ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

時間は存在しない カルロ・ロヴェッリ 富永 星訳 量子重力理論の第一人者が説く時間とは何か

2020年03月19日 | 読書日記
時間は存在しない カルロ・ロヴェッリ 富永 星訳 時間とはいったい何なのか、理論物理学者が明かす研究最前線


 タイトルを見て面食らった。理論物理学研究の最前線にいる物理学者が「時間は存在しない」と断言するのだから。カルロ・ロヴェッリ氏は1956年、イタリア北部のヴェローナに生まれ、ボローニヤ大学を出た後、イタリアやアメリカの大学に勤務し、現在はフランスのエクス-マルセイユ大学の理論物理学研究室で、量子重力理論の研究チームを率いている。「ループ量子重力理論」の提唱者の一人だ。200頁あまりの冊子で、分量的にはさほど多くない。ただ至るところに古今東西の哲学者や文豪、詩人からの引用があって、理論物理学者というだけでなく、古典に通じた博学博識の人だと認識させられる。各章の扉には古代ローマの詩人ホラティウスの「歌集」からの引用が掲げられている。前書きは「もっとも大きな謎、それはおそらく時間」と題されている。うかつなことに読了してから気づいたのだが、ロヴェッリ氏の著作は2017年8月11日付けの本ブログ「すごい物理学講義」で紹介している。当然のことながら同じような感想を書いているので、その点はご容赦願いたい。

 本文はこう始まる。「動きを止めて、何もしない。何も起こらず、何も考えない。ただ、時の流れに耳を澄ます。これが、わたしたちが親しみ馴染んでいる時。わたしたちを荒々しく運ぶ時。秒、時間、年の流れはわたしたちを生へと放り出し、無へと引きずってゆく……。(中略)わたしたちは、時間のなかの存在なのだ。時の子守歌はわたしたちを育み、世間を開いてみせる。(中略)宇宙も時間に導かれて未来へと展開し、時間の順序に従って存在する」。

 「だが、事はそう単純ではない。現実は往々にして見かけとまるで違っている。地球は平らに見えるが、じつは丸い。太陽は空を巡っているように見えるが、回っているのはわたしたちのほうだ。そして時間の構造も見かけとは違い、一様で普遍的な流れではない。当時大学生だったわたしは、物理学の本にそう記されているのを見てあっけにとられた。時間のありようが、見かけとまるで異なっているとは」「それらの本にはまた、時間がどのように機能するのか、ほんとうのところはまだわかっていないと記されていた。時間の正体は、おそらく人類に残された最大の謎なのだ。そしてそれは奇妙な糸によって、精神の正体や宇宙の始まり、ブラックホールの運命や生命の働きといったほかの大きな未解決の謎とつながっている」。

 「驚嘆の念こそがわたしたちの知識欲の源であり、時間が自分たちの思っていたようなものでないとわかったとたんに、無数の問いが生まれる。時間の正体を突き止めることは、これまでずっとわたしの理論物理学研究の核だった。これからみなさんに、わたしたち人類が時間について知り得たこと、時間への理解を深めるためにたどってきた道、そしてまだわからない点もあるが、かすかに見え始めたと思われることを、紹介していきたい」。

 語り口はやわらかいが、内容は深遠だ。第一部は「時間の崩壊」と題されている。第一章は「所変われば時間も変わる」。やや緊張して読み始めると、「簡単な事実から始めよう。時間の流れは、山では速く、低地では遅い。その差はほんのわずかだが、今日インターネットで数千ユーロ〈数十万円〉も出せば買える正確な時計を使えば計ることができる。(中略)専用の実験室に据えられた時計を使うと、数センチの高さの差によって生じる時間の減速も検出できる。床に置いた時計の方が、卓上の時計よりほんの少し時間の刻みが遅いのである」「遅くなるのは時計だけではない。低いところではあらゆる事柄の進展がゆっくりになる。二人の友が袂を分かち、一人は平原で、もう一人は山の上で暮らし始めたとしよう。数年後に二人が再会すると、平原で暮らしていた人は生きてきた時間が短く、年の取り方が少なくなっている。(中略)低地では、高地より時間がゆっくり流れているのだ」。

