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即席・超簡単!クマでもわかる・・・

面倒くさいことはきらい!そんなあなたでも大丈夫。
「・・・」を簡単に満喫する方法、教えます!!!

メキシコのプーシキン像

2010-04-30 | 番外編 ★ロシア以外★
メキシコシティの続きです。

「9月16日」「2月5日」「5月5日」「炎」「水」「雲」「火山」「トルストイ」「プラトン」・・・。これ・・・何だかわかりますか?
実は、ここに列挙しているのはすべてメキシコシティにある通りの名称です。

道を歩いている時にフッと見つけた「トルストイ通り」。
思わず写真をとってしまいました。
トルストイという苗字を持つ人物は沢山いますし、特に大トルストイの数多くの子孫がフランスやアメリカなどの海外に住んでいることを考えると、もしかするとメキシコと関係の深かった「トルストイさん」という人がいたのかもしれないのですが・・・それでもやはりこれは『戦争と平和』を書いた「あの」トルストイにちなんで命名された通りの名称なのではないかと、勝手に思い込んでいます。
「プラトン通り」というのもあったので、きっと・・・。
でも、間違えていたら、ごめんなさい。




また、メキシコシティには「アレクサンドル・プーシキン公園」というものがあり、その中には、2009年6月6日にプーシキンの生誕210周年記念を祝って、ロシアから贈呈されたプーシキンの記念像が設置されているそうです。
トップの写真がそのプーシキン記念像なのですが、台座の色がメキシカンな感じで、新鮮です。

(トップの写真はプーシキン像の前で、プーシキンの詩を朗読している学生さん。写真はこちらから)

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サボテンとワシの記念像

2010-04-29 | 番外編 ★ロシア以外★
サンフランシスコの後、メキシコの首都メキシコシティに入りました。
メキシコシティは人口2000万人ともいわれるメガ・ポリスで、中南米の経済の中心。
ウィキペディアによれば、2008年の都市GDP(域内総生産)は3900億ドルであり、世界第8位だとのこと。

ちなみにこの都市GDP、1位は東京、2位ニューヨーク、3位ロサンゼルス、4位シカゴ、5位ロンドン、6位パリ、7位大阪で、8位がメキシコシティだそうです。
モスクワは15位。
中南米では他に、ブラジルのサンパウロが10位、アルゼンチンのブエノスアイレスが13位、ブラジルのリオデジャネイロが30位に入っています。

初めて訪れたメキシコシティは・・・ものすごく活気のある、美しい、そしてめちゃめちゃ刺激的な街でした。
とにかく見るもの、聞くものすべてが新鮮で、特に街のあちらこちらで見かける「骸骨」の人形や飾り物たちや、くらくらする程豪華絢爛な装飾の教会はとてつもなく印象的でした。
(トップの写真は、「骸骨」だらけのお土産屋さん。すごかったです!)


(こちらは16世紀末にメキシコで発生した独特な「バロック」様式の教会。Barroco novohispano と呼ばれるものです。写真はこちらから。プエブラ市の聖ドミンゴ教会にあるロサリオ・チャペル)

また、街全体に溢れる鮮烈な原色色彩や、ユーモラスな様子の不思議な彫像。
実にエキゾチックで、久しぶりに感じた「カルチャーショック(良い意味で)」にも近い、感動の連続でした。



メキシコシティの中心、ソカロ広場には、蛇をくわえたワシと原住民の記念像があります。



この図はアステカ神話にある「そこに首都を創設せよ」という予言を示しているとのことで、メキシコの国旗にも使用されています。



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ゴールデンゲートブリッジ

2010-04-28 | 番外編 ★ロシア以外★
北米、中米へ行ってきました。
少し寄り道して、そこで触れた記念像や記念板について簡単に触れたいと思います。

まずはサンフランシスコから。
トップの写真は、「あの」有名なゴールデンゲートブリッジを建設したジョゼフ・シュトラウス氏。ゴールデンゲートブリッジを手がける前に、400以上のはね橋の建設に携わってきたとか。

ゴールデンゲートブリッジは何と香川県の「瀬戸大橋」と姉妹橋とのことも、現地で記念板を見つけて初めて知りました。



そういえばどことなく「見慣れた風景」と感じられたことも納得です。



サンフランシスコは実に落ち着いた雰囲気の、とても美しい街でした。
また、ヒッピーやゲイ・カルチャーなど色々なものの「発祥の地」としても有名だとのことを伺い、大変興味深かったです。

