滅させ文化的連続を断絶させたような新来文化は入ってこなかった』。ただし、『こんにち見られる日本文化の多彩・多様さは、同系同質文化の発展過程における分化的展開によって成立した姿形としてだけで、説明されないだろう』とも述べている。その上で、『日本固有文化は、南中国、江南地域、インドネシア方面から渡来したいくつかの農耕民文化の分厚い地盤の上に、支配者文化が被覆してできあがった混合文化である』とした」。こうした考え方が江上波夫氏の『騎馬民族征服王朝説』(1967)に強い影響を与えたことはよく知られているという。
 
 筆者は考古学研究の問題点を指摘する。「一つは先史時代の深みから広く日本の歴史をみわたした研究がこれまで欠けていた」「一九六〇年代後半以降の欧米(とくにアメリカ)を中心に、文化といっているものは生活文化(技術や生業)、社会、政治、宗教や世界観といったものの総合体、すなわち『システム』とみるべきだという考え方が提唱された」。その意味で、「考古学はじつは過去の人や社会全般を扱う総合科学の側面を持つ」と指摘する。
 
 本文の書き出しもユニークだ。「日本列島はアジア大陸東縁部に浮かぶ花綵(=花飾り)列島とも呼ばれる細長い島弧である。東西にも南北にも長く伸びるため、多様な気候条件を含んでいる。また、その陸地面積の約七割が山地で、きわめて起伏に富んでいる」「およそ二〇〇〇万~一五〇〇万年前にユーラシア東縁部から切り離されて以降、長く複雑な地殻変動を経て現在の列島の姿になったのである」。
 
 「このような日本列島の気候の特徴は常に不変だったのだろうか。その答えは意外にも極北の地からもたらされる」。北極圏にあるグリーンランドの氷床には、過去十万年分以上の気候変動のデータが記録されている。氷床へのボーリングの結果、次第に過去の気候変動が明らかになってきた。「ボーリングコアが明らかにしたのは、きわめて不安定で急激な気候変動の繰り返しであった。(中略)一万年あまり前から現在までの完新世は温暖で比較的安定した気候であったが、それ以前の更新世は、単に寒いだけの時期だけではなく、急激な温暖化と寒冷化が唐突かつ複雑に繰り返すという、それまでまったく想像だにしていない世界だったのである」。
 
 福井県にある三方五湖のひとつ、水月湖にも古環境情報が秘められている。「そこに直接流れ込む河川が少なく湖底での生物活動もほとんどないという特殊条件が備わっているため、湖底に溜まった毎年毎年の堆積物が、その後ほとんど乱されていない。このため、世界でも最高品質の長期間にわたる年代目盛りを提供する」「過去一五万年分の気候変動・環境変化によると、まず一二万~一一万年前と、最近一万年間が温暖期にあることがわかる」「複雑な気候変動下にあったため一概にいうことは難しいが、日本列島でも、最終氷期(約二万年前)は今より五~七度も気温が低く、東京あたりが現在の札幌付近に近い環境条件にあったといわれる」。
 
 「氷期には地球の水分が極地に多く固定されて(中略)海面は今より一〇〇㍍ほども低かった。そのため、陸地も今よりはるかに広く、(中略)現在の北海道はサハリン島や国後島とともに大陸と陸続きになっていた。本州・四国・九州も地続きであったが、朝鮮半島との間には細い海峡が存在したと考えられている」。
 
 本書ではそれを古北海道半島、古本州島と呼ぶが、北海道がサハリンとつながりシベリアと一体化し、瀬戸内海がなく本州、四国、九州がつながった地図を見ると不思議な気がする。このころも琉球列島は古本州やアジア大陸とはつながっていない。
 
 そういえばブラキストン線と呼ばれる動物相の境界が津軽海峡にあることを思い出した。北海道にはヒグマがいるが、本州にはツキノワグマが生息する。逆にニホンザルは北海道には生息しない。自然界における動物相は津軽海峡を境に大きく異なる。
 
 ここからが先史考古学の世界だ。筆者は遺跡から出土する石器の材質や形状をもとに地域性の違いに迫る。約三万年前、南九州に姶良=あいら=カルデラ(鹿児島湾)を形成した巨大火山の噴火を境に、旧石器時代遺跡の時期を分ける考え方が大勢だという。巨大噴火は九州南部を大火砕流で焼き尽くしたと考えられている。
 
 日本の旧石器時代は列島にホモ・サピエンスが到来した約三万八〇〇〇年前に始まると考えられ、土器が出現する約一万六〇〇〇年前まで続く。これは各地に散在する遺跡で証明されているが、旧石器時代の人骨が出土した例はほとんどない。「日本列島は基本的に酸性土壌であり、縄文時代以降に多雨になったこともあって、多くの有機質遺物が失われてしまっている」。この例外が琉球列島で、石垣島の遺跡では約二万八〇〇〇年前から二万年前の人骨十数体分が見つかっている。「進行中のDNA分析によれば、彼らは中国の南部か東南アジアで約五万年前に誕生したと考えられるDNAの特徴を持っていたことが知られている」。こうした人たちは中国南部や東南アジアから東シナ海を渡ってきたのだろうか。
 
