膵臓がん闘病記 ・・・いつか電池が切れるまで・・・

2008年夏、膵臓がんの手術をしました。その時のこと、その後の生活などを書いています。  
 

手術

2009-12-27 16:35:13 | 入院生活
2008年、7月23日・・・手術・・膵頭十二指腸切除術・・・



    手術は、朝9時から行われた。 終了予定は、午後5時。



手術に怖さはなかった。 だって、麻酔が効いていて私に意識はない。 なにかあったとしても、麻酔中・・・チャンチャンって終わるだろう。 自分の預かり知らないところで、意識のないまま・・・う~ん、ちょっと理不尽を感じた。 その一瞬って大事なんじゃないか? そうでもないのか?



どんな傷跡になるのかが、気になっていた。 女だから・・・ 「もう、ビキニは着れん!」 って、この年で、ビキニ着る時なんか・・・ないわな、(あった方が怖いゾ!)ハハ・・・



同じ病室に「乳がん」の方がいたけれど、そっちよりは、救われてるかな~なんても思った。 やっぱ、胸なくなるなんて、ショック。 とりあえず、お腹は、普通見せるもんじゃないし・・・



「普通の人」にとって、当たり前のものがないってのは、辛い。 怪我で指を切断してしまっている私にはよくわかる気がする。 あるべきものがない・・世界。 「癌」という病気とはまた別に・・・辛いと思う。 なにかしらで、「完全体」ではないって、すごい抵抗感があることなんだ。 でも、そんなことおかまいなしに生きてる方もいる。 ・・・言葉がない。


でも、今は、温存が主流だそうで・・・よかった。 胸はやっぱり、あったほうがいい。




「普通の人」ってなんだろう。 「健康体」ってことなのかな。 病気になったら、「普通の人」ではなくなるのかな。 病気が治れば、また、「普通に人」になるんだから。 そして、何か、不足してもいけない。 「五体満足」のことなのかな? 多分身体的にはそうなんだろう。 


じゃあ、精神面は? 部品は見えない。 「心」の「完全体」は? 何を持ってして、身体で言う「五体満足」を思えばいいのだろう。


精神面で言ったら、みんな、「五体不満足」 なんじゃないか? 私は、「解りきったことを少しも分かっていなかった」ことや、いろんな矛盾を抱えていることで、充分すぎるくらい、心の「完全体」や「健康体」にはほど遠いと思う。 でも、じゃあ、健康な「心」ってどんなん?

 


「五体不満足」の心を持っていて、「五体満足」の心へ向かうのが、「人間」なのかな? そう思えば、少しは納得できる。




意識がなくなる前に目にしたものは、電気のたくさん付いた、手術用の照明だった。 次に、名前を呼ばれて意識が戻る中見た物も、その、手術用の照明だった。

・・・・だから、私の中で、手術は一瞬の出来事・・・



         それが、私の8時間の手術だった。



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入院、そして手術へ

2009-12-21 10:53:18 | 入院生活
2008年、7月18日、再入院した。 23日の手術のために。


10日ばかり離れただけで、すでに、病院が私には珍しいものになっていた。
先日、緊急入院したのだから、慣れていてもよさそうだが・・・前の時と、病室が違うだけで、戸惑いがある。 それとも、今回は手術が待ってるから?


・・・現実感が遠く、 そこにいるはずなのに、フワフワとしていた。
 

告知されたあの日からか、7月18日の再入院からか、時々、自分が出演しているTVを見ているような妙な感覚。



以前、指を切断した大きな怪我をしたとき・・・・痛みを感じなかった。 多分、こらえきれない痛みと判断した脳が、どこかで、痛みを遮断した。 あの感覚に似ている。 今の状態を、脳が、そう判断しているのだろうか・・・



「幽体離脱」・・って、きっとこんな感じなんじゃないのかな。



もうすでに、覚悟を決めねばならないこの期に及んで、私は、なにから離脱しようとしてるのか・・・ただ、流されているような感じ。 「まな板の上のコイ」の本当の心境は、ひょっとしたら、こんななのかもしれない・・・それとも、「生け作り」の魚の心境かな? 自分の状態を把握できてない?



