goo blog サービス終了のお知らせ 

即席・超簡単!クマでもわかる・・・

面倒くさいことはきらい!そんなあなたでも大丈夫。
「・・・」を簡単に満喫する方法、教えます!!!

ハバナのホセ・マルティ記念像

2010-05-03 | 番外編 ★ロシア以外★
メキシコシティから、更にキューバの首都ハバナ市に移動しました。

実際にハバナを訪れるまでは、ハバナはきっとチェ・ゲバラやフィデル・カストロの像で溢れかえっているに違いない、と勝手に思い込んでいたのですが、・・・違いました。
・・・というか、勿論チェ・ゲバラの肖像やカストロの像も沢山ありましたが、それ以上に目についたのが、キューバの文学者・革命家ホセ・マルティの像。

ホセ・マルティは文学の世界では、ルベン・ダリオが完成させたモダニズム運動の先駆者。
ルベン・ダリオが「ホセ・マルティの散文は、世界で最も美しい」と絶賛してい程、スペイン語圏では重要な文学者です。・・・ということで、ホセ・マルティは「文学におけるモダニズムの先駆者」と覚えていました。

この「モダニズム」という言葉ですが、これを聞くとどうしても条件反射のように「アールヌボー」「アールデコ」「象徴派」「印象主義」「唯美主義」といったものをイメージしてしまいます。
そうすると、ロシア的(ソ連的)に考えるとそれは「腐敗した西欧ブルジョアジーの退廃」の結晶ということになります。

・・・ということで、「モダニズム」が「革命運動」とくっつくということはなく、だからこそ一層その印象が強烈で、「ホセ・マルティだらけだ!」という驚きにつながったのでしょう。

トップの写真のような、ハバナの美しい歴史街の中心セントラルパークの中にある白亜の見事なホセ・マルティ記念像。
こうした「いかにも」という記念像もあれば、何だかよく判らない裏庭のような所にもポツンと設置された胸像などもあったりして、・・・大変興味深かったです。



★新プロジェクトの情報はこちら★

モダニズム運動の父ルベン・ダリオ

2010-05-02 | 番外編 ★ロシア以外★
もう少しだけメキシコシティについての記述を続けさせてください。

緑が多く、見るからに高級そうな住宅や、モダンなつくりの大手企業のオフィス・ビルが立ち並ぶポランコ地区を歩いていたら・・・発見しました!
憧れの詩人ルベン・ダリオの胸像を!!!

ボルヘスやマルケスなどによって確立されたラテンアメリカの「魔術的リアリズム」文学が世界的に大ブームを引き起こしたことにより、日本でも「中南米文学」は大変注目を集め、へたするとスペイン本国の文学よりもよく読まれるようになりました。
特にマルケスの『百年の孤独』は、まさにラテンアメリカ文学大ブームの象徴的存在になったといえます。

しかし実は・・・ボルヘスやマルケスが登場する前にも、ものすごい巨匠が中米のニカラグアで誕生しているのです。
それがルベン・ダリオです。
残念ながらルベン・ダリオの存在は、ボルヘスやマルケスほど日本では知られていません。

ルベン・ダリオは、スペイン語圏のモダニズム運動の父と呼ばれており、19世紀のラテンアメリカ文学、そして更には19世紀末のスペイン本国の文学に多大な影響を与えました。
神童と呼ばれたルベン・ダリオ。
ウィキペディアによれば「 3歳で読み書きを覚え、スペインの古典喜劇やホラー小説を朗読していたと言われる。 13歳になると少年詩人として中米にその名が知られるようになった。 15歳でニカラグア大統領の秘書を務め、王立図書館に勤務した。」とのこと。

15歳でニカラグア大統領の秘書を務めるとは・・・半端ではないですね!

