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ロベルティーノ・ロレッティ

2010-06-05 | ★音楽★
ロシアではソ連時代からフランスやイタリアのカンツォーネ、シャンソン、ポップスが人気あります。
今でも基本的にその流れは変わらないようです。
ソ連時代に大ブレイクしたフランスやイタリアの歌手たちを、少し列挙したいと思います。
きっと、今のロシアン・ポップスの傾向がわかりやすくなると思います。

まず最初にあげたいのが、1960年代に爆発的にブレイクしたボーイソプラノの歌手ロベルティーノ・ロレッティ Robertino Loretti の存在です。

8人兄弟の貧しい家庭に生まれ、6歳から教会の聖歌隊で歌っていた少年ロベルティーノ。10歳の時、お父さんが病気になったため、働きながら歌い続け、ローマオリンピックの時、たまたま彼の歌をカフェで聞いたデンマークのプロデューサーに見いだされ、プロの歌手として本格的な活動をはじめ、瞬く間に一斉を風靡します。
ロベルティーノ少年、ソ連でも熱狂的な人気を集めました。

声変わりとともにその人気も衰えてきますが、今でもロシアで「ロベルティーノ」は、永遠に愛されるアイドルのままのようです。
(トップの写真はこちらから)

YouTubeで美しいロベルティーノのアヴェ・マリアが楽しめます。興味のある方はこちらへどうぞ

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ビートルズはソ連に来た?

2010-05-31 | ★音楽★
ソ連時代、西側から入ってくるポップス系の音楽としては、英米勢よりも、イタリア、フランス、ドイツなどの大陸系ヨーロッパ勢が圧倒的に強かったと書きましたが、・・・とは言っても、勿論ビードルズ、ローリング・ストーンズもソ連の若者には絶大な影響を与えています。
1960年代以降、所謂「ロシア・ロック」の潮流を作ったのは、やはり何といってもこの二つの英国出身のバンドでしょう。

ビードルズもローリング・ストーンズもソビエト政権からは嫌われていました。
大々的に反ビートルズ、反ローリング・ストーンズのキャンペーンも展開されていたようですが、どんなに禁止しても「禁止できないもの」というのはあるのでしょう。むしろ、禁止すればするほど、ソ連の若者にたいするビードルズやローリング・ストーンズのカリスマ的な影響力は高まっていったようです。
ちなみにビートルズの曲は、BBCラジオから入ってきました。
当時BBCの放送はソ連の当局によって電波妨害されていたのですが、それでも音楽番組は比較的妨害が少なく、雑音の中から漏れ聞こえるビートルズの曲をカセットテープに録音して聴いたり・・・というパターンで広まっていったようです。

ソ連の「ビートルズファン」は、生で彼らの公演を聴きたいと切望していました。実際にはそのファンの夢は叶わなかったのですが、あまりにもその「夢」が大きく、ついには色々なビートルズにまつわる噂を生むことになります。

その内の最も根強いもののひとつが、「実はビートルズはトランジットで通過したシェレメーティボ空港で密かに演奏したことがある」というもの。
この話、未だに信じているロシアの人が結構います。

トップの写真は旧ソ連15共和国のひとつ、中央アジアの大国「カザフスタン」のアルマティにあるビートルズの記念像。
写真はこちらからです。

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BACCARA(バッカラ)

2010-05-30 | ★音楽★
「鉄のカーテン」で仕切られた謎の国ソ連・・・。
ソ連時代アメリカやヨーロッパのサブカルチャーはまったく入らない鎖国状態だった、と誤解されることが多いようですが、実際には、政治色がなければ禁止されることなくボニーMやABBAの大ブームに見られるようにソ連の人々に受け入れられ、ソ連発生のサブカルチャーにも絶大な影響を与えています。

とりわけ、地理的なこと、イデオロギー的なこともあるのでしょうが、同じ「ポップス」でも英米のものよりも、イタリア、フランス、ドイツなどヨーロッパのものが入りやすい土壌だったようです。