きっと二度、三度と訪れる度に益々好きになっていくタイプの街なのでしょう。

■昨日のの答え=・・・Сакура・・・サクラ(桜)です。

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モスクワの建物

2010-04-27 | ★その他もろもろ★
1953年のスターリンの死後、書記長として実権を握ったフルシチョフは、スターリン批判を行いました。

そして、スターリン時代に建設されていたような建造物も、「過剰」なものとして、機能重視の質素な建物を造ることを主張しました。
(トップの写真が、スターリン時代のアパートです。写真はこちらから)

ソ連・ロシアが誇ってきた偉大な建築家たちは、完全に職を失い、それにとって代わる無数のマッチ箱のように見える「パネルブロックの5階建て住宅」が登場しました。
これが悪評名高い「フルシチョフの5階建て」と呼ばれる建物です。
どれも同じ外観をしており、同じようにエレベータがなく、壁も薄くて住み心地が悪く、まるでバラックのような建物です。こうしたバラックのような、マッチ箱のような住居が、広大なソ連を一挙に埋め尽くしました。


(写真はこちらから)

続くブレジネフ時代には、5階建てではなく、階数は20階くらいまであるのですが、品質は「フルシチョフの5階建て」に負けないくらい劣悪な建物が出現します。


(写真はこちらから)

こうして、ペレストロイカが始まる1985年頃までの約30年間、建築家が建築家であることを禁じられる時代が訪れ、ロシアからは実質「建築家」が消滅することになるのです。

ソ連が崩壊した後、「フルシチョフの5階建て」は次から次へと壊され、モスクワにはもうほとんど残っていませんが、地方に行きますと今でもそのぼろぼろになった残骸が残っています。


■昨日のの答え=・・・Карате・・・カラテ(空手)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Сакура

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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スターリン・ゴシック様式

2010-04-26 | ★その他もろもろ★
ところで、本ブログの4月3日の記事でとりあげたホームズとワトソンの記念像ですが、二人で仲良くモスクワ川の方を向いています。



川の向こう岸に尖塔のようなものが見えますが、これは、ウクライナホテルです。
ウクライナホテルは、すそ広がりの高層ビルで、どことなくヨーロッパの教会を彷彿させる厳かさを持っています。

このウクライナホテルと同じ様式の建造物が、モスクワに7つ、そしてラトビアの首都リガと、ポーランドの首都ワルシャワにそれぞれひとつずつあります。
これら一連の建物は、1940年―1953年のスターリンの時代後半に建てられたもので<スターリン時代の高層ビル>と呼ばれています。

当初は、1947年のモスクワ建都800周年記念祭に合わせて、モスクワに8つ、この種の<スターリン時代の高層ビル>が建てられる予定になっていましたが、予算不足で最終的に7つとなりました。
8つ目のビルの基盤の上に、後にヨーロッパ最大、客室が5000室もあったロシアホテルが建てられました。
従って現存しているものは7つです。

27階建てのロシア連邦外務省(トップの写真)
36階建ての国立モスクワ大学本館(下の写真)



29階建てのウクライナホテル
17階建てのレニングラードホテル
24階建てのソ連時代交通建設省他が入っていた高層ビル
そしてそれぞれ26階建てと、22階建てのアパートです。(下の写真)



最近、<スターリン時代の高層ビル>を模倣して建てられた超高級マンションがモスクワの北部、ちょうどシェレメーティエボ国際空港からモスクワ市内に入る途中にできました。こちらは52階建てです。


(写真はこちらから)

36階建ての国立モスクワ大学本館は、1949年から1953年にかけて建設された、高さ235メートルを誇る建物で、27の建物群よりなるモスクワ大学の一部を形成しています。
この本館には、機械・数学部、地質学部、地理学部、学事部、図書館、博物館、1500人を収容できる大講堂が入っています。両サイドの張り出し部には、学生たちのための学生寮や、教授や講師陣のためのアパートが入っています。

