ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

そういうことを言っているわけではないのでは?

2008年02月18日 | 偏向マスコミ
 以下の社説は今日の琉球新報のものである。この社説について、いくつか腑に落ちない箇所があったのでそれを指摘してみる。


米兵中学生暴行 それでも少女に非はない

 あまりに浅ましい行為だ。この種の事件が起こるたびに、私たちは社説でも繰り返し指摘してきた。しかし何度でも言わねばならない。性的犯罪の被害者に落ち度はないということを。責めを負うべきは加害者であって、決して被害者ではない。
 米兵による女子中学生暴行事件から1週間が過ぎた。恐れていたことが現実になっている。すきを見せる少女が悪い。なぜ知らない人の誘いに簡単に乗るのか。ネット上ではんらんする声だ。本社にも、そんな読者の電話が届く。加害責任を問うどころか、まず被害者を非難する。これでは本末転倒だ。百歩、いや千歩譲って被害者の側に多少の軽率さがあったにしても、それで犯罪行為が正当化されるはずはないだろう。
 よく考えてほしい。例えば、ミニスカートの女性が夜の道を歩いていて被害に遭うと、女性の側に責任があることになるのか。どんな時間にどんな服装で歩こうと、そのことをもって被害に遭っても仕方がない、ということにはならない。ましてや、加害責任が減免されることなど有り得ない。分かりきったことだと思う。
 人を見たら犯罪者だと思うことが正常な社会だとは、とても思えない。むしろ、どうしたらこのような社会を変えることができるのか。健全な大人ならこう考えるのが普通ではないのか。人の好意を素直に受け取ることのできる社会のほうが異常なのだろうか。
 加害責任を追及する前に、被害者の落ち度を責め立てる人たちに問いたい。私たちの住む社会は法律や良識が通用しないジャングルで、そこでは弱い者やすきを見せる人間は犯罪の対象になっても構わないとでも言うのか、と。
 そうではあるまい。事件が起きた場合、まず、加害者の責任を追及し、その上で再発を防ぐ手だてを考えるのが、良識ある社会の在り方だろう。被害者のあら探しをするなど、もってのほかだ。
 「行政を預かるものとして、本来一番に守るべき幼い少女の尊厳を守れなかったことを心の底からおわびしたい」。1995年、少女乱暴事件に抗議する県民大会での大田昌秀県知事(当時)のあいさつだ。この「行政」という言葉は単に当局という意味ではない。私たち一人一人の大人も含まれると解釈すべきだ。危険な状況を放置してきた大人の一人として。
 もとより何度も繰り返される事件に対し子供たちへの教育はどうなっていたのか。十分だったのだろうか。再発防止策の一つとして、それはそれで論議すればいい。
 被害に遭った本人や家族の心の傷に、さらに塩をすり込むような言動は慎むべきだ。そうすることで加害者と同列の立場になってしまう。そんな認識を共有したい。



 確かに、一見すると正論のように見えなくもない。しかし、やはりおかしい。

>百歩、いや千歩譲って被害者の側に多少の軽率さがあったにしても、それで犯罪行為が正当化されるはずはないだろう。

 少女を非難をしている者の中には心無いものもいるだろうし、加害者を正当化さえするような者もいるだろう。だが、少女の挙動を批判している人の多くは、少女が悪いから加害者は悪くない、とは思っていないだろう。少女を批判している人は、加害者を正当化しているのではなく、少女のほうにも何か落ち度はあったんじゃないのか?、ということを指摘しているだけであって、加害者の犯罪行為を正当化しようとしているものではないのではないか?
 よって、「責めを負うべきは加害者であって、決して被害者ではない」などということは最初から承知していると思う。

>人を見たら犯罪者だと思うことが正常な社会だとは、とても思えない。

 なぜ、ここで一気に論理の飛躍をしているのか。人を見たら犯罪者だと思え。こんな当たり前のことが分からない少女だから暴行されたんだ、と言っている人は本当にいるのか。誰も少女に対してここまで言ってはいないのではないだろうか。むしろ、沖縄のマスコミこそ、アメリカ兵を見たら犯罪者だと思え、と、刷り込んでいるようにすら思えるのだが。

