孤独な自転車一人遊び!

再生可能なエネルギーで動こう

自撮り用三脚(2012.5.31)

2012-05-31 19:28:04 | 丹下鉄工所(champion No2):フレンド商会

自転車で1人気ままに出歩くとデジカメ写真はいつしか風景にマイ自転車が一緒に写り込んだ写真ばかりになります。そこで自撮りにチャレンジしようと思い立ち、吉祥寺のヨドバシカメラで超軽量の三脚を2つ購入して来ました。今回は写真右のフレキシブルなスタンドを使って自撮りしてみました。意外と屋外の自然が多いところでは平坦な場所は少なくフレキシブルスタンドが使い勝手が良かったです。球で間接が細かく動くため木の枝など固定させやすかったです。自転車は30年前阿佐ヶ谷のフレンド商会で作った丹下鉄工所チャンピオンNo2クロモリフレーム。
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ベンチに置いて
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切り株の上に置いて
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小枝の先に掴ませて
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切り倒した木の幹に載せて
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ベンチ横の木の枝に掴ませて
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Pedersen自転車の歴史について調べました

2012-05-26 22:55:30 | pedersenの歴史

ネットからpedersen bikeの歴史について調べて翻訳してみました。ミカエル・ペダーセンはデンマークで生まれイギリスのDursleyで会社を起こしたようです。最後はデンマークに戻り1929年亡くなりました。現在のPedersen bikeは1978年Jesper Sllingという人が復活させたようです。伝記も出ていて入手予定です。入手したらまたアップしたいと思います。
History

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ペダーセン氏の歴史(ネットから翻訳しました)

1855年にデンマークで生まれたミカエル・ペダーセンは自転車の歴史の中では無名に近かった。彼は彼が持っていた個々の想像力や創造力、才能、努力を希な形で結実させ、工学的知識と熟練された技術力を使って沢山のアイデアを現実のものにした。同時に彼の執拗で予測不可能な行動は時々財政的、法律的な問題を生じさせ、幅広いコマーシャルベースの機会を喪失させていた。このことが多分自転車の歴史のなかでより認知された形でなく脚注程度の存在で忘れ去れてしまった理由かも知れない。

農業機械は1800年代後半ビッグビジネスであり、ペダーセンは酪農の機械に様々な改良を施し特許を得ていた。そして製造権を売ってロイヤリティーを得ることで、彼は今日の基準で言えば裕福な人間の1人であった。しかしロイヤリティー収入が少なくなってきたとき彼は別のチャンスを探し始めた。1893年のイングランドDursleyに移動し、ペダーセンはすぐに彼の能力を彼のユニークな自転車に集中させた。1894年彼の自転車のデザインで特許を得たが、どうやら数年前木製フレームの自転車を完成させていたようだ。

自転車は固定ギアで特許はハンドルバーを下方に位置させるため"Cow horn"と呼ばれるオリジナルの低位ハンドルを持っていることに与えられた。アーネスト・フーリーはイングランドのカリスマ投資家でありまた企業詐欺師でもあった。あきらかに彼自身の魅力的なストーリーと時間のなかで遙か前から1896年Pedersen Cycle Frame Co.を作るためのファンドを立ち上げていた。彼はライセンスの元でペダーセンデザインを作り出す他の自転車メーカーを捜すことに努力した。1897年のイングランド・ナショナル・サイクル・ショーで少なくとも6つの製造会社がPedersen Cycle Frame Co.の提示したデザイン自転車に加えて提示された。しかし自転車の業界新聞はあきらかにその時ペダーセンのデザインに興味を示さなかった。この決定的な賞賛の欠如は生産がかなり制限されることを意味していた。

1898年ペダーセンビジネスとは無関係のところで企業詐欺の証拠がフーリーに突きつけられたとき彼は破産した。財政的なバックアップが無くなったことでペダーセンは彼のデザインで製造するためDursley Pedersen Cycle Co.として知られている別の会社を作らざるを得なくなっていた。そしてこの会社がペダーセンのユニークな自転車の大部分を統合することになった。