ちなみにモスクワ大学の本館には、地下三階に、秘密の地下防空壕と<メトロ2>と呼ばれる秘密の地下鉄につながる廻廊があるという話しです。

モスクワ大学や、外務省、そしてウクライナホテルといったような<スターリン時代の高層ビル>は、ある意味ではスターリン時代に顕著に見られた世界初の社会主義国家ソ連の威厳をかけた厳かで仰々しい建築様式のピークとなりました。

■昨日のの答え=・・・Васаби・・・ワサビ(わさび)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Карате

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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偉大な教育者グネーシナ像

2010-04-25 | ★音楽★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通り。
作家ブーニンの記念像を越えた辺り、アルバート通りを背にした右手には、モスクワ音楽院、ペテルブルク音楽院と並んでロシアの音楽教育の中核を成す三大名門高等音楽大学のひとつである、グネーシン記念ロシア音楽アカデミーが位置しています。

路地に入ったところから、トップの写真のような「女性がピアノを弾いている記念像」が見えますので、すぐに判るでしょう。
この女性は、エレーナ・ファビアーノヴナ・グネーシナ(1874-1967)で、ロシアの音楽教育に多大な貢献をした偉大な教育者です。

現在モスクワには幾つかの「グネーシン」関連の教育機関が存在します。
●子供たちが普通学校に通いながら並行して音楽を学ぶ7年制の音楽学校。
●際立った音楽的才能を持つ子供のために設立された音楽以外の一般教養科目をカリキュラムに含む10年制の中等音楽専門学校。
●そして音楽アカデミーと呼ばれる音楽専門大学・大学院とその付属高校。

こうした一連の「グネーシン記念」の音楽教育機関の中核を作ったのがこのエレーナ・ファビアーノヴナ・グネーシナと、姉妹たちです。
グネーシン家の9人の兄弟の内、長男と次男を除く、実に7人までもが音楽家となり、ロシア音楽の伝統づくりに貢献したことは驚くべきことです。

グネーシン記念ロシア音楽アカデミーや、モスクワ市立グネーシン記念中等音楽専門学校は日本を含め世界的非常によく知られていますが、その土台を作った「グネーシン家の人々」については、日本ではあまり知られていません。

グネーシン記念ロシア音楽アカデミーの講師であれグネーシン記念博物館館長を務めるヴラジーミル・トロップ(ジュニア)が、とても簡潔でわかりやすくこの「グネーシン家の人々」をまとめていますので、引用しながらご紹介したいと思います。


(グネーシン姉妹の写真はこちらから。左からオリガ、エレーナ、エフゲニア、マリア、エリザヴェータ)

(1) 長女エフゲニア(1870-1940)は、幼い頃から音楽的天分に恵まれ、13歳の時モスクワ音楽院の前期課程に入学しました。(当時モスクワ音楽院は前期と後期課程にわかれており、前期課程は今日の中学、高校に相当します)。
やがて後期課程に進学した彼女は著名な音楽家、スクリャービン、メトネル等の先生でもあり、更にはモスクワ音楽院の大ホールを設立した学長としても知られるV.I.サフォーノフのクラスに入り、めきめきと頭角を表してきます。
エフゲニアはサフォーノフ教授の最もお気に入りの学生の一人であったばかりでなく、タネーエフやアレンスキー等、他の学科の教授たちからも才能豊かな学生として可愛がられていました。
ちなみに彼女はモスクワ音楽院でピアノ科と作曲科という二つの学科に同時に所属し、卒業した最初の女子学生となりました。
エフゲニアはまた、音楽だけではなく演劇や文学など、他の芸術分野にも造詣が深く、幅広い交友関係を持っていました。そうした人々の中にはロシア・ソ連演劇の基礎を作ったK.S.スタニスラフスキーなどがいます。
しかし彼女が最も大きな熱意を注いだのは、何といっても「教育」でした。彼女はグネーシン音楽高校の先導者となり、ピアノ、音楽理論、そしてコーラスなどの教科で教鞭をとり、45年間にわたって若い才能の育成に努めました。エフゲニア・サヴィーナ=グネーシナのクラスからは、「グネーシン」の名を最初に有名にしたニコライ・オルロフが出ています。