 このあたりまでは何とか理解できる。相対性理論が明らかにするところだ。「測定に使える精度の高い時計ができる100年も前に、このような時間の減速に気づいた人物がいたことに驚くべきだろう。その名は、アルベルト・アインシュタイン」。

 「実際に観察する前に理解する力、それが、科学的思考の核にある。古代ギリシャの哲学者アナクシマンドロスは、地球を一周する航海が行われるずっと前に、頭の上の空がさらにずっと広がって、自分たちの足下のはるか下へと続いていることを理解していた。近代黎明期に生きたコペルニクスは、月に降り立った宇宙飛行士がその目で回転する地球を目の当たりにするずっと前に、地球が回っていることを知っていた。同様にアインシュタインは、精密な時計ができて時間の流れの差を計れるようになる前に、時間が至る所で一様に経過するわけではないことを理解していたのだ。わたしたちはこのような歩みのなかで、自分たちには当然と思える事柄が実は先入観であることを知った」。

 「アインシュタインは、わたしたちの多くが重力について研究する際に頭をしぼってきた一つの問いを自らに投げかけた。太陽と地球が互いに触れることなく、中間にあるものもまったく使っていないとしたら、この二つはどうやって互いを重力で『引き合っている』のか。そして、妥当と思われる筋書きを見つけた。太陽と地球が直接引き合っているのではなく、それぞれが中間にあるものに順次作用しているのではなかろうか。だとすると、この二つの間には空間と時間しかないから、ちょうど水に浸かった物体がそのまわりの水を押しのけるように、太陽と地球がまわりの時間と空間に変化をもたらしているはずだ」

 「では、この『時間の構造の変化』とはいったい何なのか。じつはそれが、先ほど述べた時間の減速なのだ。物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。山より平地の方が減速の度合いが大きいのは、平地のほうが地球〈の質量の中心〉に近いからだ」「物が落ちるのは、この時間の減速のせいなのだ。惑星間空間では時間は一様に経過し、物も落ちない。落ちずに浮いている。いっぽうこの地球の表面では、物体はごく自然に、時間がゆっくり経過するほうに向けて動くことになる」。

 「物理学では、個別の現象を測定したときに個別の時計が示す時間のことを『固有時』と呼ぶ。(中略)アインシュタインはわたしたちに、固有時が互いに対してどう展開するかを記述する方程式をもたらした。二つの時間のずれの計算方法を示したのだ。『時間』と呼ばれる単一の量は砕け散り、たくさんの時間で編まれた織物になる」

 「これが、アインシュタインの一般相対性理論による時間の描写である。相対性理論の方程式には、単一ではなく無数の『時間』がある。二つの時計がいったん分かれてから再会する場合と同じで、二つの出来事の間の持続時間は一つに定まらない」「こうして時間は、最初の層である『単一性』という特徴を失う。時間は、場所が違えば異なるリズムを刻み、異なる進み方をする。この世界の事物には、さまざまなリズムの踊りが編み込まれている」。

 納得できるかどうかは別として、なかなか鮮やかな説明だ。孫悟空がお釈迦さまの手のひらで踊らされたように、読者は著者の掌のうえで踊っているような気分になってくる。

 「アインシュタインは、質量によって時間が遅れることを理解する10年前に、速度があると時間が遅れるということに気づいていた。そしてこの発見は、わたしたちの直感的で基本的な時間の感じ方に壊滅的な結果をもたらした。事はいたって簡単で、二人の友を(中略)片方にはじっとしているように、もう片方には歩き回るように頼む。すると動き続けている人間にとっては、時間がゆっくり進むのだ」。

 「このような動きの影響を実際に目で見るには、うんと速く動く必要がある。この差がはじめて測定されたのは、1970年代のことだった。飛行機に正確な時計を載せたところ、その時計が地上に置かれた時計より遅れたのだ。速度による時間遅延は、今ではさまざまな物理実験によって直接観察することができる」。

 こうした事実をもとに、筆者は「今」には何の意味もないことを論証する。「たとえば、みなさんの姉が太陽系外惑星プロキシマ・ケンタウリbにいるとしよう。これは最近見つかった惑星で、地球から約四光年離れた恒星のまわりを回っている」。