自転車はレースに勝つことから始まって多くの記録を打ち立て、業界紙が注目するようになっていった。ペダーセンは極端に薄いフレームチューブや、24インチの木製リムを使ったり、軽量のためドリルで穴を開けたりして超軽量の自転車さえも開発した。この自転車は未だに存在し報告では4.6kgを切った重さであった。良い圧力が顧客の興味を引き始め、Dursley Pedersen 自転車は増加し続けた。ピーク時には50人もの従業員が週30台ものタンデム、三輪車、四輪車などの自転車をフォールディングバイクなどと同様に製造した。

限定でサイズ調整可能な八種類のフレームが提供され、エナメル塗装のカラーは選択できた。またニッケルメッキのフレームも提供されていた。多種のバッグと伴にゴルフのキャリーバッグや銃のキャリーバッグなども提供可能なアクセサリーであった。会社はペダーセンデザインのくるぶし丈のスプリットスカートを販売し女性が自転車に容易に乗れるようにした。ペダーセンはそのエネルギーを製造工程に集中させ、技術的改造の目標をボールベアリング式ヘッドセットの開発や可変式ハンドルバーなどの開発に自転車の製造を集中させた。細かく観ればこの方向で1905年のDursley Pedersenが修復された事は明らかである。

デザインが製造に完全に適合していなかったにもかかわらず、1903年のカタログではペダーセンの中間軸原理に基づいた3速ハブギヤのため特許デザインが使われた。使用するには信頼が足りない摩擦ブレーキが装備されていたがペダーセンは修正するのを怠った。しかし回避する機能的改造をせずに販売は継続され続け、会社は清算を強いられた。会社は1905年までには売られてしまった。ハブの商業的適合範囲が制限されてしまう卵形のフリンジを数年以上の間保持していたが、新しいオーナーは直ぐにクラッチのデザインを修正する方向で動いた。Dursley Pedersen bycyclesとペダーセンハブギヤは生産し続けていたが、ミカエルはもはやその生産に参加していなかった。そのため彼が彼の発明に関与することは諦めざるを得なかった。不幸にも貴重な時間が失われ、歴史的な機会がすり抜けて行った。Stumey-Archer として知られることとなった3速ハブが同時期広く市場に広まっりその信頼性により毎日の使用に耐えられるようになった。

Dursley Pedersen bicycleの生産はは1917年に終わったがデザインはその後数年間はロンドンで生産を継続した。農機具の分野での努力に加え、ミカエルの注目は長い間モーターサイクルに対する3速ハブギヤの応用に関わって行った。しかしデザインがモーターサイクル用に変更される間、貴重な時間が再び過ぎていった。その後モーターサイクル用ハブのデザインは二度と商業ベースの成功をもたらさなかった。

ペダーセンは発明を他の分野を対象に継続し、多産な発明家として生き残った。彼の名前はマグネットデザイン、正確な計測ゲージ、軍用品などに垣間見ることができた。彼は自身の楽器を組み立て音楽家として、自分のビールを醸造し、そして経験に基づいたジョークを愛したが1920年までには彼の創造的な能力は衰えていった。そしてデンマークに戻り1929年コペンハーゲンのシニア市民コミュニティーのなかで亡くなった。1978年 Jesper Sllingがペダーセンデザインを再発見しフレームの生産が始まった。一世紀を経てペダーセンデザインは世界の大量生産の風習の中でユニークなクラフトマンシップの例として存在し続けている。

サイクリングが移動の独立性と自由をもたらすならば、その質を顕著にさせられるとき、細部にこだわるとき、格好が美しいと思えるときなど、ペダーセン自転車は過去へのリンクをもたらしてくれるだろう。


zambikes竹の自転車とザンビア(2012.5.13)