(2) 次女エレーナ(1874-1967)は、物静かな姉エフゲニアとは対照的な、いたずら好きで活発な女の子として育ちました。階段を勢いよく駆け下り、かのチャイコフスキーおじさんと正面衝突し、チャイコフスキーに優しく微笑まれた思い出は、死ぬまでエレーナの心の中に残っていたようです。
エレーナはエフゲニアと同様に、音楽院でサフォーノフ教授のクラスで学び、最優等の成績で卒業しました。また、ロシアに一年間教えに来ていたF.ブゾーニのもとでも学び、大変高い評価を受けました。ブゾーニは演奏家としての彼女に大きな期待を寄せ、海外に出ることを強く勧めていましたが、彼女自身の興味は世界的に有名な演奏家となることよりも、姉エフゲニアと同じようにひたすら「教育」の方に向いていました。「教えること」-それを彼女は自分の使命、天職であると認識し、それに全身全霊没頭したのです。
72年間にわたり名実ともに一連のグネーシン記念音楽教育機関の中核的存在であったエレーナは、大変優れたピアノ教師であり、そのクラスからは膨大な数の世界的なピアニストが世に出ています。
彼女の愛弟子レフ・オボーリンは、ロシアのピアニズムの伝統を全世界に知らしめた先駆的なピアニストの一人となりました。
このように、ピアノ教師として活躍しながら同時に彼女は子供のための練習曲を次から次へと作曲し、更には学校運営に関する諸問題の処理にも代表者となって精力的に取り組みました。第二次世界大戦前後の最も苦しい時期、スターリン時代 … ある時は楯となり、そしてある時は矛となって時の勢力と渡り合い、学校とそこで学ぶ子供たち、教師陣を彼女は体を張って守り抜こうとしました。

(3) 三女マリア(1876-1918)は、とても女性的で物腰が柔らかく、優しい女性でした。彼女は、姉たちと同じようモスクワ音楽院のピアノ科を卒業した後教師となり、とりわけ幼い子供たちに対する教育で際立った手腕を見せました。また造形芸術にも優れた才能を見せ、そのアプリケ細工は高い評価を得ています。
 
(4) 四女エリザヴェータ(1879-1953)は他の姉妹とは異なり、ピアノではなくバイオリンが専門で、当時音楽院で最も優れたバイオリンの教授として名高かったI.V.グリジェマリの門下生でした。彼女は音楽院卒業後、姉たちの活動に加わり51年間教鞭をとっています。弦楽器部門の発展に一方ならなぬ貢献をしました。
また、エリザヴェータはグネーシン姉妹の中で唯一子供を残した人です。その長男アレクサンドルは、天才的な音楽素養を持っていましたが、残念ながら幼少の頃に亡くなりました。次男ファビー・ヴィタチェック(1910-1983)は、作曲家となって活躍するのと同時に、グネーシン大学の教授として若い音楽家たちの育成に努めました。ちなみにエリザヴェータの夫E.F.ヴィタチェックは、「ロシアのストラディヴァーリ」の異名を持つほど有名な弦楽器製作者でした。

(5) 五女オリガ(1881-1963)は姉エレーナのもとで学び、グネーシン音楽カレッジの最初の卒業生となりました。彼女はその後60年間、グネーシン関連の教育機関でピアノを教え続けました。

(6) 三男ミハイル(1883-1957)は、ペテルブルク音楽院でリムスキー=コルサコフから作曲を学び、ロシアの代表的な若手作曲家の一人となりました。当時ミハイルは、同輩のストラヴィンスキーとともにリムスキー=コルサコフ門下のスター的存在でした。ロシア象徴派の詩人たちと深くつながっていた彼は、バリモント、ブローク、ソログープなどの詩人たちの詩に曲をつけています。そしてその作品はパブロ・カザルスやアレクサンドル・ジロッティーのような時代を代表する演奏家たちによって演奏されています。
正義感が強く、社会問題にも無関心ではいられなかった彼は、グネーシン大学で教え始めた後教育活動に全力を注ぐようになり、自らの創作からは少し離れるようになります。彼の代表的な教え子としてはハチトゥリャン、フレーニコフ等の作曲家などが挙げられるでしょう。

