「歴史文学深歩会」鎌倉(3)

2018-12-30 | 歴史、

県道21号を右に折れて鎌倉七切通しの一つである「亀ヶ谷の切通」しを登りました。         亀もあまりの急坂に音を上げて帰ってしまうので「亀返しの坂」ともいうそうです。      この坂を登リはじめて、すぐ右側にあるのが「長寿寺」です。  

長寿寺の裏山には足利尊氏のお墓があり,遺髪が埋葬されているそうです。(足利歴代のご廟所は京都の等持院です)20年位前に、この美しい庭園のある長寿寺で精進料理を頂く絶好のチャンスを得ました。当時の住職の奥様は凛とした方で先生もピりピりして中に 案内して下さいました。そしてその精進料理の美味しさといったら、一生忘れる事が出来ません。至福のひと時でした。

急坂を下りて間もなく、「岩船地蔵堂」のお堂が見えてきました。ここは源頼朝の長女で          木曽(源)義仲の息子・義高の許嫁となった大姫の墓所となっています。二人はいとこ    同志で仲が良かったのに、父頼朝の都合で 義高は葬られ、それに大姫の心は深い傷を負い以降、病に陥り20歳の若さで失意の中で亡くなったそうです。鎌倉幕府設立時の犠牲者ともいえます。雨が止んで日が射してきました。                              

 寿福寺に行く途中に阿仏尼の墓が道路沿いにありました。十六夜日記を書いた阿仏尼は凄い女性だと思いました。かなり年を取っていたのに、息子の相続権の争いの為、鎌倉幕府への訴訟を思いつき、京都から125里14日かかって訴えに来たのです。それからなんと30年後に息子の為相の勝訴判決が出たとの事でした。 

             

寿福寺は頼朝夫人・政子のお寺です。総門から続く石畳の道が美しく風情があります。     この日もモデルさんの写真撮影が行われていました。 

        裏に回ると墓地が広がり奥のやぐら(横穴式墳墓)が北条政子と3代将軍実朝の墓です。

        皆が集まっている方が実朝のやぐらです。                                

                           

         こちらが北条政子のお墓です。 

少し戻ってこの自然のトンネルを潜って(車も行き来していました。)駅に向かいました。

歴史深歩をしていて一番心に残ることは凄まじい権力争いの葛藤と、男性との間に大きな格差のある中を生きた女性の虐げられた歴史です。基本的に男女平等を掲げる今に生かされていることに感謝せずにはいられません。

最後までご覧いただきありがとうございました。ブログを始めてまだ半年足らずで、ヨチヨチ歩きですが、先輩ブロガー様達のブログをお手本に来年も、続けていけたらと思っています。


「歴史、文学深歩会」鎌倉(2)

2018-12-30 | 歴史、

次に縁切り寺、駆け込み寺として有名な「東慶寺」を訪れました。もう4回目位になります。     このお寺も円覚寺も禅宗の寺で鎌倉には栄西の布教による臨済宗の寺が多いとの事です。

開山(寺を創建した初代の住職)は北条時宗の夫人覚山志道尼(かくさんしどうに)です。    開基(寺を創建するのに資金を出した人、つまりパトロン)は息子の北条貞時です。         時宗が亡くなった翌年開創されたと言われています。尼寺として作られ女性の住職が      続いたとのこと。当時離婚の申し立ての出来なかった女性が、この寺に入って3年尼修行を  すれば、晴れて自由になれるという寺法はご開山、覚山尼の願いからだと言われています。

  

まっすぐ進んで少し急な坂を登りますとそこには東慶寺歴代のご住職の墓地が広がります。

  

「用堂尼」のお墓です。後醍醐天皇の皇女です。 お兄さんの大塔の宮護良親王の菩提を   弔う為に、この地に来られて東慶寺五代目のご住職になられました。

             北条時宗夫人、覚山尼のお墓です。 (初代のご住職です)↓

この卵塔は20代目のご住職のお墓です。天秀尼は豊臣秀吉の息子・秀頼の娘で   側室の子として生まれ、大阪城落城後,捕らわれの身となり女の子ということで何とか助かり、正室千姫の養女として、ここ鎌倉東慶寺に入り8歳の女の子の尼寺での生活がはいじまったそうです。

 

東慶寺には多くの学者、小説家など著名な方々が沢山眠っておられます。             少し小雨が降り出しました。浄智寺を入口から拝見して亀ヶ谷の切通しに向いました。