>加害責任を追及する前に、被害者の落ち度を責め立てる人たちに問いたい。私たちの住む社会は法律や良識が通用しないジャングルで、そこでは弱い者やすきを見せる人間は犯罪の対象になっても構わないとでも言うのか

 またもや論理は一気におかしな方向へ向かう。少女を非難する人はみんな弱者は強者の食い物になれと主張する人たちで、法律や良識のない人たちだということなのだろうか。これこそ、一体どこの誰がこんなことを言っているのか。
 むしろ、今の刑事司法の流れは被害者の保護にシフトしつつあるし、大方のネット世論の方向も、加害者には厳しい罰を与えよというものである。誰も弱者を見殺しにする社会がまともだとは思ってはいない。にもかかわらず、少しでも少女の挙動に疑問を持とうとするならば、そうした人たちを「被害者のあら探しをする」と決め付けてかかるのは、甚だ心外というものである。
 琉球新報は、少女の行動に疑問を差し挟むことすらも許さないというのか。

>ミニスカートの女性が夜の道を歩いていて被害に遭うと、女性の側に責任があることになるのか。どんな時間にどんな服装で歩こうと、そのことをもって被害に遭っても仕方がない、ということにはならない。ましてや、加害責任が減免されることなど有り得ない。分かりきったことだと思う。

 確かに、それをもって「仕方ないね」とはならないし、そうしてはならない。だが、逆に、ミニスカートで夜道を歩かなければ犯罪に遭う可能性は変わってきたのではないかとも言えなくはないだろう。
 ところで、最近の犯罪学にライフスタイル理論というものがある。これは、犯罪者と接触する可能性の高いライフスタイルをとっている者は、犯罪の被害に遭いやすいのではないか、という理論である。すなわち、被害者のライフスタイルが潜在的な犯罪者との接触の量と質を決定付けるのにあたり重要な役割を果たしており、被害に遭う可能性を左右するのである。ライフスタイルの中でも特に、夜間に外出し外で過ごすことの多い者は犯罪に遭いやすいという。
 翻って少女の行動を見ると、少女は14歳であるにもかかわらず、夜10時過ぎという夜間に繁華街に出歩いていたという。そうである以上、ライフスタイル理論をして考えると、そこで全く犯罪に遭うリスクはなかったとも言い切れないだろう。

 少女の行動に疑問を持つ、ないしは批判的な人は、少女の行動「にも」責任があるのでは?、と言っているのであって、「少女が悪い!アメリカ兵は悪くない!」とは言っていない。
 少女の行動にも責任がある、に続く言葉は、「アメリカ兵は悪くない」という言葉ではなく、「けれどもアメリカ兵の行動はそれ以上に許しがたい」という言葉なのではないか。

 沖縄の人たちの基地と共存していくにあたっての、その心労は本当に並々ならぬものであると思う。基地の存在によるリスクはないに越したことはないし、今回のような一件は、もう金輪際起こってはならない。今までもアメリカ兵による事件は多発しているし、だからこそ今回の報道も加熱するのは分からなくもない。
 しかし、こういうときだからこそ、ヒステリックにはならずに、冷静になり、米兵非難一辺倒ではなく、多角的な視点から論じることが必要なのではないか。今回の事件は、自分の家にいた少女が、いきなり侵入してきたアメリカ兵に暴行されたというものではないだろ?

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2 コメント

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Unknown (コマー)
2008-02-19 20:21:17
少なくとも、この被害者に面と向かって、「何故、夜更けに出歩いたりしたんだ!」と責め立てることは出来ないだろうな。
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コメント有難うございます (管理人)
2008-02-19 21:03:04
コマーさん、コメントありがとうございます。
確かにそうですね。というか、そのセリフは、この少女のご両親から出ることが望ましいかと思いますね。
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