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レオニード・クラーシンの記念板

2010-04-24 | ★歴史★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通り。
アゼルバイジャン出身の政治家ナリマノフの記念板の横に、レオニード・クラーシン(1870-1926)の記念板があります。

レオニード・クラーシンは革命家で、ボリシェヴィキの「海外貿易委員」。
革命によって西欧との関係が断絶したボリシェヴィキ・ロシアと西欧との貿易関係復興に務めた人物です。
1926年、ソ連全権代表としてイギリスに駐在中に、ロンドンで客死しました。


(写真はこちらから)

レーニンを崇拝しており、レーニンが亡くなった時、葬儀委員の一人を務めています。
クラーシンは、科学の進歩によって「復活」が実現することを心底信じていたと思われるふしがあり、崇拝するレーニンの遺体に防腐処理を施し「レーニン廟」において保存することを発案したことでも知られています。

また、いわゆる「西側とビジネスをすることができた珍しいボリシェヴィキ」としても知られています。
ジャーナリストのアバリノフさんはその一例として、自国においても豊富な森林を持っているカナダにソ連から木材を輸出する契約をクラーシンが結んだことを挙げています。
(シベリアに収容されている政治犯を使って作業しているため、超低価格の木材輸出を実現することが可能となっていた・・・。)

■昨日のの答え=・・・Якудза・・・ヤクザ(ヤクザ)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Дзэн

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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作家・政治家ナリマノフの記念板

2010-04-23 | ★歴史★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通りには数多くの記念板があります。
トップの写真は、その内のひとつ。
ソ連時代に活躍したアゼルバイジャン出身の作家・政治家ナリマン・ナリマノフNariman Karbalayi Najaf oglu Narimanov (1870-1925)のものです。


(写真はこちらから)

トビリシの貧しいアゼルバイジャン系家庭に生まれ、革命運動に加わり、大成してソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国のひとつであるアゼルバイジャン共和国の代表になっています。
1925年、ポワルスカヤ通りの自宅で、心臓発作のため亡くなりましたが、一説によると「毒殺」されたとか。

記念板に彫りこんである文字が「東洋」的なのが、アゼルバイジャンっぽくてユニークです。

■昨日のの答え=・・・Якудза・・・ヤクザ(ヤクザ)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Дзэн

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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劇場広場の偉人カール・マルクス

2010-01-30 | ★歴史★
「メトロポール・ホテル」ですが、遠くから見るとこんな感じです(トップの写真)。
ボリショイ劇場がある「劇場広場」に位置しています。
赤の広場から歩いてすぐの所です。

ところで、この写真を撮影したのは休日の午前中でしたので、車がほとんど走っていないのですが、平日はモスクワの交通事情を象徴するように、ここはいつも「大渋滞」となっています。
(尚、このだだっ広い道路は、一方通行であることに注意!)

正面に見える大きな灰色の建物が、メトロポール・ホテル。

そして、小さくてあまり良く見えないかもしれませんが、その手前に長いあごひげをはやした、大きな胸像があります。
こちらは、『共産党宣言』を書いたドイツの経済学者カール・マルクスです。



平日の、いわゆる車が「大渋滞」している時には、その様子がまるで、上から困ったような顔をして、目の前に連なる高級車の行列を眺め下ろしているかのような印象を与えるので、なかなかユニークです。
土台には「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」“Proletarier aller Länder, vereinigt Euch!”というマルクスの有名な言葉が彫りこまれています。

トップの写真の向かって左手には、・・・この写真には写っていませんが、ボリショイ劇場があります。
そして突き当たりに見えるオレンジ色の建物は、旧KGB本部庁舎です。

モスクワの幻想的な冬景色、こちらから観られます

メトロポール・ホテルと革命軍の記念板

2010-01-28 | ★歴史★
ところでネグリンナヤ川の話が出ると引き合いに出されることが多い、由緒あるロシアの超高級ホテル「メトロポール」。
ボリショイ劇場の向かい側、劇場広場に位置しています。