術式は・・・・


・・・・膵頭十二指腸切除・・・


 ・手術内容

   下部胆管、及び、膵頭部、十二指腸、同囲、リンパ節、一括切除、再建術

 ・現時点で考えられる病名、病状

   下部胆管腫瘍、(癌疑い)

 ・その他の方法との比較

   切除以外の有効な根治治療ナシ。
   抗癌剤、放射線治療は無効と考えられる。

 ・手術に伴う危険性

   出血、感染、腹腔内膿瘍、膵液漏、心、肺、腎臓機能低下による合併症等。

 ・予定時間

   8時間。

 ・術後の状態、予後

   合併症がなければ、術後1週間で飲水、その後、流動食摂取。
   腸管運動の回復具合によっては、食事摂取延期。


以上のような説明がなされ、同意書を書く。 その他、麻酔医の説明、同意、肺機能の低下予防に、「スーフル」という呼吸訓練の道具を購入し、練習。
 

この「スーフル」、一見、子供のおもちゃみたい (風船を膨らませるヤツに似てる) なのに、4800円!!! そのお金で、おいしもの食べたい! と思う私。 肺機能が低下しても、カラオケで30曲くらい歌えば、元に戻りそうな気でいる患者だった。 大きな手術を控えている割に、お茶らけていた。 呼吸訓練もまじめとは言い難かった。 でも、寝る前に、軽い筋トレをする自分もいた。 麻酔科の先生に、ペロッと口を滑らせたら、注意された。 管がお腹から出ているから、背筋はやめといたんですよ。って言ったのに・・・そういう問題じゃなかったのかなぁ (汗)



そんな感じで、手術までは、身体は元気だった。 病人らしくなかった。 だって、病気による痛みがない。 「癌」の知識もない。 そのころ、5年生存率なんて、語彙は、私の脳みそに存在していない。 「ステージ」だって、「何、それ?」って感じ。 知らないってのは恐ろしい。 事の重大さを、理解できない。



手術をすれば以前の生活ができる、という説明だけ信じて、前に進むだけ。 


でも、一方で、朝を迎えるたびに、自分はなんてちっぽけな存在だろうと思った。 私が消えても何も変わらず、朝が来る。 そんな、当たり前のことを考えた。 じゃあ、なんで、生まれてきたんだろう。 どうせ死ぬのに。 考えてみれば、そんなにいいことばかりじゃなかったし、たいそうな志があるわけじゃない。 「生きる」って死ぬまでの我慢でしかないようにも思えた。


K医師がどんなにすごい医師でも、私が失敗第1号にならないとは言えない。 合併症も多い。 


けっして死にたいわけじゃない。 だけど、無理して生きなくてもいいような気がしていた。 寿命だったら仕方無い。 おとなしく逝こうって・・・思いながら、術後の体力回復が少しでも早いように、筋トレする・・・


・・・こんな風に、ずっと、自分の中に矛盾を抱えていた。


 

   なんで、「死にたくない!」って叫ばないんだろう。
   なんで、「死にたくない!」って叫べないんだろう。




そうできない自分が人間らしくない、と思った。 人間だったらそうしろよ!




・・・・・離脱したかったのは、



「死にたくない!」と思ってはいても、「生きるんだ!」と強く思えない自分だったのかもしれない。




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雑務

2009-12-15 21:07:51 | 癌になって・・・
一時帰宅し、7月18日(2008年)の手術のための再入院を待つ日々の事。


長男(当時、高2)の高校には、出身中学ごとにPTA支部がある。 私は、そこの役員をしていた。 夏休みに「PTA球技大会」という行事がある。 種目は「ソフトボール」と「バレーボール」私の担当は、後者。 その取りまとめ役。


・・・だからって、

      「させんなよ~」 

一時帰宅のこの時期に、人が集まらないので、出場辞退の電話連絡・・・でも、集められなかったのは、私の責任・・・


PTAの仕事はいやではない。 皆さんやりたがらないので、頼む方も困っていたりするし、学校の様子もわかるし、「私でも役に立つのなら」という姿勢で取り組んでいるけど・・・スポーツが絡むと、だめなんだよな~



何年か前に、左手人差し指を切断してしまった。なので、スポーツができない。 義指を着けているので、パッと見にはわからないが、今だに痛みがあり、握力もない。なにしろ、じゃんけんの「グー」ができない。 というわけで、「球技大会」は・・苦痛でしかない。 人が集まらないので、「立っているだけでいいから・・
」なんて言おうものなら、自分も選手にならねばならない・・かも? なんて思うと辛い。 役員もそんな理由で、いやじゃないけど、運動系が絡んでくると、気が重い。 理由が言えないから、結局、断れない。って悪循環。
 