2012-05-13 20:34:08 | zambikes(竹の自転車)

zambikesを選んだ理由。
竹の自転車は実は世界的にはたくさん作られています。木製よりも安く作れて線維が強度を上げるため以外と製作は容易なようです。しかし日本で手に入れようとすると意外と高価なものになるようでzambikesのフレーム単体で10万は手頃です。完成車で20-30万にもなってしまうのではないでしょうか。この値段になるとカーボンでまとめるのと比較されてしまいます。フレーム単体で手に入れるとしても輸入する頃には15万は超えるるでしょうし日本で10万で手に入れられるzambikesはやはり一番安いのかも知れません。私のフレームで1.9kgですが竹のためカーボンほど軽くはなりません。他の竹フレームも2kg弱のようです。一番軽い物は8kgのロードでまとめられるようです。しかし30万は覚悟しないとならないでしょう。細い竹で繋ぎはカーボンという構成なので価格は上がりますね。重さと細身と価格を犠牲にしなければなりませんが10万なら再生可能素材ならカーボンと比較せず選べました。選択はないですが。

zambikesは自然素材の姿を残している。
他の竹製フレームは奇麗にまとまりすぎて工業用品の素材みたいでおもしろくありません。フレームが真っ直ぐなのは良くないです。その点zambikesは節から曲がりがあったりで味を残しています。

アフリカ・ザンビアで作られているフレームだと言うこと。
ザンビアはアフリカ大陸の真ん中で国のGDPは日本の0.4%,1人当たりのGDPは0.3%としかないアフリカの最貧国の一つです。人口は日本の1/10,広さは日本の2倍、しかしアフリカで最も平和な国でもあるようです。zambikesはソーシャルビジネスとして発足しています。zambikesを我々が購入することでザンビアに職を生み出すことになります。しかしBBのネジ山に接着剤が付いたままみたいなラフさは受け入れなくてはなりません。

製作現場を観ればまっいいか!
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ザンビアを知ろう!
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こんなに竹製は出ています。
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私のzambikesの紹介です。
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昔ロサンゼルスのハリウッドに住んでいた頃である。グリフィス天文台に
至る山道中腹でクラシックなオープンカーを道に止めて街を見渡す土手の
草むら、持ってきたワインを1人開け読書にふける若者がいた。
風そよぐ春の気持ちが良い日だと記憶していた。マイペースで休日の
過ごし方として贅沢でこれぞアメリカだなーと感心した。そのころの
日本では休日もがむしゃらな人たちだらけであった。
若者ではなくなったが、森の中でコーヒーを飲みながら読書するのが
今一番の贅沢となった。休日に森の中で静かに過ごせるのも自転車の効用。

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また善福寺公園にて(2012.5.11)

2012-05-12 14:14:10 | pedersen(ハンモックサドル自転車)

このところ善福寺公園から吉祥寺に出て井の頭公園でぶらぶら、石神井公園をへて帰宅するコースが多くなりました。善福寺は緑が深く電車の駅からも離れているせいか平日の午後は人が少なくホッとします。猫を抱いたおばあさんがベンチで何をするでもなくひばたぼっこしていました。あまり気持ちが良いと本を読むのも勿体なく緑を眺めているだけ過ごしたくなります。

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新緑の和光森林公園をpedersenであそぶ

2012-05-07 22:21:08 | pedersen(ハンモックサドル自転車)

5月7日連休明けですがからっと晴れました。特に緑が芽吹きこの時期の自転車あそびは最高です。またpedersenであそびました。森の中で写真を撮りました。1時間ほどi-podに入れたシャブリエとサティーを聞きながら読書。しかし読書しながら聴くクラシックでこの2つは読書の邪魔にならず最高です。自転車のりながら聴く音楽で細野さんのHosonovaが今のところベストかな。環境音楽に走っていたころの細野さんの音楽は今ひとつなじめなかったのですがHosonovaは全てを達観して気持ちよく音楽を聴いていた頃に戻れます。加藤和彦も死の直前に出した2,3のアルバムは本来の加藤和彦に戻ったように思いました。先端で無くても年相応の音楽でいいんでないの・・と思うこのごろです。死ぬときも餓死が自然死に近いらしいです。長くても2週間で気持ちよく死ねるとか。エンドロフィンが多量に出て眠るように死ねるようです。死に方もmy going way! 餓死かな。死に方もトレーニングが大事です。


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