(7) 四男グレゴリー(1884-1938)の運命は最も波乱にとんだ、悲劇的なものとなりました。グレゴリーは才能豊かな歌手、素晴らしい俳優、優れた文学者として注目を集めていました。1905年のロシア第一次革命の後、革命運動に身を投じた彼はそれによって他の兄弟姉妹たちのようにきちんとした音楽教育を受けることはできませんでしたが、その音楽的天分は疑いようもなく、独特な花を咲かせました。冒険好きの彼は、憧れの国イタリアを恰も吟遊詩人であるかのように歌いながら旅してまわり、『吟遊詩人の思い出』というロマン主義的な小説を書いています。
その後グレゴリーはペテルブルク・レニングラードで役者、作家として活躍しましたが、スターリンの厳粛時代に他の多くの文化人と同様、理由もなく逮捕をされ、処刑されてしまいました。

以上が、音楽に携わってきた「グネーシン家の人々」の簡単なプロフィールです。

グネーシン記念ロシア音楽アカデミーの講師・グネーシン記念博物館館長のヴラジーミル・トロップ(ジュニア)氏についてはグネーシン記念ロシア音楽アカデミー(大学)教員データベースのこちらへどうぞ。

■昨日のの答え=・・・Дзэн・・・ゼン(禅)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Васаби

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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レオニード・クラーシンの記念板

2010-04-24 | ★歴史★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通り。
アゼルバイジャン出身の政治家ナリマノフの記念板の横に、レオニード・クラーシン(1870-1926)の記念板があります。

レオニード・クラーシンは革命家で、ボリシェヴィキの「海外貿易委員」。
革命によって西欧との関係が断絶したボリシェヴィキ・ロシアと西欧との貿易関係復興に務めた人物です。
1926年、ソ連全権代表としてイギリスに駐在中に、ロンドンで客死しました。


(写真はこちらから)

レーニンを崇拝しており、レーニンが亡くなった時、葬儀委員の一人を務めています。
クラーシンは、科学の進歩によって「復活」が実現することを心底信じていたと思われるふしがあり、崇拝するレーニンの遺体に防腐処理を施し「レーニン廟」において保存することを発案したことでも知られています。

また、いわゆる「西側とビジネスをすることができた珍しいボリシェヴィキ」としても知られています。
ジャーナリストのアバリノフさんはその一例として、自国においても豊富な森林を持っているカナダにソ連から木材を輸出する契約をクラーシンが結んだことを挙げています。
(シベリアに収容されている政治犯を使って作業しているため、超低価格の木材輸出を実現することが可能となっていた・・・。)

■昨日のの答え=・・・Якудза・・・ヤクザ(ヤクザ)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Дзэн

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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作家・政治家ナリマノフの記念板

2010-04-23 | ★歴史★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通りには数多くの記念板があります。
トップの写真は、その内のひとつ。
ソ連時代に活躍したアゼルバイジャン出身の作家・政治家ナリマン・ナリマノフNariman Karbalayi Najaf oglu Narimanov (1870-1925)のものです。


(写真はこちらから)

トビリシの貧しいアゼルバイジャン系家庭に生まれ、革命運動に加わり、大成してソビエト社会主義共和国連邦を構成する共和国のひとつであるアゼルバイジャン共和国の代表になっています。
1925年、ポワルスカヤ通りの自宅で、心臓発作のため亡くなりましたが、一説によると「毒殺」されたとか。

記念板に彫りこんである文字が「東洋」的なのが、アゼルバイジャンっぽくてユニークです。

■昨日のの答え=・・・Якудза・・・ヤクザ(ヤクザ)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Дзэн

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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ノーベル賞作家ブーニンの像

2010-04-22 | ★文学★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通り。
リトアニア生まれの象徴派詩人バルトルシャイティスの記念板があるすぐ近くに、もう一枚、記念板があります。



没落貴族の息子で、ロシア初のノーベル賞作家(1933年にノーベル文学賞受賞)イワン・ブーニンの記念板です。
向かい側の公園には、なかなか雰囲気のあるブーニンの記念像も設置されています。

ブーニンは、ロシア銀の時代に活躍した小説家ですが、いわゆる「象徴主義」「印象主義」「未来派」といった、詩人達を中心に形成されていた文学潮流には属さず、チェーホフやトルストイなどと同様に、独立した存在として活動していました。


(写真はこちらから)

ロシア革命後はフランスに亡命し、パリで著作活動を続け(作品はロシア語で書き続けました)、1953年パリで客死しました。
帝政ロシアの貴族・知識層を中心として、いわゆる「ロシアからの第1次亡命世代」の代表者でもあります。