ルベン・ダリオの胸像の背後には、通りの名称なのでしょうか、建物に「ルベン・ダリオ123」と書かれているのが見えます。
そのロゴも、アールデコ風というか、しっかりモダニズムしています。



そしてこのルベン・ダリオの胸像のすぐ近くに、もう一つ面白い像を発見!
「偉大な風刺画家RAFAEL FREYRE に捧げられた"La Ranita"(カエルちゃん)」。
この眼鏡をかけて少し出っ歯のカエルさんは、びんびん行きかう車の間をぬってたどりつかなければいけないような微妙な場所に設置されており、近づくのに少しばかり「覚悟」が必要でした。



★新プロジェクトの情報はこちら★

ディエゴ・リベラの頭部記念像

2010-05-01 | 番外編 ★ロシア以外★
エキゾチックな大都市メキシコシティの続きです。

中心街からはかなり離れているのですが、メキシコシティの南部にXochimilco(ソチミルコ)という地区があり、そこにドローレス・オルメド・パティーニョ美術館という、大変興味深い美術館があります。
ここはドローレス・オルメド・パティーニョという大富豪の御婦人の個人邸宅だった場所で、ドローレスの生前は数多くの芸術家や財界・政界人が集まるサロンだったとか。

今は孔雀やアステカ犬が静かに暮らす、実に異国情緒豊かな美術館となっています。メキシコを代表する画家フリーダ・カーロやディエゴ・リベラの絵などが収集されている興味深い場所です。

それにしてもここで暮らす孔雀が、実にユニークでした。・・・ものすごく「我が物顔」で庭の中を自由自在に歩き周っており、しかもかなり「人懐っこく」、こんなにも間近に正面からも、側面からも、背後からも、孔雀をくまなく眺めることができたのは初めてです。

ということで、こちらが大きく尾を広げた姿を正面から撮影したもの。



そしてこちらは、少し珍しい背面からの図。



美術館に入る門の所には、「メキシコ産サンショウウオ(アホローテ=ウーパールーパー)が、ベコちゃん人形のように風に吹かれるたびに首を揺らしながら迎えてくれます。



またメキシコシティでかなり頻繁に目にすることになるユニークなカエルの姿もしっかりあります。このカエル、手で頭をかいている姿がたまりません。



更に進むと、トップの写真のようなディエゴ・リベラの巨大な頭部の記念像が、孔雀の羽に彩られてドーンとかまえています。

用事を抜けて立ち寄った場所でしたので、残念ながら駆け足で観ることになってしまい、しかもわたし達が訪れた時はフリーダ・カーロの絵が海外を周っているということでしたので、この美術館はもっと落ち着いてもう一度訪れたいと思っています。

★新プロジェクトの情報はこちら★

メキシコのプーシキン像

2010-04-30 | 番外編 ★ロシア以外★
メキシコシティの続きです。

「9月16日」「2月5日」「5月5日」「炎」「水」「雲」「火山」「トルストイ」「プラトン」・・・。これ・・・何だかわかりますか?
実は、ここに列挙しているのはすべてメキシコシティにある通りの名称です。

道を歩いている時にフッと見つけた「トルストイ通り」。
思わず写真をとってしまいました。
トルストイという苗字を持つ人物は沢山いますし、特に大トルストイの数多くの子孫がフランスやアメリカなどの海外に住んでいることを考えると、もしかするとメキシコと関係の深かった「トルストイさん」という人がいたのかもしれないのですが・・・それでもやはりこれは『戦争と平和』を書いた「あの」トルストイにちなんで命名された通りの名称なのではないかと、勝手に思い込んでいます。
「プラトン通り」というのもあったので、きっと・・・。
でも、間違えていたら、ごめんなさい。




また、メキシコシティには「アレクサンドル・プーシキン公園」というものがあり、その中には、2009年6月6日にプーシキンの生誕210周年記念を祝って、ロシアから贈呈されたプーシキンの記念像が設置されているそうです。
トップの写真がそのプーシキン記念像なのですが、台座の色がメキシカンな感じで、新鮮です。

(トップの写真はプーシキン像の前で、プーシキンの詩を朗読している学生さん。写真はこちらから)

★新プロジェクトの情報はこちら★

サボテンとワシの記念像

2010-04-29 | 番外編 ★ロシア以外★
サンフランシスコの後、メキシコの首都メキシコシティに入りました。
メキシコシティは人口2000万人ともいわれるメガ・ポリスで、中南米の経済の中心。
ウィキペディアによれば、2008年の都市GDP(域内総生産)は3900億ドルであり、世界第8位だとのこと。

ちなみにこの都市GDP、1位は東京、2位ニューヨーク、3位ロサンゼルス、4位シカゴ、5位ロンドン、6位パリ、7位大阪で、8位がメキシコシティだそうです。
モスクワは15位。
中南米では他に、ブラジルのサンパウロが10位、アルゼンチンのブエノスアイレスが13位、ブラジルのリオデジャネイロが30位に入っています。

初めて訪れたメキシコシティは・・・ものすごく活気のある、美しい、そしてめちゃめちゃ刺激的な街でした。
とにかく見るもの、聞くものすべてが新鮮で、特に街のあちらこちらで見かける「骸骨」の人形や飾り物たちや、くらくらする程豪華絢爛な装飾の教会はとてつもなく印象的でした。
(トップの写真は、「骸骨」だらけのお土産屋さん。すごかったです!)


