ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

外国人参政権反対論のまとめ

2010年04月18日 | 外国人の人権
外国人参政権「一万人大会」 UIゼンセン同盟「組織として反対」(産経新聞) - goo ニュース

■亀井氏「付与、国滅ぼす」
 永住外国人への地方参政権(選挙権)付与に反対する「一万人大会」が17日、東京・日本武道館で開かれた。民主党の支持母体である連合傘下最大の産業別労働組合「UIゼンセン同盟」(落合清四会長、組合員約108万人)の石田一夫副会長も出席、反対を表明した。参政権付与には鳩山由紀夫首相、岡田克也外相、小沢一郎民主党幹事長ら政府・与党に推進派が多く、参院選後に強引に推し進めかねないとの危機感が広がっている。
 石田氏は「参政権は国民のみが持つ政治に参加する権利だ。組織として地方参政権付与に反対だ」と反対を初めて公式表明した。UIゼンセン同盟は民主党に川端達夫文部科学相ら多くの組織内議員を抱えており、推進派の動きを牽制(けんせい)する意味合いは大きい。
 国会議員は24人が参加した。自民党の大島理森(ただもり)幹事長は「日本の主権は守らねばならない。断固反対だ」、たちあがれ日本の平沼赳夫代表は「命をかけて闘う」、みんなの党の渡辺喜美代表は「民主党は『生活第一』と言いながら本当は『選挙第一』ではないか」と語った。
 民主党からは松原仁、木村剛司、渡辺義彦、長尾敬の4衆院議員と金子洋一参院議員が参加した。松原氏は「民主党に同じ思いの若手議員もいる。党内できちんと発言をすることが必要だ」と述べ、反対の動きを広げていく考えを示した。
 また、国民新党代表の亀井静香郵政改革・金融相は「夫婦別姓、外国人参政権-と一昔前は予想だにしなかったことが現実味を帯びている。参政権付与が日本を滅ぼすことは当然だ。国民新党が拒否権を発動してるから今国会で成立しない」と述べた。
 大会は、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏らが呼びかけ人となり、市区町村長・議員715人を含む1万257人が参加した。
 参政権付与反対の意見書採択を全国の都道府県、市区町村へと拡大し、自治体首長と地方議員の署名を集めるなどの活動方針を採択した。



 今回は、これまで私が書いてきた外国人参政権反対論をまとめたものを掲載する。少し長くなるが、良ければお付き合い願いたい。

1.納税の義務と参政権との関係
2.参政権反対は「差別」ではない
3.外国人参政権付与こそ排外主義の産物
4.賛成派の論理とその違和感


1.納税の義務と参政権との関係

 外国人参政権賛成派はしばしば、「外国人であっても納税の義務を果たしているのだから、その税金が使われる議会の議員選出手続きに外国人を参加させるべきである」と言う。しかしながら、こうした主張には次のような疑問が出てくるのである。

 すなわち、未成年者であっても納税の義務を果たしている勤労青年は、上記の外国人と同じ条件にもかかわらず、参政権を行使できないということはどう説明するのだろうか。納税の義務を果たしているか否かということを基準に据えるならば、納税の義務を果たしている未成年者には当然に参政権が付与されてしかるべきであろう。

 また見方を変えれば、納税の義務を果たしていなければ参政権をはく奪することもできるという結論を受忍しなければならない。もし、「外国人の意見も政治に反映させることが大切なのだ」と言うのであれば、必ずしも納税の義務を果たしているから参政権を付与せよと主張する必要はないはずだ。納税の義務云々と言うのは、結局のところ外国人にも参政権を付与するための苦し紛れの方便でしかない。

 そもそも、納税の義務の履行を参政権獲得の基準に据えることは、戦前の日本が納税額によって参政権を付与していたのと同じ発想であり、これは現行憲法の保障する参政権についての考え方とことごとく対立するものである。


2.参政権反対は「差別」ではない

 次に、しばしば外国人参政権賛成派は、外国人に参政権を付与しないことを「差別である」と主張するが、この主張にも違和感を禁じえない。

 まず、上記のような主張をする者は、「人種(race)」に基づく差別と、「国籍(nationality)」に基づく差別とを、故意かどうかは分からぬが、混同している。

 国籍による差別は、国際慣習法のみならず、最近の人権条約においても一定の合理的範囲内であれば許容されるというのが国際的な基準として確立している。

 たとえば、人種差別撤廃条約1条2項において、「国民(national)」とそうでない者(non-national)との間に、区別や除外、制限等を設けることを禁止していない。 また、欧州人権条約16条においても、外国人の政治活動等に対する制限は、同条約14条にいう「無差別原則」とは抵触しないと明言している。