 ここで、お姉さんは今、プロキシマ・ケンタウリbで何をしていますかという質問が発せられる。「正解は『その質問には意味がない』」「もしもお姉さんが同じ部屋にいて、『今きみのお姉さんは何をしているの?』と尋ねられたら、ふつうは簡単に答えることができる。実際にお姉さんを見ればすむ話で、遠くにいるのなら、電話で何をしているか尋ねればよい。そうはいっても注意が必要で、お姉さんを見るということは、お姉さんから自分の目に届く光を受けるわけだが、光がみなさんのところに届くには、たとえば数ナノ秒〈ナノ秒は1秒の10億分の1〉の時間がかかる。したがってみなさんが目にしているのは、お姉さんが今行っていることではなく、数ナノ秒前に行っていたことなのだ」。

 プロキシマ・ケンタウリbに戻ろう。光が届くのに四年かかるので、「望遠鏡でお姉さんを見ようが、無線で連絡がこようが、わかるのは四年前にしていたことであって、『今』お姉さんがしていることではない」「それなら、こちらが望遠鏡でお姉さんの姿を確認した四年後にお姉さんがすることが、『今姉さんがしていること』になるのでは? いや、そうは問屋が卸さない。望遠鏡で姿が確認されてから、お姉さんにとって四年経ったときには、本人はすでに地球に戻っていて、地球時間でいうと10年後の未来になっているかもしれない」。

 結局、「この問いを発することをあきらめるしかない。それが事の真相だ。プロキシマ・ケンタウリbには、今ここでの『現在』に対応する特別な瞬間は存在しない」

 「『現在』という概念と関係があるのは自分の近くのものであって、遠くにあるものではない。わたしたちの『現在』は、宇宙全体には広がらない。『現在』は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で測定する場合の『現在』の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて10分の1秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、『現在』について語ることができる。だがそれより遠くには、『現在』はない。遠くにあるのは、わたしたちの過去(今見ることができる事柄の前に起きた出来事)もある。そしてまた、わたしたちの未来(『今、ここ』を見ることができるこの瞬間の後に起きる出来事)もある。この二つの間には幅のある『合間』があって、それは過去でも未来でもない。火星なら一五分、プロキシマ・ケンタウリbなら八年、アンドロメダ銀河なら数百万年の『合間』、それが『拡張された現在』なのだ。これはアインシュタインの発見のなかでももっとも奇妙で重要なものといえるだろう」。

 「宇宙全体にわたってきちんと定義された『今』という概念が存在するというのは幻想で、自分たちの経験を独断で押し広げた推定でしかない。ちょうど虹の足が森に触れるところのようなもので、ちらっと見えたような気がしても、探しに行くと、どこにもない」。

 第一部が現代理論物理学の到達点の紹介だとすれば、第二部「時間のない世界」は量子重力理論のごく簡単な紹介だ。このあたりになってくると直感的に理解しようとするのはかなり難しくなる。

 第三部は「時間の源へ」。第10章は「視点」と題されている。「わたしたちがこの世界で見るものの多くは、自分たちの視点が果たす役割を考えに入れてはじめて理解可能になる。視点の役割を考慮しないと理解ができない。何を経験するにしても、わたしたちはこの世界の内側、すなわち頭のなか、脳のなか、空間内のある場所、時間のなかのある瞬間に位置している。自分たちの時間経験を理解する際には、自分たちがこの世界の内側にいるという認識が欠かせない。早い話が、『外側から見た』世界の中にある時間構造と、自分たちが観察しているこの世界の性質、自分たちがそのなかにいてその一部であることの影響を受けているこの世界の性質とを混同してはならないのだ」。

