祖母は戦争が激しくなるまでは文京区弥生町に住んでいて小杉町の家は小作人の方頼んでいたそうです。
この家には大勢の叔父、叔母、従弟達が入れ替わり立ち替わり住んでいて賑やかな大家族でした。
当時母は9人兄妹でいとこは20人以上いました。、ここで生活している間に私は多くの親族の
出入りを見ていて自然に全体のファミリーツリーが耳学問で頭に刻まれたように思います。
そこに我が家族6人は1年以上も居候をしていたのですから、仕方がないとはいえ厚かましい
限りでした。祖母の大らかな人柄には全家族が尊敬と感謝の気持ちを抱いていたと思います。
空襲の翌日だったと思います。公園で松ヤニ遊んでいました。
街道を見ると富山市方面から全員白装束の服装の人達が列をなして次から次ぎへとリヤカーに
白い服の人を寝かせて黙々と高岡方面に行列を組んで通り始めたのです。
高岡市は戦災を免れていたので怪我や病気の人達を高岡に移動していたのだと思います。
長く続く余りに異様な光景だったので不気味で不安な思いで最後まで見送りました。
それから数日後の8月6日に、ついこの間まで住んでいた広島市街に
人類史上初めての核爆弾が投下され14万人の命を奪ったのでした。
その恐ろしい惨事については後から後から伝わってきたのでした。
偶々弟達の出生ということで富山に疎開し免れたた私共一家ですが、広島・長崎の
被災についてはずっと他人事ではない思いを抱いて今日に至っています。
現在もその恐ろしさ悲惨さを知りながら戦術核で威嚇しながら戦況を進めている国が
あるのは言語道断で容認出来ないことです。世界が一致して反対することが出来ないことが
不条理でもどかしい限りです。。