 このように、国際社会においては、人種差別は絶対的に禁止されるが、国籍に基づく差別は(全く放任的ではないにせよ)容認しているのである。

 そもそも、人種差別主義者ならば、帰化制度そのものを否定しなければならないが、わが国における外国人参政権反対論者のほとんどは、帰化することによって「それまで外国人だった者」が参政権を行使することを否定していない。

 くわえて、わが国においては国籍法5条で定められている条件を満たせば、人種に関係なく帰化を認めている。わが国の帰化制度は、帰化をしたくない外国人にこれを強制するものではなく、帰化をしたい者の自由な意思に国籍取得を委ねている。

 換言すれば、帰化をする自由(帰化をしない自由)を認めている以上、日本国籍がないことによる不利益を被っても、これはその者の自己責任であって、何ら差別とは関係のない事柄である。

 よって、外国人に参政権を認めないからといって、これを差別であると主張するのは全く的外れであるのだ。


3.外国人参政権付与こそ排外主義の産物

 「外国人」参政権の付与というのは一見すると外国人差別解消手段のように見えるが、私は実はこの制度は日本に滞在する外国人と日本人との距離を決定的に離す、いわば排外主義の産物であると考える。

 ここでは、民団が主として外国人参政権の導入に熱心なことから、民団、すなわち在日韓国人を中心に念頭に置いて議論を展開していくことをまず断わっておく。なお、民団の外国人参政権付与運動の経緯については、早瀬善彦「在日本大韓民国民団と外国人参政権付与政策」(「澪標」平成21年秋号18頁以下)が詳しい。


 鄭大均氏は著書『在日の耐えられない軽さ』(中公新書)の中で、「在日はこれからも日本で生きていかなければならないことを知っているし、そのためには日本国籍が必要であることも知っている。」と述べる(186頁)。このことは毎年何万人もの在日コリアンが日本国籍を取得していることからも明らかだろう。在日コリアンの帰化数申請者数は以下のとおり。


         韓国・朝鮮籍の者 
平成14年     9188人       
  15年    1万1778人      
  16年    1万1031人      
  17年     9689人       
  18年     8531人       


 在日コリアンらが日本国籍を喪失したのは、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効に伴う民事局長通達の結果であるが、在日コリアンが日本国籍を取得した数、すなわち帰化数は、同年からの累計で30万人にのぼるという。


 しばしば、外国人参政権付与に熱心な者は、「外国人参政権の付与が民主主義の不足を補う」と主張するが、この見解は間違っている。

 日本は、民主主義の基盤である参政権の行使をしたいならば、日本国籍を取得しなさい、と言っているにすぎない。日本を一つの家族に喩えるならば、家族会議に参加したいなら、家族の資格(国籍)を得なさい、ということだ。家族会議での投票権を、他の家族(国家)に属する者に付与するということは、その家族の意思決定への干渉にあたる。


 ここで日本に居住する在日コリアンについて見てみると、先ほどの鄭氏によれば、彼らは国籍こそ韓国籍であるものの、すでに日本に居住して非常に長い年月が経過しているため、まともに母国語である韓国語を話せない。そして、自分の故郷にも行ったことがないという人が多いという。

 つまり、国籍以外はほぼ日本人と同じであると言える。また、長い間日本で暮らしてきた在日コリアンに、「帰化は同化である」などとステレオタイプな左翼の主張をしたところで、それが現実感をもって彼らの心に響くかは疑わしい。

 このことを、私は性同一性障害に倣い、「国籍(アイデンティティ)同一性障害」とでも呼びたい。すなわち、現在のほとんどの在日コリアンは日本で生まれ日本で育った。よって内面的には日本人と変わらない。しかし、国籍だけがそれに合わず乖離してしまっているということだ。


 そのような者に対し、「外国人」参政権を付与するというのは、つまり、「あなたたちは一生外国人のままで生き続けてください」と宣言するに等しく、実はかえって排外主義的な政策なのである。

 もし、在日コリアンたちがその境遇から貧しく、社会的地位も高くないというのなら、彼らが日本の社会にうまく溶け込めるように、日本国籍の取得を奨めるのが、本来の差別反対主義者のやることではないだろうか。


4.賛成派の論理とその違和感

 彼ら参政権付与賛成派にみられる共通した傾向について、おおまかではあるが論じていきたい。


①「歴史的経緯」に絡めての参政権請求

 これは簡単に言えばつまりこういうことである。戦前、日本に侵略された外国人、とりわけ在日コリアンは強制的に日本に連れて来られ、第二次大戦の終結とともに日本国籍をはく奪されたという「事実」がある。こうした「歴史的経緯」を鑑みれば、外国人に地方参政権を付与しなければならない。