 第一三章「時の起源」は全体のまとめになっている。「始まりは、わたしたちに馴染みのある時間像、宇宙の至る所で等しく一様に時が流れ、すべての事柄が『時』の流れのなかで起きるというイメージだった。宇宙のあらゆる場所に現在、つまり『今』があって、それが現実だと思っていた。過去は誰にとっても過ぎ去ったもの、定まったものであり、未来は開かれていて、まだ定まっていない」「お馴染みのこの枠組みは砕け散り、はるかに複雑な現実の近似でしかないことが明らかになった。宇宙全体に共通な『今』は存在しない。すべての出来事が過去、現在、未来と順序づけられているわけではなく、『部分的に』順序づけられているにすぎない。わたしたちの近くには『今』があるが、遠くの銀河には『今』は存在しない。『今』は大域的な現象ではなく、局所的なものなのだ」。

 「現在わかっているもっとも根本的なレベルでは、わたしたちが経験する時間に似たものはほぼないといえる。『時間』という特別な変数はなく、過去と未来に差はなく、時空もない。それでも、この世界を記述する式を書くことはできる。(中略)わたしたちのこの世界は物ではなく、出来事からなる世界なのだ」「ここまでが外へ向かう旅、時間のない宇宙への旅だった。そして帰りの旅では、この時間のない世界から出発して、わたしたちの時間の知覚がどのように生じるのかを理解しようとした。すると驚いたことに、時間のお馴染みの性質が出現するにあたって、わたしたち自身が一役買っていた。この世界のごく小さな部分でしかない生き物の視点、つまりわたしたちの視点からは、この世界が時間のなかを流れるのが見える。この世界とわたしたちの相互作用は部分的で、そのためこの世界がぼやけて見える。このぼやけに、さらに量子の不確かさが加わる」。

 こういった内容をわかりやすく紹介することは評者の手にあまる。だが、全体を通じて著者の語り口はわかりやすくなめらかだ。著者独特の語り口や理論物理学の最先端に触れたい方は一読すれば、その雰囲気をよく味わうことができる。内容から見ればかなり難解な本書が版を重ねている(手元にあるのは第7刷)のに驚いた。気がつくと表紙の帯には「詩情あふれる筆致で、時間の本質を明らかにする、独創的かつエレガントな科学エッセイ」とある。原語はイタリア語だが、英語版も参照して翻訳されたらしい。韻文も多く、内容もかなり専門的なので翻訳は大変な苦労だったと思うが、訳文は非常に読みやすい。素粒子論専攻で理学博士の吉田伸夫氏が解説と校正を担当している。理論物理学に詳しくない評者には、「『時間とは何か』という問題意識の下に、人々の通念を鮮やかに覆し、現代物理学の知見を駆使して時間の本質をえぐり出す、魅惑的な書物だ」という解説が参考になった。解説には、「今日、物理学者の間では、量子論と重力理論を統合した『量子重力理論』の構築が大きな目標とされているが、『ループ量子重力理論』は、日本でも有名な『超ひも理論』と並んで、その有力候補である」と書かれている。

 評者には理論物理学というと、ワシントンの科学特派員だった四半世紀前、シカゴ大教授の南部陽一郎博士にお目にかかった印象が強い。南部博士は20代で大阪市大教授に就任された「天才」だ。東大物理学科出身だったが、「素粒子論は湯川秀樹博士のような天才のやるもので、おまえがやるものじゃないと言われたんですよ」と笑顔で話されていたのが印象的だった。失礼を承知で、「ノーベル賞の候補に挙げられていますね」と聞くと、「ぼくは理論屋で、理論は実験に比べると50年くらい進んでいますから、生きてるうちにはとても無理でしょうね」と謙遜されていた。1952年の渡米直後、プリンストン高等研究所で、「(所長だった)オッペンハイマーにはあまり好かれなかった」「アインシュタインは本当に雲の上の人でした」と物理学の巨人たちの印象もうかがうことができ、科学記者冥利に尽きる取材だった。

 先生は2008年、日本の小林誠、益川俊英博士とともに「素粒子・原子核物理学における自発的対照性の破れの機構の発見」でノーベル賞を受賞された。このとき、益川博士が記者会見で、「南部先生と一緒の受賞で本当にうれしい」と感激の涙を流されたのを見て、本当に感動した。高齢の先生は授賞式には出席されず、日本に戻った後の2015年、94歳で他界された。先生は超ひも理論の提唱者としても著名だが、ループ量子重力理論をどう見ておられたのだろうか。温顔の先生に一度聞いてみたかった。