1929―1954年まで、ブーニンの作品はソ連では「禁書」という扱いを受けており、一切出版されることがありませんでしたが、「禁書」のレッテルがとれて出版されるようになると、一挙に「最も沢山出版され、最も沢山読まれる」大人気の作家という扱いを受けるようになります。

ブーニンは文体の名人だと言われており、シャープで的確な表現には定評があります。その短編など、ロシア語を勉強している人には是非原文で読まれることをお勧めします。

■昨日のの答え=・・・Цунами・・・ツナミ(津波)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Якудза

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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象徴派詩人バルトルシャイティス

2010-04-21 | ★文学★
リトアニアといえば、チュルリョーニスと並んでロシアで有名なのが、19世紀末~20世紀初頭の「ロシア銀の時代」の象徴派詩人ユルギス・バルトルシャイティス(1873-1944)です。

バルトルシャイティスの記念板が、モスクワの中心アルバート地区のポワルスカヤ通りにあります。


(写真はこちらから)

リトアニア生まれのバルトルシャイティスですが、モスクワ大学の物理数学科で学んでいる間にバリモント、ブリューソフ、そして作曲家のスクリャービンらと親交を結び、初期ロシア象徴主義の潮流に加わることになります。
詩はロシア語で書いています。

1917年のロシア革命後、そしてリトアニアがロシア帝国から独立してリトアニア共和国となった際、リトアニア大使としてモスクワに駐在し、赤軍に追われている数多くのロシア知識層の、国外脱出を助けたことでも、その功績は大きいです。

1939年にモスクワからリトアニア大使館の参事官としてパリに駐在し、パリで亡くなっています。

■昨日のの答え=・・・Судоку・・・スドク(数独)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Цунами

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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ゲディミナス通りの魅力

2010-04-20 | 番外編 ★ロシア以外★
ヴィルニュスのメインストリートである美しいゲディミナス通りには、科学アカデミー、高等裁判所、音楽・演劇アカデミー、国立銀行、セイマス(国会)、中央郵便局などが軒並み連立しています。

大聖堂を背にゲディミナス通りをあがっていくと、ゲディミナス通りとヴィルニャウス通りが交差している建物に、興味深い記念板があります。
ここでスラジャヴィチュス首相が1918年に第2政府を発足させ、独立への道を築いたとか。



それから、優美な雰囲気のゲディミナス通りには何となく不釣合いな重厚な感じの女性像。こちらは、リトアニアの女流作家・劇作家ユリヤ・ジェマイテ女史(1845-1921)の像です。リトアニアの農村や家庭生活の現実を描いた社会派作家だとか。リトアニアで唯一「紙幣」(今はもう硬貨になっていますが)1リト紙幣に使用されていたようです。
少しばかり「異空間」な感じがします。



そして、こちらはリトアニア国歌に採用されている国民賛歌の作詞・作曲を手がけたリトアニアの作曲家兼詩人であるヴィンツァス・クディルカ(1858-1899)の像。元々は医師でした。
クディルカが作詞・作曲をした『国民賛歌』は、1919年にリトアニア国歌に採用され、ソ連から独立した1990年に再びリトアニアの国歌となっています。



また、高等裁判所の壁面と歩道には、ソ連時代の厳粛の犠牲となった人々に捧げられた記念板、そしてメモリアル・モニュメントが設置されています。



歴史的な意味を持つ記念板や記念像に混じって、ローラースケートをはいた天使や、



めがねをかけたドーベルマンなど、リトアニアの首都のメインストリートであるゲディミナス通りには魅力的な遊び心が一杯つまっています。



■昨日のの答え=・・・Катана・・・カタナ(刀)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Судоку

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

ヴィルニュスの大聖堂

2010-04-19 | 番外編 ★ロシア以外★
リトアニアの首都ヴィルニュスの中心にある、古典様式・白亜の美しい大聖堂は、ソ連時代ギャラリー、コンサートホールとして利用されていたようです。
しかしペレストロイカがはじまった1985年から毎週1度のミサが許されるようになり、1989年に正式に聖堂としてのステータスを取り戻します。
1993年にはローマ法王ヨハネ・パウロII世もこの大聖堂でミサをあげたとのことです。