ロシア「銀の時代」=ロシア・モダニズムを代表する建築物の一つです。
有名なロシアの実業家・大富豪で、数多くの芸術・芸術家のスポンサーとして歴史に名を残したサーワ・マンモントフのイニシアチブで建設された美しいホテルです。

もともとはマンモントフの「趣味」を反映した客席3000席の私設オペラ劇場、ギャラリー、ホテルとレストランを含む巨大な文化施設として計画され、建設が始まったメトロポールですが、同年にマンモントフが公金横領の虚偽の罪で逮捕・投獄されてしまいます。(劇場、ギャラリーの計画はなくなります)

その後、今度は1901年に建設中の建物で火事がおこり、建設はほとんど「振り出し」に戻ってしまいます。

1917年のロシア革命勃発時、ここはフルンゼが率いる革命軍に激しく抵抗する白軍の仕官候補生たちによって占拠され、激戦地となりましたが、ネグリンナヤ川の「祟り」を思わせるホテルの歴史は、取り敢えずこの事件を最後に終止符が打たれます。


(記念板の写真はこちらから)

その後は、ソ連を代表する高級ホテルとして、外国からの貴賓を向かい入れ、女優マリーネ・デートリッヒや、作家のショー、ブレヒト、スタインベック、そして毛沢東まで宿泊したそうです。

ソ連が崩壊した後も、そのステータスは変わらず、アルマーニや、エルトン・ジョン、マイケル・ジャクソンなどが宿泊したホテルとして知られています。

★新プロジェクト"Winter series"はこちらへどうぞ★

モスクワ市庁舎のレーニン

2009-11-16 | ★歴史★
トヴェルスカヤ通りは、クレムリンとサンクト・ペテルブルクをつなぐ大街道の一部です。このトヴェルスカヤ通り、クレムリンを背に、クレムリンから約600メートルくらい位置までくると、左手に赤い建物が現れます。

この建物の真ん中部分には8本の白い円柱が鮮やかに浮き上がり、また白、青、赤の三色に彩られたロシアの国旗と、戦いの聖人ゲオルギの騎馬像が龍を蹄で踏みつけている姿が描かれている赤い旗が見えます。
モスクワ市の旗です。
見るからに歴史のありそうな、意味深げな建造物。

この赤い建物が、モスクワ市行政府が入っているモスクワ市庁舎です。
1782年に有名な建築家M.カザコフによって建設された大変歴史のある建物で、この建物のベランダから、ロシア革命のリーダーであるレーニンが重要な演説を幾度かしました。
建物の壁に設置された記念板は、このモスクワ市庁舎の建物と、レーニンやロシア革命との関係の深さを物語っています。



ちなみにここは現在のようにモスクワ市庁舎と呼ばれる前は、モスソヴェトと呼ばれていました。

1937年、トヴェルスカヤ通りの道路拡張・整備計画がはじまります。
この時小さな建物は壊され、建築史上価値があると判断された大きな建物はそのまま移動されました。

モスクワ市庁舎もこの道路拡張整備計画の一環で、1939年に13.6メートル、基盤からそっくりそのまま移動されています。そして更に、1944年から1946年にかけて、2階分上に建て増しされています。つまり以前は3階建てだったのが、5階建てになったのです。

尚、そのまま移動された建物というのはこのモスクワ市庁舎だけではなく幾つかあり、トヴェルスカヤ通り6番の23000トンの建物など、何と中庭の方に50メートルも移動されています。
それも、中に500名以上の住人が入ったまま移動されたそうです。
このような事がどのように可能なのか想像もつきませんが、この出来事を検証したドキュメンタリー映像がありますので、興味のあるかたはどうぞ。
こちらから観られます=第1部(動画21分25秒)第2部(動画21分28秒)。("Gorodskie Legendy" TV-3)
尚、第2部の冒頭で、モスクワ市庁舎の移動について検証しています。

トヴェルスカヤ通りに面している建物のアーケードの中を覗いてみてください。美しい装飾が目立つ問題の建物が今でも移動された位置に建っています。



12月4日(金)チャイコフスキー『四季の世界』のコンサート情報はこちらです。