(こちらは16世紀末にメキシコで発生した独特な「バロック」様式の教会。Barroco novohispano と呼ばれるものです。写真はこちらから。プエブラ市の聖ドミンゴ教会にあるロサリオ・チャペル)

また、街全体に溢れる鮮烈な原色色彩や、ユーモラスな様子の不思議な彫像。
実にエキゾチックで、久しぶりに感じた「カルチャーショック(良い意味で)」にも近い、感動の連続でした。



メキシコシティの中心、ソカロ広場には、蛇をくわえたワシと原住民の記念像があります。



この図はアステカ神話にある「そこに首都を創設せよ」という予言を示しているとのことで、メキシコの国旗にも使用されています。



★新プロジェクトの情報はこちら★

ゴールデンゲートブリッジ

2010-04-28 | 番外編 ★ロシア以外★
北米、中米へ行ってきました。
少し寄り道して、そこで触れた記念像や記念板について簡単に触れたいと思います。

まずはサンフランシスコから。
トップの写真は、「あの」有名なゴールデンゲートブリッジを建設したジョゼフ・シュトラウス氏。ゴールデンゲートブリッジを手がける前に、400以上のはね橋の建設に携わってきたとか。

ゴールデンゲートブリッジは何と香川県の「瀬戸大橋」と姉妹橋とのことも、現地で記念板を見つけて初めて知りました。



そういえばどことなく「見慣れた風景」と感じられたことも納得です。



サンフランシスコは実に落ち着いた雰囲気の、とても美しい街でした。
また、ヒッピーやゲイ・カルチャーなど色々なものの「発祥の地」としても有名だとのことを伺い、大変興味深かったです。

きっと二度、三度と訪れる度に益々好きになっていくタイプの街なのでしょう。

■昨日のの答え=・・・Сакура・・・サクラ(桜)です。

★新プロジェクトの情報はこちら★

ゲディミナス通りの魅力

2010-04-20 | 番外編 ★ロシア以外★
ヴィルニュスのメインストリートである美しいゲディミナス通りには、科学アカデミー、高等裁判所、音楽・演劇アカデミー、国立銀行、セイマス(国会)、中央郵便局などが軒並み連立しています。

大聖堂を背にゲディミナス通りをあがっていくと、ゲディミナス通りとヴィルニャウス通りが交差している建物に、興味深い記念板があります。
ここでスラジャヴィチュス首相が1918年に第2政府を発足させ、独立への道を築いたとか。



それから、優美な雰囲気のゲディミナス通りには何となく不釣合いな重厚な感じの女性像。こちらは、リトアニアの女流作家・劇作家ユリヤ・ジェマイテ女史(1845-1921)の像です。リトアニアの農村や家庭生活の現実を描いた社会派作家だとか。リトアニアで唯一「紙幣」(今はもう硬貨になっていますが)1リト紙幣に使用されていたようです。
少しばかり「異空間」な感じがします。



そして、こちらはリトアニア国歌に採用されている国民賛歌の作詞・作曲を手がけたリトアニアの作曲家兼詩人であるヴィンツァス・クディルカ(1858-1899)の像。元々は医師でした。
クディルカが作詞・作曲をした『国民賛歌』は、1919年にリトアニア国歌に採用され、ソ連から独立した1990年に再びリトアニアの国歌となっています。



また、高等裁判所の壁面と歩道には、ソ連時代の厳粛の犠牲となった人々に捧げられた記念板、そしてメモリアル・モニュメントが設置されています。



歴史的な意味を持つ記念板や記念像に混じって、ローラースケートをはいた天使や、



めがねをかけたドーベルマンなど、リトアニアの首都のメインストリートであるゲディミナス通りには魅力的な遊び心が一杯つまっています。



■昨日のの答え=・・・Катана・・・カタナ(刀)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Судоку