例えば、1970年代後半、ソ連で爆発的に人気が出たのがスペイン出身の女性デュオ BACCARA(バッカラ)。
日本ではあまり知られていないと思いますが、代表曲の「Yes, Sir, I Can Boogie」などヨーロッパで大ブレークをし、ドイツで8週連続、スイスで7週連続、そしてスウェーデンにいたっては20週連続ヒットチャート1位の座を守ったという伝説のデュオ。
ソ連でも、ボニーM、ABBAと並んで1970年代後半のソ連のサブカルチャーに影響を与えた二人組として語られることが多いです。

YouTubeに動画がアップロードされています。興味のある方はこちらへどうぞ。
トップの写真はこちらからです。

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ABBA

2010-05-29 | ★音楽★
旧ソ連で人気のあった西側の音楽といえば、もうひとつ絶対に忘れてはいけないのが、勿論、ABBA の存在です。
1972年から1982年までの間活躍した、スウェーデン出身の伝説のグループABBA。
あの「鉄カーテンの向こうの国=ソ連」でも、ABBA人気は凄まじいものがありました。

ABBAはボニーMと違って、旧ソ連で公演を行っていませんが(ソ連政府はABBA大歓迎ムードでしたが、ABBA自体が忙しすぎたようです。1979年にモスクワツアーが予定されていたようですが、それも新アルバムの収録のために実現しなかったとのこと)、正規のルートで販売されていたレコードやカセットテープは旧ソ連中に溢れ、またソ連の人々スクリーン映像を通してABBAに触れていました。

ソ連で流行した西側の音楽のトップを挙げろと言われたら、誰もが間違いなくこのABBAを挙げることでしょう。
今でもよくラジオなどでABBAのヒット曲がかかります。

トップの写真はこちらから。

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ジンギスカンの『ジンギスカン』

2010-05-28 | ★音楽★
ボニーMの他に、『ジンギスカン』Dschinghis Khan や『めざせモスクワ』Moskau などの世界的な大ヒット曲で有名な西ドイツ出身のグループ「ジンギスカン」も、ソ連でとても流行しました。
YouTubeにアップロードされている上記2曲、こちらから聴けます。

もっともソ連政府から公認されていたボニーMと違って、グループ「ジンギスカン」はソ連では「禁止」されていたグループでした。
従ってアルバムなども販売されていませんでしたし、テレビでの放映などもなかったのですが、それでも「人」から「人」へとダビングテープが裏で出回り、大ブームになっていました。
だからこのグループの「見た目」は誰も知らなかったとのこと。

「楽曲」だけではなく、実際にジンギスカンがロシアの地に到来したのは・・・2005年。モスクワでの公演で、ロシアの人々は長年待ち続けた「ジンギスカン」の歌声をやっと生で聴くことができたのです。

(トップの写真はこちらから)

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ボニーM

2010-05-27 | ★音楽★
ところで「ポップス」「西側の流行」ということであれば、筆頭クラスは・・・何と言っても1970年代に世界中にボニーM(Boney M.)旋風を巻き起こした西ドイツ出身のディスコバンドが挙げられます。
『怪僧ラスプーチン』などの名曲で、日本でもよく知られているグループです。

ソ連が「鉄カーテン」の向こう側にある国だった頃、その「鉄カーテン」を「ぶち破って」はじめて大々的なツアー公演を行うことが許された最初の西側のポップスアーチストが、このボニーMでした。

1978年、当時のブレジネフ書記長直々の許可を得て、ボニーMはロンドンからモスクワにソ連から派遣された「特別機」で入ったそうです。
当時ポップス系の舞台として最も由緒あるものとされていたのが、ロシアホテルの中にあるホールだったのですが(日本でいう「武道館ホール」のようなものでしょうか)、そこでボニーMは10回公演を行っています。

その時の闇チケットの価格は、ソ連の人々の、平均月給の三倍の額まで達したとのこと。
しかもそれでも瞬時に完売。
また、メロディア社はボニーMのアルバムを10万部発売したのですが、それも瞬く間に完売してしまったそうです。

ボニーMはこの時、クレムリン前の赤の広場で、西側のバンドとしてはじめて、ビデオクリップを撮影することを許されました。


(写真はこちらから)

この歴史的な1978年のボニーM、12月ロシア公演の模様は、YouTubeにアップロードされている『怪僧ラスプーチン』のクリップで観ることができます。

ちなみに1978年のモスクワ公演では『怪僧ラスプーチン』を演奏されなかったようです(歌詞の最後に出てくる”Oh, those russians…”という表現がひっかかったとのこと)。

