ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

外国人参政権賛成派の論理への違和感

2010年04月11日 | 外国人の人権
 これまでは主に法律論的に外国人参政権について論じてきた。そこで行は、参政権付与賛成派の主張を論駁することに主眼を置き、かつ参政権の法的性質について考えてきた。参政権付与賛成派の主張を論破する以上は、その前提として彼らの主張について知らなければならないので、彼らの主張には一通り目を通してきたつもりである。

 そうした作業をしているうちに、彼らに共通して見いだせるある法則性とでも言うべき、共通項を見つけることができた。そこで今回は法的な議論を離れ、彼ら参政権付与賛成派にみられる共通した傾向について、おおまかではあるが論じていきたい。


①「歴史的経緯」に絡めての参政権請求

 これは簡単に言えばつまりこういうことである。戦前、日本に侵略された外国人、とりわけ在日コリアンは強制的に日本に連れて来られ、第二次大戦の終結とともに日本国籍をはく奪されたという「事実」がある。こうした「歴史的経緯」を鑑みれば、外国人に地方参政権を付与しなければならない。

 要するに、戦前の日本の「植民地支配」の歴史と絡めて外国人参政権を論じているのである(ここ最近のものでは、田中宏『在日外国人―法の壁、心の溝』岩波書店、徐龍達「外国人地方参政権―アジア市民社会への道」世界4月号45頁等)。

 社民党の中島隆利衆院議員は、いわゆる村山談話を引き合いにしつつ、「当然、選挙権などの正当な権利も、こういった方々(日本が侵略したアジア諸国の人たち)に付与していこうということだと思います。」と述べている(別冊宝島「外国人参政権で日本がなくなる日」93頁)。


②「弱者」としての参政権請求

 ①を前提にして考えると、外国人参政権を欲しがっている人たちというのは、日本による「被害者」という構図が浮かび上がってくる。これは換言すれば、戦前に日本により多くの被害を被ったのだから、「その代償として」参政権をよこせ、ということだ。②の前提が①である以上、両者は不可分の関係である。

 参政権付与賛成派は、まず歴史認識を論じ、次にこういう歴史的「事実」があるのだから、日本に居住する在日は「被害者」なのであり、そうした被害者に参政権を与えないのは日本(人)が差別意識を持っているからである、という論法をとる主張は実に多い。さきに挙げた、徐・田中両氏の主張はまさにこれである。

 こうした主張をする「日本人」には、次のような考え方を持つ非常に「自虐的」な人が多いのではないだろうか。

 すなわち、池明観氏は「世界」2003年9月号「国際共同プロジェクトとしての『韓国からの通信』」において、安江良介(岩波書店社長、故人)という北朝鮮寄りの論者について「(北朝鮮の批判を)日本人としてしゃべる資格がないんだ、占領してああいう悲劇を与えておいて、いまさら日本人が何を言うか、ということでした。とにかく彼ら(在日コリアン)が欲することは全部してやればいいんだ、これが日本人の義務だと思っていた。それは徹底していました。」

 「欲することは全部してやればいい」のであって、ましてそれが「日本人としての義務」であるならば、彼らに参政権を付与することができる、という議論では足りず、「付与しなければならない」という議論になる。彼ら賛成派の主張を見聞きしていると、このように聞こえるのもまた確かである。



 このようにして彼らの主張を見てみると、そのおかしさや違和感を誰もが覚えると思う。

 だいたい、過去の日本が近隣諸国に対してどのような悪逆非道なことを働いてきたとしても、それと参政権付与の議論は全く別の問題である。それならば、もし将来韓国に日本が侵略されて悪逆非道なことをされれば、それを根拠に韓国の政治に参加できるのか。

 それに、こうした「在日コリアンの歴史的経緯」に絡めて外国人参政権の議論をすることは、参政権の重みもその本質も見失うことになる。そもそも、政府・与党が検討している外国人参政権法案では、在日コリアンに限らず、ブラジル人でもアメリカ人でも一定の要件を満たせば参政権が付与されるというもので、在日コリアンに限ったものではない。にもかかわらず在日コリアンの不遇性ばかり主張して参政権を付与せよと主張するのは、極めて不誠実な態度である。

 それに、彼らが参政権付与の根拠として主張してきた「歴史的経緯」は日本が「侵略した」諸国の者についてのみ妥当するものであるので、歴史的経緯をもって参政権を与えよという議論は一面的過ぎる(ブラジル人やアメリカ人にも参政権を付与する場合、この主張は使えないはずだ)。


 また、彼らは外国人に参政権を付与することが、日本の外国人差別撤廃に寄与すると主張するが、これもまた突飛な印象を受ける。

 たとえば、外国人に参政権を付与している(といわれる)フランスであるが、ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス─フランスは「住めば都」か』(集英社新書)には、そのフランスにおいてもいまだに外国人に対する根強い差別が存在していることを克明に記述している。


 そして、外国人に参政権が欲しければ帰化をせよというのは残酷であるということを主張する者がいるが(たとえば、園部逸夫元判事)、在日コリアンはすでに4世、5世という時代である。

 鄭大均教授は、こうした在日コリアンは日本人として扱われないことに違和感を持つ人が大多数であり、すでに国籍は形骸化していると述べている(別冊宝島前掲書48頁)。そうであるならば、鄭教授の言うように、日本国籍を取得して帰化したほうが、問題はすっきりと解決するのではないか(鄭大均『在日の耐えられない軽さ』中公新書)。



 要するに、日本における外国人が歴史的経緯からみてどのように扱われてきたのかという「事実」と、外国人参政権付与の議論とは全く関係がないばかりか、こうした視点を持ち込むとかえって議論がおかしな方向に行ってしまい、有害であすらある。歴史的経緯と外国人参政権は対価関係には立たないのである。

 また、弱者を装い権利請求をしてくるのは左翼の常套手段であり(この点について、内田樹「ほんとうは恐ろしい『草食系男子』」新潮45・2009年11月号92頁)、このようなチープな物語は感情論から離れれば実に空虚なものなのだ。

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