 逆に北ルートはどうか。北海道で見つかっている旧石器時代の遺跡は二万年前ごろのもので、一部の学者から「シベリアからサハリンを経て北海道へと、寒冷地に生息するマンモス動物群を追って狩猟採集民が南下してきたという学説が唱えられた」。
 
 姶良火山の巨大噴火は植生や動物相に甚大な影響を与えた。巨大噴火は膨大な火山灰を噴き上げて気候を長期間寒冷化する。姶良火山の噴火は日本列島で、針葉樹林の拡大を一気に進めた。古本州島ではナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物が二万数千年前ごろ、生息数を大きく減らしている。巨大噴火が古本州島の生態系に重大な影響を与えたことは間違いない。
 
 噴火と直接の関係はないが、寒冷化による海水面の低下で、「最深部でも四〇メートルほどの深さしかない瀬戸内海は完全に陸地と化していた」。この「古瀬戸内平原」には狩猟採集民が暮らしていた。ここにはサヌカイトと呼ばれる加工しやすい安山岩が産出し、人々は鋭利なナイフのように加工して狩猟に利用した。筆者は旧石器時代の遺跡から出土した石器の形状や材質の分類から、およそ二万五〇〇〇年前から二万年前の日本列島を「細石刃技術が発達」(北海道)、「横長剥片剥離技術が発達」(瀬戸内地方)など九つの地域に分類する。琉球列島などは石器ではなく、「貝器が発達か」となっている。日本列島の地域性に応じて異なるタイプの石器が利用され、発達したのは自然のことだろう。
 
 それでも人々は住み慣れた土地を離れて別の土地に越境する。筆者はそれを古瀬戸内平原で発達したナイフ形の石器が全国にどのように広まったかでみる。狩猟採集民は広範囲に移動する。筆者が「国府型ナイフ形石器」と呼ぶ石器は佐賀県など九州西北部でもみつかり、中国山地や山陰地方でもみつかった。ただ、この時期の遺跡が多い東海から関東ではみつかっていない。これに対し、新潟県三条市や山形県鶴岡市の遺跡からは同形の石器や石器製作の痕跡もみつかっている。筆者は移住先の環境が似ていたことが、人々の移動につながったのではないかとみる。「九州西北部から瀬戸内地方を経て東海西部までは、いわゆる瀬戸内火山帯を源とする安山岩地帯が延びている。加えて、北陸から新潟県下にも良質安山岩原産地が点々と延びており、安定して安山岩を確保することができる」。大胆きわまりないが、面白い仮説だと思う。
 
 二部は「時代を超えて受け継がれる境界」。筆者の近江氏は縄文時代と弥生時代の連続性を強調する。「かつては、縄文人と弥生人は別の民族であり、海を渡ってきた弥生人が縄文人を追い払い、西日本に弥生文化をもたらしたという説が有力視されており、縄文人は先住民で現在の日本人のルーツは弥生人にあると考えられていた」。だが、現在では「大陸や朝鮮半島のさまざまな地域からやってきた渡来人が、縄文人と融和・混血し、多様な特徴をもつ『弥生時代の列島人』が生まれたのだと考えられるに至っている。(中略)かつてのような縄文人を弥生人が駆逐したという学説は完全に否定されている」「縄文時代と弥生時代のあいだには大陸からの大規模な人の移動が認められるものの、それは民族そのものが置換されたものではなく、段階的な融合であることがわかってきた」。
 
 筆者はさまざまな要素から列島の地域性に迫る。ひとつが大陸や朝鮮半島からもたらされた稲作の広がり。「稲作に代表される弥生文化は北部九州に伝わってから、徐々に東へと広がり、弥生時代前期のうちに太平洋側では濃尾平野まで、日本海側では若狭湾沿岸まで広がるが、なぜかそこから東へは、なかなか浸透しなかった」「東日本で稲作を開始したころの集落は東海やそれ以西の地域の移住者によるものである可能性が高く、東日本の人びとは稲作の導入、さらにいえば弥生文化の導入を拒んだ節がある」。
 
 「西日本の縄文人は大陸から渡来してきた人と共存する道を選んだ。そのことは土器の出土からも裏づけられる。西日本では縄文晩期に突帯文土器と呼ばれるシンプルな土器を用いていた。そこに、稲作とともに北部九州から遠賀川式土器が入ってくるのであるが、この二つの土器は共存する場合が多い」「しかし、西と東の境界である濃尾平野では様子がだいぶ違っている。このあたりでは縄文土器の影響をとどめる条痕文土器と遠賀川式土器が出土する遺跡は明確に分かれている」。この近くの愛知県田原市の遺跡では「西日本ではほとんどみられない殺害されたことを示す傷が認められる縄文時代晩期の殺傷人骨が複数、出土している。これは西と東の境界に当たるこの付近で集団間の対立があった可能性を示している」。
 