ボニーMは、1986年に正式に解散宣言を行っていますが、実際にはその後もメンバーのそれぞれがボニーMを名乗って活動を続けていたようです。
そして、2006年にはボニーMの結成30周年記念CDアルバム”The Magic of Boney M ”を発売して、それが世界的な大ヒットになりました。

2007年、2009年にモスクワやペテルブルクで大きなコンサートが開催されるほど、ロシアでは今でもボニーM人気、根強いものがあります。

(トップの写真はこちらから)

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『恋のバカンス』

2010-05-25 | ★音楽★
1970年代は日ソ合作映画の全盛時代でしたが、ソ連における「日本ブーム」の兆しは、1960年代にもありました。その火付け役となったのが、1963年に日本で大ヒットしたザ・ピーナツの歌謡曲『恋のバカンス』です。

1963年に日本でリリースされたザ・ピーナツの『恋のバカンス』ですが、フランス出身のドイツ人歌手カテリーナ・ワレンテ経由でまずヨーロッパを魅了し、最終的にアメリカに到達する、というルートを経ています。
一方ソ連へは、ウィキペディアによれば、ソ連国家テレビラジオ委員会(ゴステレラジオ、国営放送局)のヴラジーミル・ツヴェートフ東京特派員が気に入り、ソ連本国に持ち込んだとのこと。
もっともドイツから東欧、そしてソ連へ、という話しも聞いたことがあります。

いずれにせよ、1964年には既にソ連本国で「有名な曲」となっており、1965年には法律家であり詩人でもあった作詞家レオニード・テルベニョフ Леонид Дербенёвがロシア語の歌詞『海辺にて、青い海辺にて』«У моря, у синего моря»をつけたこの曲を、当時ソ連で人気があった歌手ニーナ・パンテレーエワ Нина Пантелеева が歌って大ブレイクしました。


(ニーナ・パンテレーエワが歌うロシア語版『恋のバカンス Каникулы любви』を聴いてみたい方は、こちらへどうぞ。
写真はこちらから。)

それもモスクワやレニングラード(現ペテルブルク)だけではなく、遥か彼方中央アジアのウズベキスタン(当時はソビエト社会主義共和国連邦を構成する15共和国のひとつ)でも、エリエール・イシムハメドフ監督 Эльер Ишмухамедов の『優しさ』«Нежность»(1966)という映画の主題曲に使用され、映画が大ブレイクした「主な要因」になったとまで言われているのです。
映画『優しさ』の中の『恋のバカンス』の場面・・・YouTubeにアップロードされています。こちらへどうぞ。

(トップのザ・ピーナツの写真はこちらからです)

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偉大な教育者グネーシナ像

2010-04-25 | ★音楽★
モスクワの中心、アルバート地区のポワルスカヤ通り。
作家ブーニンの記念像を越えた辺り、アルバート通りを背にした右手には、モスクワ音楽院、ペテルブルク音楽院と並んでロシアの音楽教育の中核を成す三大名門高等音楽大学のひとつである、グネーシン記念ロシア音楽アカデミーが位置しています。

路地に入ったところから、トップの写真のような「女性がピアノを弾いている記念像」が見えますので、すぐに判るでしょう。
この女性は、エレーナ・ファビアーノヴナ・グネーシナ(1874-1967)で、ロシアの音楽教育に多大な貢献をした偉大な教育者です。

現在モスクワには幾つかの「グネーシン」関連の教育機関が存在します。
●子供たちが普通学校に通いながら並行して音楽を学ぶ7年制の音楽学校。
●際立った音楽的才能を持つ子供のために設立された音楽以外の一般教養科目をカリキュラムに含む10年制の中等音楽専門学校。
●そして音楽アカデミーと呼ばれる音楽専門大学・大学院とその付属高校。

こうした一連の「グネーシン記念」の音楽教育機関の中核を作ったのがこのエレーナ・ファビアーノヴナ・グネーシナと、姉妹たちです。
グネーシン家の9人の兄弟の内、長男と次男を除く、実に7人までもが音楽家となり、ロシア音楽の伝統づくりに貢献したことは驚くべきことです。

