今回は、武石胤盛さんが「香取郡神生」に住んでいたという伝承を基にして、住んでいた時期はいつ頃なのかを考えてみたいと思います。
胤盛さんについての伝承を再度、確認してみます。
千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)に記されています。
『香取郡誌』『世俗東荘誌』などの伝承は、以下のとおりです。
・最初は香取郡神生館(山田町神生)に住んでいた
・観音菩薩を信仰した
※山田町は、現在は香取市です。現住所は香取市神生です。
胤盛さんは「千葉郡(千葉庄)武石郷」を父・常胤公から譲られて「武石」姓を名乗ります。
そして、治承四年(1180年)の源頼朝の挙兵時には、父・常胤公の配下として行動しています。
石橋山の合戦で安房に敗走した頼朝から援軍の要請を受け、常胤公は下総国府で頼朝と参会します。
【追記】2019年4月28日
胤盛さんが武石郷に城(館)を築いた時期
→承安元年(1171年)11月15日とのことです。
<参考文献>
・啓文社書房「千葉常胤とその子どもたち」
坂本紀男さん「三男 武石胤盛」
・武石神社の案内板「おたけし様の御由緒」
◎千野原靖方さん『豪族武士団形成史論』(崙書房)に以下のことが記されています。
(※自分なりに、千野原靖方さんの説明をまとめてみました)
・源頼朝は、下総国府(市川市)で千葉常胤公と参会した。
・『吾妻鏡』によると、常胤公は六人の子息と嫡男の胤正氏の子息・成胤氏と一緒に頼朝に参会した。軍勢は三百余騎
この時、常胤公の六人の子息は、それぞれが自立した規模の大きい武士団を形成していたであろうと、千野原靖方さんはお考えです。
三百騎とは「中武士団の長」の数を表していたのではないか?とも指摘しています。
『吾妻鏡』では、常胤公の率いた軍勢に対して、上総介広常公が率いた軍勢は二万騎とされています。
軍勢に圧倒的な差があったように思われています。
しかし、千野原靖方さんの見方は異なります。
上総介広常公の軍勢は「中武士団の長」の数ではなく、「小武士団の長」の数を言ったものではないかと。
つまり、常胤公が率いた三百騎の「中武士団の長」の下には、多くの「小武士団の長」が存在して、実際には常胤公と広常公の軍勢の数に差はなかったのではないかと指摘しています。
「胤盛さんが神生に住んでいた時期はいつか?」について、様々な資料(史料)から私なりに考えてみます。
【仮説】
可能性がある最長期間としては「生年の久安二年(1146年)~治承四年(1180年) 承安元年(1171年)」が考えられると思います。
治承四年に源頼朝と参会していて、中武士団の長として軍勢を率いていたとすると、少なくとも治承四年の数年前からは武石郷を領して、支配基盤を固めていたと思われます。
→承安元年(1171年)に武石郷に居城を築いたとのことです。
【追記】2019年4月28日
胤盛さんが武石郷に城(館)を築いた時期
⇒承安元年(1171年)11月15日
<参考文献>
・啓文社書房「千葉常胤とその子どもたち」
坂本紀男さん「三男 武石胤盛」
・武石神社の案内板「おたけし様の御由緒」
<飼い主の感想>
千野原靖方さんの著書『豪族武士団形成史論』(崙書房)を久しぶりに読みました。
(千葉氏について勉強し始めた数年前に一度目を通して以来です)
「豪族」「私営田領主」「荘園領主」「守護」「地頭」「惣領」など、高校時代に日本史で勉強してから遠ざかっている用語が沢山出てきて、懐かしさと共に、勉強不足も痛感しました
今後もマイペースで勉強を続けたいと思います
熱心に探索をする愛犬くん
【追記】2019年4月28日
武石胤盛さんが武石郷に城を築いた時期等について、加筆・修正しました。