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

ヴィルニュスの大聖堂

2010-04-19 | 番外編 ★ロシア以外★
リトアニアの首都ヴィルニュスの中心にある、古典様式・白亜の美しい大聖堂は、ソ連時代ギャラリー、コンサートホールとして利用されていたようです。
しかしペレストロイカがはじまった1985年から毎週1度のミサが許されるようになり、1989年に正式に聖堂としてのステータスを取り戻します。
1993年にはローマ法王ヨハネ・パウロII世もこの大聖堂でミサをあげたとのことです。

大聖堂前広場にある像は、中世リトアニア大公国の君主ゲディミナス大公(1275-1341)のものです。



広場から直線上にのびるしっとりとした雰囲気のある通りは、メインストリートのゲディミナス通り。
両サイドに並ぶ優美な建造物には、ふと目を凝らすと記念板が設置されていたり、面白い彫り物があったり・・・。
ゲディミナス通りをぷらぷら歩くだけで、充分落ち着いたバルトの香に触れることができるでしょう。

リトアニア科学アカデミーの建物には、ソ連時代に活躍したリトアニアの偉大な化学者ユオジス・マトゥリス博士の記念板が設置されています。マトゥリス博士は長年にわたってこの建物、即ちリトアニア共和国科学アカデミーの会長をしていました。



そして車道を挟んだ向かい側には、『マクベス』の魔女たちを思わせる3人の女性像が印象的な演劇劇場があります。



■昨日のの答え=・・・Иваси・・・イワシ(鰯)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Катана

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

ピレス通りの記念板

2010-04-18 | 番外編 ★ロシア以外★
リトアニアの首都ヴィルニュスの旧市街は、中世の香が漂うとてもロマンチックで美しい一角です。
石畳の通り、教会とお洒落なカフェ。



そうした旧市街のメインストリートとでも言うのでしょうか、ピレス通りで見つけた記念板。



リトアニアの有名な歌謡曲歌手アンタナス・シャバニャウスカスとウクライナの国民詩人タラス・シェフチェンコの記念板です。
シェフチェンコはヴィルニュスのこの家に、1829年から1830年にかけて住んでいたそうです。

■昨日のの答え=・・・Бонсай・・・ボンサイ(盆栽)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Иваси

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

アイボリート先生の記念像

2010-04-17 | 番外編 ★ロシア以外★
このブログの2009年11月15日の記事でも取り上げた、ロシア・ソ連時代の有名な児童文学作家コルネイ・チュコフスキーの代表作のひとつに、『ドクトル・アイボリート(直訳すると「ああ!痛い!」先生)』という獣医さんの話しがあります。
今でも頻繁に『ドクトル・アイボリート』のアニメがテレビで放映されたりしている、大人気のお話です。

このアイボリート先生のモデルとなったのが、ヴィルニュスに住んでいたユダヤ人医師のツェマフ・シャバッド先生。
チュコフスキーはヴィルニュス訪問の際、1905年と1912年の2回にわたって、このツェマフ・シャバッド先生の自宅に泊まり、親しく交流したそうです。

アイボリート先生のモデルとして、2007年、ヴィルニュスにツェマフ・シャバッド先生の像が設置されました。
ちなみにトップの写真、女の子が腕に抱えているのは小さな子猫です。

■昨日のの答え=・・・Татами・・・タタミ(畳)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Бонсай

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

リトアニア初のオペラ『ベルーチェ』

2010-04-16 | 番外編 ★ロシア以外★
ちなみに、リトアニアの名門国立フィルハーモニーですが、この舞台で1906年、リトアニア初のオペラ『ベルーチェ』(ペトラウスカス作曲)が初演を迎えました。原作はリトアニアの戯曲家ランズベルギス=ジャンカルニスです。


(ヴィルニュスにある戯曲家ランズベルギス=ジャンカルニスの家に設置された記念板)

戯曲家ガブリエリュス・ランズベルギス=ジャンカルニス(Gabrielius Landsbergis-Žemkalnis)は、リトアニアを代表する戯曲家の一人で、リトアニア民族復興運動の積極的な活動家の一人でもあったようです。