 このころ、「平和的に渡来人を受け入れたはずの西日本でも、戦争が始まる。最も激しい戦争は、どうやら稲作伝来の地である北部九州で行われたようである」「弥生時代前期後半から中期になると、殺傷人骨の出土は佐賀平野、筑後平野まで広がりを見せる。そして中期中ごろには玄界灘沿岸地域では殺傷人骨は認められなくなり、佐賀平野、筑後平野で急増する。おそらく、玄界灘沿岸の集団が大首長のもとに統合され、その集団が周辺に侵攻し始めたのだろう。これと同様のことは、瀬戸内や近畿、山陰でも認められ、弥生時代後期には西日本各地で戦争が勃発し、それによって集団の統合が進んでいったと考えられる」。
 
 筆者は前方後円墳の分布や規模などからも被葬者が支配した地域圏の広がりを推定していく。奈良時代には律令が整備され、日本は律令国家としての体裁を整えるが、税としておさめさせた物にも地域性が生じていた。多くは米だが、志摩国(三重)の場合、海産物の納入が義務づけられた。また飛騨国(岐阜)の場合、飛騨工(ひだのたくみ)を出すことが義務づけられた。工は「建築や材木採取などを司る木工寮に配置され、甲賀宮や石山寺、平安宮など当時の国営事業のことごとくに携わったが、その業務は過酷であり、(日本後紀などに)何度か飛騨工の逃亡記事が認められる」。
 
 江戸時代に幕府や各藩が関所を設け、領民の通行を厳しく制限したことはよく知られている。「(奈良時代に姿が整った)律令国家は公民が国外に出ることを許可制とし、関により通行を管理した」。通行手形は木簡で発行され、国境には通行を管理する役所が置かれた。「こうした交通の自由を束縛する政策と里(郷)ごとに把握された戸籍による公民の管理により、国ー郡ー里という地域が固定化されたのである」。
 
 それでは東日本と西日本の境界はどこに置かれたのだろうか。筆者はそれを七世紀後半までに設けられた畿内からの出口の三つの関とみる。鈴鹿の関は三重県亀山市、不破の関は岐阜県西部、愛発(あらち)の関は福井県南部に置かれ、中央から役人が派遣されたほか、武器も常備していた。単なる関所ではなく、鈴鹿の関の場合、自然の地形を利用し、土塁や築地塀を築いて交通を遮断する「堅牢かつ荘厳な施設であった」「一方。都から西ではこうした関は設けられることはなかった。(中略)当時の国家は西よりも東との境を重視していたのである」。
 
 その理由として筆者は国の成り立ちの違いを挙げる。「畿内を中心とした倭王権はおもに西の連合政権であった。それに対し、東国はヤマトタケル伝承に象徴されるように、倭王権に服属した地域であり、王権への奉仕が義務づけられた地域であったことが東西それぞれの社会の違いにつながったと考えられる」「三関を設けて、有事の際には東西交通を遮断する政策を取ったのも、中央政府の東国に対する恐れを示している」。さらに、境界を固定化することで、「人びとの意識の中に、この境界の向こう側には異質な集団の領域が広がっているという意識を強く植え付けた」。
 
 「境界は時代による政治形態の違いにより、顕在化したり潜在化したりしてきたが、確実に踏襲されてきた。国家が誕生へと向かい、地域への支配力を強めると、地域集団の個性は潜在化する反面、国家が支配単位を設定することで境界は政治的に明確化される。逆に国家の地域への支配力が弱まると地域集団の個性が顕在化し、境界をめぐる争いが起こる。こうした繰り返しの中でも、旧石器時代から形作られてきた境界は基本的には踏襲されてきた。それは旧石器時代から現代につながる境界が、日本列島の風土に適応した人間の営みの歴史によって成立したからである」。
 
 評者は退職後、旅行の機会がぐっと増えた。国内でも交通不便な地域や離島に行くことも少なくない。知らない土地を旅すると日本列島の多様性や地域性に目をみはる。亜寒帯の北海道から亜熱帯の琉球列島まで、気候ばかりか自然や文化も大きく異なる。農産物や水産物などの地域性も大きい。こうした多様性、地域性を意識的に軽視・無視する形で、為政者は発展史観、中心史観を強調し、国の一体化を進めてきた。だが、一方でその限界もはっきりしている。進歩・中心史観から距離をおき、列島の多様性や地域性に思いをはせることには大きな意義がある。豊かな自然に親しみ、温泉や山歩き、美しい海や湖を楽しむ。それこそが地震や火山の噴火、台風、水害など自然災害に悩まされ続けるこの国に住むうえで、最大の幸福かもしれない。