ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

慰霊は風化させよ

2010年06月24日 | 本日の侃々諤々
「基地負担、国民代表しおわび」沖縄慰霊の日式典で首相(朝日新聞) - goo ニュース

 地上戦で多くの住民が巻き込まれた沖縄戦から65年。沖縄は23日、犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では、就任後初めて沖縄を訪問した菅直人首相も参列し、「沖縄全戦没者追悼式」(県主催)が開かれた。約5500人が参列した。
 仲井真弘多知事は式典で読み上げた平和宣言で「基地負担の軽減、普天間飛行場の危険性の除去を早急に実現することは、沖縄だけの問題ではなく、国民全体が等しく取り組むべき課題だ」と呼びかけた。また、現在の日米安保条約と日米地位協定が23日で発効から50年を迎えることに触れ、「大きな節目の年を契機として、沖縄の過重な基地負担が県民の目に見える形で軽減されることを願ってやみません」とも訴えた。



毎年毎年、この時期になると、カルトがかったサヨクとウヨクの祭りが始まると思うと、非常に憂鬱な気持ちにさせられる。

鎮魂は、静かにひっそりと行われるべきであって、マスコミが毎度毎度喧しく報道するようなものではないと思う。


私がこの手の「から騒ぎ」を嘆く理由として、こういうのは、人から人へと語られなければならないと思うが、そうやって語られるうちに、伝言ゲームで最初の内容と最後の内容がまるで違っていることが多いように、どんどん「事実」が「伝説化」していって、それがさも「史実」かのように語られていくことを危惧するからである。

そして、一度こうした「史実」が出来上がると、これに異を唱えるものは、すべて人でなしのような扱いをされて、尋常ではない批判、というか罵詈雑言に晒されることになる。


人々の「風化させてはいけない」という思いが、どんどん事実に色んなことを脚色して、おかしなことになってしまっていると思う。


以前こうした慰霊祭というものを見たとき、語り部と呼ばれる人が、本当に当時の悲惨さを語ってるのではなく、ある意味、「被害者としての自分」に酔っているような非常に自己陶酔的な印象を持ったことを覚えている。


はっきり言おう。

沖縄の慰霊祭で、その戦争を知らないのに、ファナティックに熱弁をふるう若者等を見かけるが、私からすれば非常に気味の悪い光景に思える。あんな演技がかったこと、洗脳でもされてなければ出せない。



そもそも、私には、どうして「直近の戦争」しか、こうした大々的な慰霊の対象になっていないのか、よく分からない。

日本はこれまで戦争と呼ばれるものによって、多くの命を失ってきた。しかし、それは直近の戦争、すなわち第二次大戦だけではないだろう。

それなのにどうして、直近の戦争の被害だけ、もう戦争が終わって60余年が経つというのに、いつまでも騒がれないといけないのか。不平等ではないのか?


言っておくが、私は慰霊などやめてしまえと言ってるわけではない。

ただ、マスコミが取り上げ、これを奇貨として自身のイデオロギーを通そうとしている一部のカルトがかった集団によって、慰霊が食い物にされていないか、ということを疑問視してるだけである。



未来志向の関係を、と言いながら、こんなことを毎年繰り返していては、いつもリセットばかりされ、永久に日本は過去を克服できない。



慰霊というのであれば、こんな大々的に騒ぎ立てることもなく、一人ひとりが心の中で戦死者の冥福を祈ればいいのではないか。

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