グネーシン記念ロシア音楽アカデミーや、モスクワ市立グネーシン記念中等音楽専門学校は日本を含め世界的非常によく知られていますが、その土台を作った「グネーシン家の人々」については、日本ではあまり知られていません。

グネーシン記念ロシア音楽アカデミーの講師であれグネーシン記念博物館館長を務めるヴラジーミル・トロップ(ジュニア)が、とても簡潔でわかりやすくこの「グネーシン家の人々」をまとめていますので、引用しながらご紹介したいと思います。


(グネーシン姉妹の写真はこちらから。左からオリガ、エレーナ、エフゲニア、マリア、エリザヴェータ)

(1) 長女エフゲニア(1870-1940)は、幼い頃から音楽的天分に恵まれ、13歳の時モスクワ音楽院の前期課程に入学しました。(当時モスクワ音楽院は前期と後期課程にわかれており、前期課程は今日の中学、高校に相当します)。
やがて後期課程に進学した彼女は著名な音楽家、スクリャービン、メトネル等の先生でもあり、更にはモスクワ音楽院の大ホールを設立した学長としても知られるV.I.サフォーノフのクラスに入り、めきめきと頭角を表してきます。
エフゲニアはサフォーノフ教授の最もお気に入りの学生の一人であったばかりでなく、タネーエフやアレンスキー等、他の学科の教授たちからも才能豊かな学生として可愛がられていました。
ちなみに彼女はモスクワ音楽院でピアノ科と作曲科という二つの学科に同時に所属し、卒業した最初の女子学生となりました。
エフゲニアはまた、音楽だけではなく演劇や文学など、他の芸術分野にも造詣が深く、幅広い交友関係を持っていました。そうした人々の中にはロシア・ソ連演劇の基礎を作ったK.S.スタニスラフスキーなどがいます。
しかし彼女が最も大きな熱意を注いだのは、何といっても「教育」でした。彼女はグネーシン音楽高校の先導者となり、ピアノ、音楽理論、そしてコーラスなどの教科で教鞭をとり、45年間にわたって若い才能の育成に努めました。エフゲニア・サヴィーナ=グネーシナのクラスからは、「グネーシン」の名を最初に有名にしたニコライ・オルロフが出ています。

(2) 次女エレーナ(1874-1967)は、物静かな姉エフゲニアとは対照的な、いたずら好きで活発な女の子として育ちました。階段を勢いよく駆け下り、かのチャイコフスキーおじさんと正面衝突し、チャイコフスキーに優しく微笑まれた思い出は、死ぬまでエレーナの心の中に残っていたようです。
エレーナはエフゲニアと同様に、音楽院でサフォーノフ教授のクラスで学び、最優等の成績で卒業しました。また、ロシアに一年間教えに来ていたF.ブゾーニのもとでも学び、大変高い評価を受けました。ブゾーニは演奏家としての彼女に大きな期待を寄せ、海外に出ることを強く勧めていましたが、彼女自身の興味は世界的に有名な演奏家となることよりも、姉エフゲニアと同じようにひたすら「教育」の方に向いていました。「教えること」-それを彼女は自分の使命、天職であると認識し、それに全身全霊没頭したのです。
72年間にわたり名実ともに一連のグネーシン記念音楽教育機関の中核的存在であったエレーナは、大変優れたピアノ教師であり、そのクラスからは膨大な数の世界的なピアニストが世に出ています。
彼女の愛弟子レフ・オボーリンは、ロシアのピアニズムの伝統を全世界に知らしめた先駆的なピアニストの一人となりました。
このように、ピアノ教師として活躍しながら同時に彼女は子供のための練習曲を次から次へと作曲し、更には学校運営に関する諸問題の処理にも代表者となって精力的に取り組みました。第二次世界大戦前後の最も苦しい時期、スターリン時代 … ある時は楯となり、そしてある時は矛となって時の勢力と渡り合い、学校とそこで学ぶ子供たち、教師陣を彼女は体を張って守り抜こうとしました。

(3) 三女マリア(1876-1918)は、とても女性的で物腰が柔らかく、優しい女性でした。彼女は、姉たちと同じようモスクワ音楽院のピアノ科を卒業した後教師となり、とりわけ幼い子供たちに対する教育で際立った手腕を見せました。また造形芸術にも優れた才能を見せ、そのアプリケ細工は高い評価を得ています。
 