案外、この辺からのストレスが「癌」の原因なのかもしれないとも思っている。

 

  「私、指無いの~」

って、言ってしまえばよかったんだろうけど・・・私にはできなかった。



そして、また、言えない事が増えてしまったかもしれない。


     「私、癌なの~~」
              って、

・・・やっぱ、言えそうにない。 深く考えすぎると、病気が病気を呼びそう。 (再発したら、きっとこのせいだ。)

 

別に、「透明人間」になる必要なんかない。 それは、わかっている。 人生、生きてりゃ、隠しごとの一つや二つ、あって当たり前だ。 でも、それが何かの理由なら・・伝えないといけない・・と思うからだろうか。 手のことの場合、いちばん簡単なのは、何も言わずに、手を見せるだけでいい。 けど・・それができない。



バレーボールにエントリーしている父兄に電話をかける・・・・入院のことを知っている人は知っていた。 世の中狭い。 入院した病院の看護師さんが、子供の友達の親だったり、その親の仲良しさんが高校のPTAで一緒だったり、看護師さんは、守秘義務があるだろうから、私が「癌」だということまでは伝わってないと思うのだけど・・・


  「なにかあったら言ってね。」

やさしい、ありがたい言葉、うれしかったりする。 でも・・・少し、複雑・・・
心配してくれる人に、私はまた、ホントのことが言えない・・・



  「私、癌なの~~」ついでに「指無いの~」
  「バレーボールできないの~」ついでに「死ぬかもしれないの~」



・・ 王様の耳はロバの耳だった。 王様は裸だった。 狼は来なかった・・・
真実は尊いか? 尊いんだろ、多分。 



・・・でも今は・・・うそつきでも、許してもらおう。


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一時帰宅

2009-12-09 17:14:08 | 入院生活
7月23日(2008年)の手術予定を待つ日々。


・・・・長いって・・

医師が言うには、黄疸の症状が治まり準備万端にするには、そのくらいの時間が必要らしい。 手術は、かなり込み入ったものになるらしく、手術に伴った合併症の心配やら、膵液等の漏れ(これが1番やっかいらしい)、などを聞くと、癌になった上、他のことで危険にさらされるのか~と少し憂鬱なる。



癌細胞は、1ヶ月くらいでは、そんなに大きくならないらしい。 でも、小さくはならない。 だったら、早く手術して欲しい。 なんというか、入院生活は、仕方がないこととはいえ、この間まで、病気と無縁だった私には、「囚われの身」の感覚がどうにも居心地が悪い。 検査で痛い思いをすることはあっても、本人は、管が身体にくっついているだけで、痛くも痒くもない。


そんな中、「家に帰りますか?」と 医師。


「えっ?」 検査も一通り終了し、もうやることがないそうな。  
んなこと言って・・・疑り深い私は、


「最期の身辺整理をしろってこと?」
 

なんて、ほんのちょっと、思った。 告知もあっさりしたものだったし、ほんとはもっと悪かったり・・・じゃなくても、もしかしたらってことがないとは言えないわけで・・・ハハ・・・深読みしすぎだなと思い、打ち消した。


家に帰れる。 ありがたい。 急な入院だったもの、子供達も心配だったし、その他もろもろ、気にかかることは山ほどあった。 PTAのお仕事など中途半端なものも多い。 長男(高2)の高校で支部の会計をやっていた。 支部のお金も預かっている。 誰かにお願いしないと、みんなに迷惑掛けると、入院中気になっていた。 こんな時に~って感じだけど、万が一もないとは言えないのだから、ちゃんとしておかないとな~ なんて。



手術のための再入院が、7月18日、それまで、10日程、家ですごした。


管はついたままで、いつも胆汁を貯める袋をからだのどこかに着けてはいたが、普通に生活していた。 特に生活面での注意事項もない。


家に戻ってしまうと、予定されている手術がずーっと先にも思えた。



病院に戻らなかったらどうなるんだろう? とも思った。 でも、袋ぶら下げてるままじゃね~ 逃亡もままならない。 いや、逃げるつもりなんかなかったけれど、手術が怖いわけじゃなく、ただ、人間って病気になるんだ、死ぬもんなんだ、と頭の中でひらひらと舞っていたのかもしれない。


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