ガブリエリュス・ランズベルギス=ジャンカルニスの息子ヴィータウタス・ランズベルギス=ジャンカルニスはリトアニアの著名な建築家。

そしてそのまた息子(つまりガブリエリュスの孫)ヴィータウタス・ランズベルギスは、リトアニア独立運動の指導者で、ソ連崩壊後、独立国家となったリトアニア共和国の国会議長つまり初代国家元首となった人です。
ちなみにリトアニアの初代国家元首となったランズベルギス氏は元々音楽学者で、リトアニアの天才チュルリョーニスの研究者としても世界的に知られています。

■昨日のの答え=・・・Ниндзя・・・ニンジャ(忍者)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Татами

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

奇跡の聖マリア像

2010-04-15 | 番外編 ★ロシア以外★
リトアニアの首都ヴィリニュスの旧市街は1994年に世界文化遺産に認定されました。
その美しい街並みの中でもとりわけ目をひくのが、夜明けの門通り(Aušros Vartų gatvė)=アウシュロス・ヴァルトゥー通り。


(奥に見えるのが「夜明けの門のチャペル」。よく目をこらすとガラスごしに奇跡をおこす聖マリア像が見えます)



ここはローマ法王ヨハン・パウロII世も訪れたという、カトリック教徒の巡礼地のひとつで、夜明けの門の2階には小さなチャペルがあり、「奇跡をおこすマリア像」があります。信者の方が冷たい大理石の階段を跪いて祈りながら一段、一段上がっていく姿がとても印象的です。


(聖マリアの聖画像はWikipediaのこちらから)

とにかく、わずか数百メートルの通りには、3つの異なる宗派(カトリックが2つ、ロシア正教が1つ)の聖堂・修道院が建ち並んでいるという、驚くような場所です。いずれもバロック様式の建造物で、特にロシア正教会(聖霊聖堂・修道院)の「バロック様式」は珍しいので必見です。


(珍しい「バロック様式」のロシア正教会。写真はWikipediaのこちらから)

またこの夜明けの門通りには、国立フィルハーモニーもあります。「帝政ロシア」時代に建てられた大変美しい建物です。


(向かって右側の建物です)

ここの舞台ではかつて、ロシアの偉大なオペラ歌手シャリャーピンが歌い、ヴィルニュス出身の20世紀最大のバイオリニストの一人であるヤッシャ・ハイフェッツ が演奏しました。
今でも、旧ソ連圏で最も権威ある舞台のひとつとなっています。

■昨日のの答え=・・・Хентай・・・ヘンタイ(変態)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Ниндзя

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

ドストエフスキーの記念板

2010-04-14 | 番外編 ★ロシア以外★
ヴィリニュス市の美しい旧市街。

市庁舎がある広場に面した建物のひとつには、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』で有名なロシアの大文豪ドストエフスキーが1867年、奥さんと一緒にドイツに向かう途中ヴィリニュスに立ち寄って宿泊したという建物もあります。


(奥の方に見える白い建物が市庁舎です。左の黄色っぽい建物が、ドストエフスキーが宿泊したという建物。)



それにしても、ヴィリニュス市、それも特に旧市街は・・・とにかく教会・聖堂の宝庫のようで、カトリックの教会、ロシア正教の聖堂が、ほとんど隣接しているかのような印象を与えるくらい沢山あります。

こちらはその内のひとつで、聖カジミエル教会。



カトリックのイエズス会が造ったヴィリニュス最初のバロック様式の教会です。
その後(1868年)、一時期ロシア正教会に変わりその時教会の上にロシア正教特有の「たまねぎ頭」がつきます。
ソ連時代は「宗教は阿片」だということで、ただの博物館となり、そして1991年、リトアニア独立後に再び一番最初のイエズス会系カトリックの教会に戻っているという、興味深い歴史をもった美しい教会です。



そしてこの聖カジミエル教会すぐ近くには、ロシア正教会の聖ニコライ教会があります。




■昨日のの答え=・・・Рикша・・・リキシャ(力車)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Хентай

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

スタンダールの記念板

2010-04-13 | 番外編 ★ロシア以外★
中世から続く歴史的な建造物が印象的なヴィリニュス市の旧市街。
あちらこちらに興味深い記念板が目につきます。

・・・ということで、こちらは、ヴィリニュス市の旧市街で見つけたフランスの文豪スタンダールが1812年、ロシア攻略に向かうナポレオン軍に同行して宿泊したという建物。