(4) 四女エリザヴェータ(1879-1953)は他の姉妹とは異なり、ピアノではなくバイオリンが専門で、当時音楽院で最も優れたバイオリンの教授として名高かったI.V.グリジェマリの門下生でした。彼女は音楽院卒業後、姉たちの活動に加わり51年間教鞭をとっています。弦楽器部門の発展に一方ならなぬ貢献をしました。
また、エリザヴェータはグネーシン姉妹の中で唯一子供を残した人です。その長男アレクサンドルは、天才的な音楽素養を持っていましたが、残念ながら幼少の頃に亡くなりました。次男ファビー・ヴィタチェック(1910-1983)は、作曲家となって活躍するのと同時に、グネーシン大学の教授として若い音楽家たちの育成に努めました。ちなみにエリザヴェータの夫E.F.ヴィタチェックは、「ロシアのストラディヴァーリ」の異名を持つほど有名な弦楽器製作者でした。

(5) 五女オリガ(1881-1963)は姉エレーナのもとで学び、グネーシン音楽カレッジの最初の卒業生となりました。彼女はその後60年間、グネーシン関連の教育機関でピアノを教え続けました。

(6) 三男ミハイル(1883-1957)は、ペテルブルク音楽院でリムスキー=コルサコフから作曲を学び、ロシアの代表的な若手作曲家の一人となりました。当時ミハイルは、同輩のストラヴィンスキーとともにリムスキー=コルサコフ門下のスター的存在でした。ロシア象徴派の詩人たちと深くつながっていた彼は、バリモント、ブローク、ソログープなどの詩人たちの詩に曲をつけています。そしてその作品はパブロ・カザルスやアレクサンドル・ジロッティーのような時代を代表する演奏家たちによって演奏されています。
正義感が強く、社会問題にも無関心ではいられなかった彼は、グネーシン大学で教え始めた後教育活動に全力を注ぐようになり、自らの創作からは少し離れるようになります。彼の代表的な教え子としてはハチトゥリャン、フレーニコフ等の作曲家などが挙げられるでしょう。

(7) 四男グレゴリー(1884-1938)の運命は最も波乱にとんだ、悲劇的なものとなりました。グレゴリーは才能豊かな歌手、素晴らしい俳優、優れた文学者として注目を集めていました。1905年のロシア第一次革命の後、革命運動に身を投じた彼はそれによって他の兄弟姉妹たちのようにきちんとした音楽教育を受けることはできませんでしたが、その音楽的天分は疑いようもなく、独特な花を咲かせました。冒険好きの彼は、憧れの国イタリアを恰も吟遊詩人であるかのように歌いながら旅してまわり、『吟遊詩人の思い出』というロマン主義的な小説を書いています。
その後グレゴリーはペテルブルク・レニングラードで役者、作家として活躍しましたが、スターリンの厳粛時代に他の多くの文化人と同様、理由もなく逮捕をされ、処刑されてしまいました。

以上が、音楽に携わってきた「グネーシン家の人々」の簡単なプロフィールです。

グネーシン記念ロシア音楽アカデミーの講師・グネーシン記念博物館館長のヴラジーミル・トロップ(ジュニア)氏についてはグネーシン記念ロシア音楽アカデミー(大学)教員データベースのこちらへどうぞ。

■昨日のの答え=・・・Дзэн・・・ゼン(禅)(=日本語からロシア語の中に入って定着した「外来語」です)

■今日の=次の単語を発音してみましょう。
Васаби

(答えは・・・明日のお楽しみ)

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東洋系の反逆児ヴィクトル・ツォイ

2009-12-20 | ★音楽★
観光名所アルバート通りの途中に、クリヴォアルバトスキー横丁があります。
このクリヴォアルバトスキー横丁には色とりどりの落書きがたくさんしてあるクリーム色の外壁があるのですが、これは自然発生的にできたカリスマ歌手ヴィクトル・ツォイの「記念壁」と呼ばれるものです。「ツォイ命!」といったような落書きがたくさんしてあります。