 要するに、戦前の日本の「植民地支配」の歴史と絡めて外国人参政権を論じているのである(ここ最近のものでは、田中宏『在日外国人―法の壁、心の溝』岩波書店、徐龍達「外国人地方参政権―アジア市民社会への道」世界4月号45頁等)。

 社民党の中島隆利衆院議員は、いわゆる村山談話を引き合いにしつつ、「当然、選挙権などの正当な権利も、こういった方々(日本が侵略したアジア諸国の人たち)に付与していこうということだと思います。」と述べている(別冊宝島「外国人参政権で日本がなくなる日」93頁)。


②「弱者」としての参政権請求

 ①を前提にして考えると、外国人参政権を欲しがっている人たちというのは、日本による「被害者」という構図が浮かび上がってくる。これは換言すれば、戦前に日本により多くの被害を被ったのだから、「その代償として」参政権をよこせ、ということだ。②の前提が①である以上、両者は不可分の関係である。

 参政権付与賛成派は、まず歴史認識を論じ、次にこういう歴史的「事実」があるのだから、日本に居住する在日は「被害者」なのであり、そうした被害者に参政権を与えないのは日本(人)が差別意識を持っているからである、という論法をとる主張は実に多い。さきに挙げた、徐・田中両氏の主張はまさにこれである。

 こうした主張をする「日本人」には、次のような考え方を持つ非常に「自虐的」な人が多いのではないだろうか。

 すなわち、池明観氏は「世界」2003年9月号「国際共同プロジェクトとしての『韓国からの通信』」において、安江良介(岩波書店社長、故人)という北朝鮮寄りの論者について「(北朝鮮の批判を)日本人としてしゃべる資格がないんだ、占領してああいう悲劇を与えておいて、いまさら日本人が何を言うか、ということでした。とにかく彼ら(在日コリアン)が欲することは全部してやればいいんだ、これが日本人の義務だと思っていた。それは徹底していました。」

 「欲することは全部してやればいい」のであって、ましてそれが「日本人としての義務」であるならば、彼らに参政権を付与することができる、という議論では足りず、「付与しなければならない」という議論になる。彼ら賛成派の主張を見聞きしていると、このように聞こえるのもまた確かである。



 このようにして彼らの主張を見てみると、そのおかしさや違和感を誰もが覚えると思う。

 だいたい、過去の日本が近隣諸国に対してどのような悪逆非道なことを働いてきたとしても、それと参政権付与の議論は全く別の問題である。それならば、もし将来韓国に日本が侵略されて悪逆非道なことをされれば、それを根拠に韓国の政治に参加できるのか。

 それに、こうした「在日コリアンの歴史的経緯」に絡めて外国人参政権の議論をすることは、参政権の重みもその本質も見失うことになる。そもそも、政府・与党が検討している外国人参政権法案では、在日コリアンに限らず、ブラジル人でもアメリカ人でも一定の要件を満たせば参政権が付与されるというもので、在日コリアンに限ったものではない。にもかかわらず在日コリアンの不遇性ばかり主張して参政権を付与せよと主張するのは、極めて不誠実な態度である。

 くわえて、彼らが参政権付与の根拠として主張してきた「歴史的経緯」は日本が「侵略した」諸国の者についてのみ妥当するものであるので、歴史的経緯をもって参政権を与えよという議論は一面的過ぎる(ブラジル人やアメリカ人にも参政権を付与する場合、この主張は使えないはずだ)。


 また、彼らは外国人に参政権を付与することが、日本の外国人差別撤廃に寄与すると主張するが、これもまた突飛な印象を受ける。

 たとえば、外国人に参政権を付与している(といわれる)フランスであるが、ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス─フランスは「住めば都」か』(集英社新書)には、そのフランスにおいてもいまだに外国人に対する根強い差別が存在していることを克明に記述している。


 そして、外国人に参政権が欲しければ帰化をせよというのは残酷であるということを主張する者がいるが(たとえば、園部逸夫元判事)、在日コリアンはすでに4世、5世という時代である。

 鄭大均教授は、こうした在日コリアンは日本人として扱われないことに違和感を持つ人が大多数であり、すでに国籍は形骸化していると述べている(別冊宝島前掲書48頁)。そうであるならば、鄭教授の言うように、日本国籍を取得して帰化したほうが、問題はすっきりと解決するのではないか(鄭大均『在日の耐えられない軽さ』中公新書)。



 要するに、日本における外国人が歴史的経緯からみてどのように扱われてきたのかという「事実」と、外国人参政権付与の議論とは全く関係がないばかりか、こうした視点を持ち込むとかえって議論がおかしな方向に行ってしまい、有害であすらある。歴史的経緯と外国人参政権は対価関係には立たないのである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。