大聖堂前広場にある像は、中世リトアニア大公国の君主ゲディミナス大公(1275-1341)のものです。



広場から直線上にのびるしっとりとした雰囲気のある通りは、メインストリートのゲディミナス通り。
両サイドに並ぶ優美な建造物には、ふと目を凝らすと記念板が設置されていたり、面白い彫り物があったり・・・。
ゲディミナス通りをぷらぷら歩くだけで、充分落ち着いたバルトの香に触れることができるでしょう。

リトアニア科学アカデミーの建物には、ソ連時代に活躍したリトアニアの偉大な化学者ユオジス・マトゥリス博士の記念板が設置されています。マトゥリス博士は長年にわたってこの建物、即ちリトアニア共和国科学アカデミーの会長をしていました。



そして車道を挟んだ向かい側には、『マクベス』の魔女たちを思わせる3人の女性像が印象的な演劇劇場があります。



■昨日のの答え=・・・Иваси・・・イワシ(鰯)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Катана

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

ピレス通りの記念板

2010-04-18 | 番外編 ★ロシア以外★
リトアニアの首都ヴィルニュスの旧市街は、中世の香が漂うとてもロマンチックで美しい一角です。
石畳の通り、教会とお洒落なカフェ。



そうした旧市街のメインストリートとでも言うのでしょうか、ピレス通りで見つけた記念板。



リトアニアの有名な歌謡曲歌手アンタナス・シャバニャウスカスとウクライナの国民詩人タラス・シェフチェンコの記念板です。
シェフチェンコはヴィルニュスのこの家に、1829年から1830年にかけて住んでいたそうです。

■昨日のの答え=・・・Бонсай・・・ボンサイ(盆栽)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Иваси

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

アイボリート先生の記念像

2010-04-17 | 番外編 ★ロシア以外★
このブログの2009年11月15日の記事でも取り上げた、ロシア・ソ連時代の有名な児童文学作家コルネイ・チュコフスキーの代表作のひとつに、『ドクトル・アイボリート(直訳すると「ああ!痛い!」先生)』という獣医さんの話しがあります。
今でも頻繁に『ドクトル・アイボリート』のアニメがテレビで放映されたりしている、大人気のお話です。

このアイボリート先生のモデルとなったのが、ヴィルニュスに住んでいたユダヤ人医師のツェマフ・シャバッド先生。
チュコフスキーはヴィルニュス訪問の際、1905年と1912年の2回にわたって、このツェマフ・シャバッド先生の自宅に泊まり、親しく交流したそうです。

アイボリート先生のモデルとして、2007年、ヴィルニュスにツェマフ・シャバッド先生の像が設置されました。
ちなみにトップの写真、女の子が腕に抱えているのは小さな子猫です。

■昨日のの答え=・・・Татами・・・タタミ(畳)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Бонсай

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます

リトアニア初のオペラ『ベルーチェ』

2010-04-16 | 番外編 ★ロシア以外★
ちなみに、リトアニアの名門国立フィルハーモニーですが、この舞台で1906年、リトアニア初のオペラ『ベルーチェ』(ペトラウスカス作曲)が初演を迎えました。原作はリトアニアの戯曲家ランズベルギス=ジャンカルニスです。


(ヴィルニュスにある戯曲家ランズベルギス=ジャンカルニスの家に設置された記念板)

戯曲家ガブリエリュス・ランズベルギス=ジャンカルニス(Gabrielius Landsbergis-Žemkalnis)は、リトアニアを代表する戯曲家の一人で、リトアニア民族復興運動の積極的な活動家の一人でもあったようです。

ガブリエリュス・ランズベルギス=ジャンカルニスの息子ヴィータウタス・ランズベルギス=ジャンカルニスはリトアニアの著名な建築家。

そしてそのまた息子(つまりガブリエリュスの孫)ヴィータウタス・ランズベルギスは、リトアニア独立運動の指導者で、ソ連崩壊後、独立国家となったリトアニア共和国の国会議長つまり初代国家元首となった人です。
ちなみにリトアニアの初代国家元首となったランズベルギス氏は元々音楽学者で、リトアニアの天才チュルリョーニスの研究者としても世界的に知られています。

■昨日のの答え=・・・Ниндзя・・・ニンジャ(忍者)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Татами

(答えは・・・明日のお楽しみ)

チュルリョーニスの美しいピアノ作品op.20-3はこちらから視聴できます