こうしたツォイの記念壁は、モスクワだけではなく、ベラルーシの首都ミンスクにもあります。

1962年、レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)で生まれた韓国系(お父さんが韓国人でお母さんはロシア人)の人気ロック歌手ヴィクトル・ツォイは、1990年8月15日、生前彼が憧れたブルース・リーと同じように交通事故で若くして亡くなりました。
ツォイは、ソ連末期カリスマ的な人気を誇った伝説のロックバンド『キノ』のボーカリストでした。その哀愁をおびた、暗い、でも力強い歌は今でも若者たちに愛され、歌い継がれていますし、ツォイが主演した映画『僕の無事を祈ってくれ』や『針』は、世代を越えた人々の共感を呼んでいます。

毎年、ツォイの誕生日である6月28日と、ツォイが事故死した8月15日、アルバート街のツォイの記念壁の前には、ロシア中からツォイのファンが集まりツォイを偲びます。そしてツォイが事故死した午後1時半から夜まで、『キノ』の歌が鳴り響くのです。
生前もそうであったように、死後20年近くたった今もヴィクトル・ツォイは、ロシアの若者にとって反逆と自由の象徴です。そしてブルース・リーやジェームス・ディーンがそうであるように、永遠に年をとることがない、孤独なヒーローであり続けるのでしょう。

カリスマ歌手イーゴリ・タリコフ

2009-12-19 | ★音楽★
・・・ということで、ヴィソツキー、「キノ」(ヴィクトル・ツォイ)、そしてイーゴリ・タリコフ、と「カリスマ的なロック歌手」達の系譜が続いていくわけですが、タリコフの名曲「ロシア」は、その曲調にしても、歌詞にしても、(好ききらいは別にして)一度聴いたら忘れられない名曲です。歌詞も作曲もイーゴリ・タリコフ自身によるもの。

「ロシア」(動画:6分45秒)
銃殺された将軍が遺した、
古いノートのページをめくりながら
お前(=ロシア)がいったいなぜ自分を
野蛮な連中にボロボロにさせるために身を差し出したのか、
俺は、必死に理解しようと努力した。
時代の奥まった暗い闇の中から
お前は、巨人のように起き上がってきた。
「黄金」のエカテリーナの時代には、お前のペテルブルクは
連隊の気高い勇敢さによって、
敵と敵を仲裁してきた。

ロシアよ!ロシアよ!

黄金の頭をしたモスクワの上を
鐘の響きが
時代の聖なる音楽となって連なり流れる。
しかし、その聖なる音楽の最も小さな音ですら、
誰かにとっては安らぎを乱すものとなったらしい。
そして黄金のドームは、
誰かにとっては眩すぎるものとなったようだ。
お前は、悪の力にとって目障りだった。
そしてどうやら、あまりに目障りとなって頭にきて、
そいつらはお前の目をつぶすことにしたらしい。

ロシアよ!

きしみながら天空が割れ、
その間から叫びをあげ、
教会の頭を切りながら、
そして新たな皇帝を崇めながら、
新しく登場したユダたちが飛び出してきた。
お前は赤い布でがんじがらめに縛られ、
ひざまずくことを余儀なくされた。
死刑執行人の頭上で斧がきらりと光り、
そして宣告を読み上げたのは、
血まみれの皇帝、偉大な・・・天才。

ロシアよ!

銃殺された将軍が遺した
古いノートのページをめくりながら、
お前(=ロシア)がいったいなぜ自分を
野蛮な連中にボロボロにさせるために身を差し出したのか、
俺は必死に理解しようと努力した。
ああ、将軍の古いノートよ、
虐げられた真実の復活よ。
裏切られた世代にとって
お前を読むことが何とつらいことだろう。

ロシアよ!

確かこの曲が書かれたのは最末期とはいえ、まだソ連時代だったはずですので、この曲を歌うことはとても勇気のいることでしたでしょうし、また、この曲がスタジアム一杯に集まった若者達の心を魅了したという現実が、もはや「ソ連」という国の存続が不可能であることを何よりもはっきりと表していたと思います。

トップの写真は、イーゴリ・タリコフが1991年10月6日殺害されたサンクト・ペテルブルクのスタジアム「ユビレイヌィ」に設置された記念板です。写真の引用はこちらから。