現在、ここには「フランス文化会館」も入っています。

また同じ建物のスタンダールの記念板のすぐ横には、ペテルブルク生まれの有名なロシアの地中海文化専門の美術史家、哲学者であるレフ・カルサーヴィン教授の記念板があります。



カルサーヴィン教授はヴィリニュス大学、ヴィルニュス芸術大学で教鞭をとりながり1940年から1949年までこの家で暮らしていました。
しかし、1950年には「反体制的」だということで逮捕され、ロシア北西部のコミ共和国の強制収容所に送られ、1952年にそこで亡くなりました。



■昨日のの答え=・・・Караоке・・・カラオケ(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Рикша

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

天才画家チュルリョーニス

2010-04-12 | 番外編 ★ロシア以外★
日本ではまだあまり知られていないチュルリョーニスですが、ロシアでは19世紀末文化「銀の時代」を象徴する、代表的な画家・音楽家の一人として、評価がとても高いです。
リトアニアの第二の街カウナスのチュルリョーニス美術館で観たチュルリョーニスの原画は・・・圧巻でした!!!
絶対お勧めです!!!
・・・ということで、少しこの孤高の天才チュルリョーニスを紹介させてください。

ミカロユス=コンスタンティナス・チュルリョーニスは1875年、リトアニア南部で生まれました。ちなみに、当時リトアニアはロシア帝国の一部でしたので、ロシアでは「ロシア銀の時代の芸術家」というカテゴリーに入ります。

チュルリョーニスの父親はリトアニア人で、大の音楽愛好家でした。彼はカトリック教会でオルガニストをしており、そこでドイツ人であるチュルリョーニスの母親と知り合います。

幼いチュルリョーニスは、音楽の最初の手ほどきをこの父親から受けました。
そして7歳の頃には、幼いコンスタンティナスは自由自在に楽器を操れるようになっていたといいます。

13歳になった時、コンスタンティナスはオーケストラの学校に入り、その後1893年には当時ロシア領であったワルシャワのワルシャワ音楽院のピアノ科に入学しました。音楽院でコンスタンティナスは作曲に手を染め、一年後にはピアノ科から作曲科に転科します。

1899年、チュルリョニスは優等で音楽院を卒業しました。
彼は音楽学校の校長先生の職を勧められますが、それを断ります。
そして1901年の秋にはドイツに移り、今度はライプツィヒで真剣に絵画に興味を抱き始めます。

1902年の秋、チュルリョーニスはワルシャワに戻り、そこで母校ワルシャワ音楽院での教職の口を提供されますが、再びそれを拒み、ピアノの個人レッスンで生計を立てながら細々と暮らしていくことになります。

そしてこの頃、音楽を続けながらも、絵画教室に通い始め、1904年美術大学(アカデミー)に入学します。そこでは例えば、石膏デッサンは一切行わない等、大変ユニークな教育方針がとられていました。
そして学生達はもっぱら雰囲気、性格或いは動作といったものを伝える為の訓練を受けました。

1905年の夏、ワルシャワでこのアカデミーによる絵画展が開催され、チュルリョーニスの絵は大きな注目を集めました。



そして1908年の秋、チュルリョーニスはペテルブルクに移り、そこでベヌアやバクストといった著名な画家達と知り合うことになります。

一方コンサートでは、スクリャービンやメトネルの作品と並んでチュルリョーニスのピアノ作品が演奏されるようになっていました。

1908年の年末にチュルリョーニスはリトアニアに戻り、1909年の元旦に結婚します。新婚夫婦は結婚式の後すぐに再度ペテルブルクに移り住みますが、冬には再度リトアニアに戻ります。
その後チュルリョーニスは妻をリトアニアに残したまま単身で今一度ペテルブルクにやって来ますが、その年の秋、アパートの一室で病に倒れ、廃人同然となっているのを友人によって発見され、妻が彼を迎えに来てリトアニアへと連れて帰り、精神病院に入院します。

1911年4月10日、ミカロユス=コンスタンティナス・チュルリョーニスはこの精神病院の一室で36年の短い生涯を閉じました。

(チュルリョーニスの絵は二枚ともこちらからの引用になります)

■昨日のの答え=・・・Аниме・・・アニメ(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Караоке

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます