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即席・超簡単!クマでもわかる・・・

面倒くさいことはきらい!そんなあなたでも大丈夫。
「・・・」を簡単に満喫する方法、教えます!!!

旧ロシア正教徒のロシア人

2011-06-07 | 番外編 ★ロシア以外★
夜行バスで国境を越え、ロシアからラトビアに入りました。
朝霧がとても幻想的。


ラトビアに入ると途端にヨーロッパの香りが強くなります。
田舎の風景、農家の様子・・・


そしてそうこうしている内に、気がついたらリトアニアに入っていました。
ラトビアものどかな雰囲気が漂っていましたが、それよりも更に一段とのどかな雰囲気。
人々もとても穏やかで優しいです。
早速、久しぶりに会った友だちに、川沿いにある地元の人々に大人気のレストラン「Belmontas」に連れて行ってもらいました。
古い水車が見所の、美しい大自然に囲まれたレストランで、最初に出迎えてくれたのは愉快な黒鳥たち。


川では子供たちが楽しそうに泳いでいました。
そしてそのちょっと横の方では、蝶のようなきれいなトンボがたくさん飛んでいました。


Belmontasの敷地内にはレストランが4つあるのですが、わたし達が選んだのは外で食べられるお店。
入り口にはリトアニア特有の木彫りの像「愉快な小悪魔」が設置されていました。
色々な顔の悪魔ちゃん達がいます。


こちらは、友人の娘さんのナースチャちゃん。
数学や化学が得意な、とても優秀で可愛い16歳です。


その子が食べているのが超お勧めリトアニアの絶品料理「冷たいボルシチ」です。
ロシアのボルシチよりもクリーミーで、ビーツがベースになっているところは同じなのですが、生のきゅうりとかが入っていてとても清涼感があり、とにかく2004年にはじめてリトアニアを訪れた時に食べてからというもの、「忘れられない味」、リトアニアに来たら毎日のように必ず食べるものになりました。
お芋と一緒に食べます。
ちなみにお芋はそのまま食べてもいいですし、スープにつけながら食べてもいいのだそうです。


トップの写真は友人のアリョーナさんと娘のナースチャちゃん。
リトアニアにはピョートル大帝の時代に宗教改革の煽りを受けて迫害され、国外に移住しなければならなくなった旧ロシア正教徒のロシア人が沢山住んでいます。こうした旧ロシア正教徒のロシア人は今でも大切にロシア語や文化、慣習、宗教、そしてロシア人としての誇りを守りながら、それと同時にリトアニアの中に上手に溶けこみ暮らしているのですが、友人のアリョーナさんもそうした純粋なロシア人の一人です。

その、アリョーナさんとナースチャちゃんの前にあるのが・・・「シャシリーク」の盛り合わせ。
シャシリークとは、炭火串焼き。中央アジアからコーカサス地方、そしてロシア、とにかく旧ソ連圏の国々では定番中の定番料理。要するにバーベキューのことなのですが、とにかく美味しい!!!
「冷たいボルシチスープ」の後は、炭火串焼きをどっさり食べて至福の一時を味わいました。


仕事で来ていることをきれいサッパリ忘れて存分に楽しんだ一日でした。

中央アジアのピラフ

2011-05-05 | 番外編 ★ロシア以外★
ウズベキスタンは食事が美味しくて有名です。
現在モスクワには旧ソ連圏の料理店が色々あるのですが、その中でも最も人気があるもののひとつが「ウズベク料理」。

その、「美味しい」と有名なウズベク料理の中でもサマルカンドの料理はとりわけ美味しくて有名。
サマルカンドの「プロフ(ピラフ)」。サマルカンドの「レピョーシカ(ナンみたいなパン)」・・・。ラム肉・・・(串焼き、煮込み等々)。


サマルカンドのレピョーシカは本当に有名で、「サマルカンドから帰ってくる時に買って帰ってきてもらえないか」とタジキスタンの友人たちからも頼まれたほどです。保存料などの添加物は入っていないのですが、保存にはとても長けていて、湿度の低い場所では2週間くらい平気でもちます。
ということで、モスクワにも勿論、持って帰りました。

(有名なサマルカンドのレピョーシカ。写真はこちらからの借用となります)

・・・合計8個の「レピョーシカ」を買って帰ったのですが、1個が何と1キロくらいするずっしりと重たいもの。帰り道もウズベキスタンからタジキスタンまで徒歩で国境を渡ったのですが、この8キロものサマルカンド・レピョーシカ達が実に大変でした。
リュックをしょい、両手にやたら存在感あるレピョーシカを抱えているその姿は、大きな風呂敷みたいなものを抱えている地元の人達とすっかり同化していました。

「プロフ」は他の中央アジアの国々、アゼルバイジャンなどにもあるのですが、どうやらルーツとなっているのはサマルカンドのプロフのようです。
アレクサンダー大王もサマルカンドでプロフを振舞われたという記録が残っているとか。
そしてサマルカンドには、インドからペルシアを経てプロフが入ってきたと言われています。

(写真はこちらからの借用となります。)

正式なプロフの食べ方は、インドのように「手で食べる」のだそうです。

美味しいチャイハナ

2011-05-04 | 番外編 ★ロシア以外★
長距離運転手さん達お気に入りの美味しいチャイハナが道中にあるというので、立ち寄りました。
そこで出会った近くの村の長老さん(真ん中)と学校の先生(右)。

(左側が運転手さんのネマートさん。普段は全然「偉そう」ではないのですが、どうやらカメラを向けると腰に手をあててしまうのが癖らしく、偉そうに写ってしまいます・・・。)

長老さんと学校の先生、目的地の村がちょうどわたし達の道の途中だったので、同乗させてあげることになりました。
そのお礼に、ものすごく美味しいペリメニ(水餃子)スープやサラダなどをご馳走になりました。

長老さん、貫禄あります!

ろば、ひつじ、ろば!

2011-05-03 | 番外編 ★ロシア以外★
タジキスタンからサマルカンドへ。
道中、たくさんの「ろば」さん達や「ひつじ」さん達を見かけました。


「ろば」さん達は、何と放し飼い状態。
自分たちで勝手に散歩しているのでびっくりしてネマートさんに聞いたら、「ろば」というのはとても頭が良くて、適当に散歩した後、ちゃんと自分たちで家に帰ってくるのだとか。


第二次世界大戦中は、山岳地帯での戦闘で、馬や人間が通れない険しい山道など、ろばが大活躍をしたのだそうです。ろばに荷物を乗せて放し、山越えをさせて荷物を届ける・・・。
黙々と働くろばさん達。
うーん!たまりません。
思わず連れて帰りたくなってしまいました。

ちなみにお腹がすいてきたのでしょうか、途中からぷりぷりした羊をみかけるたびに、ネマートさんの口から「あの羊は美味しいと思う」とリアルな発言が飛び出すようになりました。




サマルカンドへの道

2011-05-02 | 番外編 ★ロシア以外★
サマルカンドには2回行きました。
最初はタジキスタンの首都ドゥシャンベから車でタジキスタンとウズベキスタンの国境まで移動し、国境を徒歩で超えて、ウズベキスタン側でタクシーを拾って車でサマルカンド入り。
(2回目は、公演による訪問でしたのでモスクワからタシケントに入り、タシケントから列車でサマルカンドへ。)

なかなかハードな「国境超え」をした後、警戒しながら慎重にタクシー選び。
人の良さそうな運転手さん「ネマート」と交渉成立。
出発する前に「サマルカンドへは遠い道のりになるため、今、トランクに積んである小麦粉をすぐ近くにある自宅に届けてから出発させてもらえないか」と問われ、ネマートの家に立ち寄ることになりました。

路地に3頭の牛がのんびりと寝そべり、道路を完全にふさいでいたので写真を撮ろうとしたら、「あんな牛はきれいじゃない。写真を撮る必要ない。それよりうちの牛を撮ったらいい。とてもきれいな牛だよ。もうすぐ子どもが生まれるんだ。」と。

・・・ということで、サマルカンドへ向けて出発する前に立ち寄ったタクシーの運転手さんネマートのご自宅です。


手を腰にあててちょっと偉そうなポーズをとっているのがネマートさん。
隣は奥さん。
そしてネマートさんご自慢の「美しい牛さん」です。

ドゥシャンベからサマルカンドまでは約500キロの道のり。
国境を超えたり、途中で休憩など入れたりしたので、8時間くらいかかったでしょうか。
その内、ドゥシャンベから国境通過点までは70キロくらい。
国境を超えてウズベキスタン側に入った後は、延々400キロ強、トップの写真のような道を走り続けました。

神秘のオアシス都市

2011-05-01 | 番外編 ★ロシア以外★
好きな場所=色々あります。
その、数多くある「好きな場所」の内のひとつが、神秘的な青色のタイルが映えるウズベキスタンの古都サマルカンド。
サマルカンドは、紀元前10世紀からペルシア系のオアシス都市として栄え、14世紀末から15世紀にはティムール帝国の首都として繁栄しまた。

中でも一番のお気に入りが、シャーヒ・ズィンダ廟群。
この世にこんなにも幻想的で美しい所があるなんて!と感動した場所です。
幾世紀もの時代を飛び越え、アラビアンナイトの世界に紛れ込んでしまったかのような錯覚を覚えます。


シャーヒ・ズィンダとは、ペルシャ語で「生きている王」という意味だとか。
なぜその様に称されるようになったのかというと・・・次のような伝説があります。

預言者ムハンマドの従妹がイスラムを広めるためにサマルカンドにやってきました。
異教徒に襲われた時、その時できた亀裂(別の説では井戸)に身を隠して危険を逃れ、今でもそこで生き続けているとか。
だから「生きている王」なのだそうです。

2001年にユネスコの世界文化遺産に指定されています。



サイコセラピスト都市

2011-04-30 | 番外編 ★ロシア以外★
カウンセリング大国アメリカ。
てっきりニューヨークが「心理療法士(サイコセラピスト)」という職業の需要が最も多いのだと思っていましたが、それがどうやら違うらしいということを、最近知りました。

世界最大の「サイコセラピスト都市」は、アルゼンチンのブエノスアイレスなのだそうです。
ブエノスアイレスだけで6万人の心理療法士が営業しているとか。
前述の『女殺人者たち』のTVシリーズを観ていると、なるほど、と何となく納得してしまいます。

中南米の中でも、アルゼンチンは最もヨーロッパ的な国としてよく知られています。
ブエノスアイレスにいたっては、「南米のパリ」と呼ばれているとか。
ヨーロッパからの移民がものすごく多いのが特徴的です。
ロシア帝国からの移民も、(特に革命後)多かったそうです。

ちなみに、第一次世界大戦が始まるまで(即ち1914年まで)、ロシアからの移民の数は、4位。
3位はフランスからの移民。
そしてその二カ国を大きく引き離して断トツの1位と2位を誇っていたのが、スペインとイタリアからの移民。(その後、第二次世界大戦で敗れたナチスの残党がアルゼンチンに沢山逃れたことにより、ドイツからの移民の数もぐんと増えました)。

ロシア革命以降(1917年)は、数多くの「白系ロシア人」(かつての貴族、白軍の将校、裕福な商人など)がブエノスアイレスに移住しています。
そして現在は、約400万人(WIKIには「一説には700万人」とも書かれています)のロシアからの移民がいるそうです。その他にもウクライナ、ベラルーシからも沢山の移住者がいます。
400万人だとしても・・・アルゼンチンの総人口が4000万人ですから、相当な数です!

ちなみにユダヤ系は勿論のこと、日系や中国系の移民も沢山いるとか。
そしてブエノスアイレスの花屋さんは、大半が日系の人たちが経営しているという話しを聞いたことがあります。本当か嘘か、日系の花屋さんでないところは、「うさんくさい」と見られて人気がないのだそうです。

ブエノスアイレス・・・ものすごく憧れている街です。

「殺人を犯す女たち」

2011-04-29 | 番外編 ★ロシア以外★
たまたま見つけたニュースです。

今年の4月から来年の4月まで、つまり1年間ということなのでしょうが、期間限定で『殺人を犯す女たち』と題する蝋人形の展示会が、メキシコの首都メキシコ・シティ市の警察博物館で開催されるとか。
四世紀に渡るイタリア、米国、スペインなどの10名の歴史にその名を残した恐るべき「女殺人鬼」の蝋人形が展示されているようです。

実は、最近はまっているのが、『女殺人者たち』Mujeres Asesinasという本とドラマ。
アルゼンチンの女性ジャーナリストMarisa Grinsteinが、2000年に出版して一世を風靡しました。
アルゼンチンで実際にあった、女性が「殺人犯」となっている事件を集めたもの。

本が評判になり、その後、それを元にしたテレビシリーズがアルゼンチンで制作され放映されました。
更に、それがまたまた評判になり、メキシコ、コロンビア、エクアドル、イタリアで、それぞれのお国柄が色濃く反映されている同名のテレビシリーズが制作され、放映されているようです。

それにしても観たい!メキシコ・シティの警察博物館で展示されている『殺人を犯す女たち』。
そもそも、メキシコの警察博物館というのも・・・観てみたい!!!

ちなみに、『女殺人者たち』のドラマバージョンは・・・アルゼンチン・バージョンとメキシコ・バージョンしか観たことがないのですが・・・面白いくらい雰囲気など全く違うのが印象的です。
アルゼンチン、メキシコ、いずれも国を代表するような大型女優たちが「殺人者」の役をやっているようで、メキシコ版の「画像」など見ると、まるで日本のシャンプー「椿」のポスターのようなノリです。

(ポスターはこちらからの借用となります)

オフィシャルサイトからは、下記のようなデスクトップの画像もDLできます。


日本で同じようなことやったら、「殺人を美化し、煽っている」(ちなみに内容は殺人を美化しているようなものでは全然ありませんので!)といったようなことを言われて叩かれそう・・・、と思いながらラテンの美女達がずらりと並ぶ画像を眺めています。

オープニングの主題曲のところだけをとっても、いかにお国によって雰囲気が違うかがわかります。
YouTubeに、しっかりとアップされている「比較ビデオ」。
皆考えることは同じですね。
Mujeres Asesinas (Argentina,Mexico,Colombia) ENTRADAS

Moments (Instantes)

2011-04-18 | 番外編 ★ロシア以外★
スペイン語圏ではボルヘス作だと信じられている美しい詩があります。
『瞬時』 "Instantes" というもの。
85歳の人間が死を前に、人生をやり直すことができたら、と回帰している詩です。
この詩の冒頭が、とても有名です。
意味はこんな感じなのでしょうか・・・。

もし自分にもう一度人生を最初からやりなおすことができたなら、
次はもっと沢山の過ちを犯すようにするだろう。こんなにも完璧な人間になることを目指しはしないだろう。
もっと肩の力を抜いて生きるようにすだろう。今よりももっとバカでいるようにするだろう。
そんなに色々なことを真面目に受け止めたりしないようにするだろう。

Si pudiera vivir nuevamente mi vida. En la próxima
trataría de cometer más errores. No intentaría ser tan
perfecto, me relajaría más. Sería más tonto de lo que
he sido, de hecho tomaría muy pocas cosas con seriedad.

「ボルヘス作」とされているこの詩、本当はボルヘスが作ったものではないのだそうです。
Don Heroldというアメリカのユーモア作家が書いた散文が下敷きになっているとか、ケンタッキー州に住んでいるNadine Stair / Strainという女性が書いた詩をボルヘスが訳したとか色々な説があるようです。

ただ、あまりにもこの詩とボルヘスの名前がマッチしてしまったようで、ボルヘスが書いたスペイン語訳を、英語に翻訳しているスコットランドの学者兼詩人までいるほど。

何はともあれ、心に響きます・・・この言葉。
・・・もしもう一度最初から人生をやり直すことができたら、もっと沢山の過ちを犯すようにするだろう・・・

Away from here

2011-04-17 | 番外編 ★ロシア以外★
昔、授業で読まされたカフカの『旅立ち』"Der Aufbruch"からの一文を、最近よく思い出します。

「あなたは、これからどちらへ行こうとしているのですか?」
「それは分からない。ただとにかくここから別の場所へ。ここからは別の場所へ。常にここからは、別の場所へ。そうやってはじめて自分の目標に到達できるんだ。」とわたしは言った。
「それじゃ、あなたにはその目標とやらは、分かっているんですね?」と、彼は尋ねた。
「勿論。」とわたしは答えた。「既に言ったでしょ。ここから別の場所へ。それがわたしの目的なのです。」

"Wohin reitest du, Herr?", "Ich weiß es nicht", sagte ich, "nur weg von hier, nur weg von hier. Immerfort weg von hier, nur so kann ich mein Ziel erreichen." "Du kennst also dein Ziel?", fragte er.
"Ja", antwortete ich, "ich sagte es doch: 'Weg-von-hier', das ist mein Ziel."
- Franz Kafka "Der Aufbruch" -

キス/接吻

2011-04-12 | 番外編 ★ロシア以外★
まなざしで与える接吻・・・
記憶で与える接吻・・・
沈黙の接吻、高貴な接吻・・・
なぞめいた接吻、誠実な接吻・・・
魂でしか与えることのできない接吻・・・
禁じられた接吻、真実の接吻・・・

チリの女流詩人ガブリエラ・ミストラルの美しい詩『接吻』 "BESOS" を見つけ、ロシア語訳を探してみました。
ミストラルの訳詩そのものは結構あるのですが、『接吻』は、ない!
残念。

トップの写真は・・・キューバのハバナ市のホテルで撮影したもの。
一日ウロウロして、疲れて部屋に戻ったら、ベットのシーツでハート型の「白鳥の接吻」姿がセットされていました。
いっぺんに疲れが吹き飛んだ瞬間でした。

ハリウッドの看板

2010-05-07 | 番外編 ★ロシア以外★
魅惑の南国キューバから、仕事で一旦メキシコシティへ戻り、そして友人に会いに1泊のみロサンゼルスに立ち寄ってから、帰国しました。

ロサンゼルスは・・・「映画の世界」そのものでした。
数多くのロシアの友人から、熱狂したように憧れの街ロサンゼルスの話しを聞かされてきましたが、実際に訪れてみて、「なるほど」と納得。

ロシアの人々がある意味ニューヨーク以上にロサンゼルスに憧れを抱く気持ち、何となくわかります。きっと、そこにいるとあまりにも何もかもがロシアの現実とは違うため、完全に「非現実の世界」「夢の世界」にワープすることができるからなのでしょう。

ニューヨークには行ったことがないので判りませんが、ヨーロッパ諸国、それから、例えば今回訪れたメキシコシティやハバナにも、モスクワを彷彿させる「共通項」のようなものがありました。
そのつながっている「点」のようなものが、あくまでも現実の世界を感じさせるというか・・・。

ところがロサンゼルスには、そうした、ロシアやモスクワと共通項となるような「点」がまったく見当たりませんでした。
(きっとそこで暮らしはじめたらまた違うのでしょうが・・・)

とにかく、「夢の世界」「銀幕の中の世界」・・・ロシアを代表する作曲家の一人ラフマニノフも最晩年、美しいビバリーヒルズで生活しています。
そして、1943年、そのビバリーヒルズの自宅で亡くなったとのこと。

ラフマニノフは最後までロシアの白樺や鐘の音色を懐かしみ、故国への帰国を願ったということですが、「夢の世界」の中のようなビバリーヒルズにいたからこそ、最も純化された形で「白樺」の姿形や香り、そしてモスクワの街を覆う鐘の音色に思い出をはせることができたのだろうと思います。

よく判らないけど何だか妙に印象的な「像」。



映画やアメリカのテレビドラマでよく見る憧れの風景サンタ・モニカ。



わずか1日だけでしたがあちこち案内してくれた友人の力を借りて存分にロサンゼルスの香を満喫してきました。

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チェ・ゲバラとチェ・ブラーシカ

2010-05-06 | 番外編 ★ロシア以外★
・・・ということで、実際にキューバに行ってみて、キューバには革命の英雄「チェ・ゲバラ」や「フィデル・カストロ」以外にも、実に沢山の面白い像があることがわかったわけですが、勿論「チェ」や「カストロ」のイメージも街に沢山溢れていました。

ちょっとした街のお店。



そして小学校。(この手描き感が素敵です!)



ところでチェ・ゲバラは本名をエルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナというのだそうですが、挨拶をする時にアルゼンチンの方言で「やぁ」=「チェ」と使っていて、それがキューバの人々にうけて、そのまま愛称になったとか。

このチェ・ゲバラ・・・元々は医者なのですが革命家に転向し、ご存知のとおり現在は中南米の若者たちの憧れの英雄となっています。
確かにその写真を見ていると、格好いいと言うか(少なくともレーニンよりは絵になります)・・・オートバイで中南米を周ったり、というその行動派的なところも、「ロマン」を感じさせます。

またロシアではチェ・ゲバラをもじった「チェ・ブラーシカ」のTシャツが人気です。


(写真はこちらから)

そして何とウクライナの都市ドニェツクにはチェ・ゲバラをもじった「チェ・ブラーシカ」の彫像があるとか。
2007年に設置されているようです。


(写真はこちらから)

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フェデリコ・ガルシア・ロルカ劇場

2010-05-05 | 番外編 ★ロシア以外★
キューバといえば、トップの写真のように、クラシックなアメリカ車やソ連車が街を飾る、映画のワンシーンに入り込んでしまったかのような情景が有名です。
また、「ソン」や「サルサ」に代表されるキューバ音楽、「葉巻」、「ラム酒」、『老人と海』を書いたアメリカの作家「ヘミングヴェイ」なども有名です。

更に一度見たら忘れられない美しい海岸沿い「マレコン通り」や、世界史で習った1492年のコロンブスによるアメリカ大陸「発見」が、実質キューバ島から始まったことなども知られています。

どこにカメラを向けても絵になる、実に「写真写りの良い」街ハバナ。
特に、歴史地区(旧市街)の中心にあるスペイン・バロック様式の、目を見張るような豪華絢爛な建物は、とても印象的です。

中でも目を惹くのは、旧国会議事堂の近くにあるロルカ劇場。これは19世紀に建てられた優美な建造物です。



「フェデリコ・ガルシア・ロルカ」というのは、20世紀初頭に活躍したスペインを代表する詩人・劇作家。

1929年、ロルカは渡米し、ニューヨークで1年ほど生活をしています。
その時のことを書いたのが、暗い不協和音に満ちたシュールレアリズム的な詩集『ニューヨークの詩人』。

死者やグロテスクな昆虫や、底無しの空虚感と、現実との境が曖昧な悪夢に満ちたその詩集の中で、一瞬スパっと閃光が光ったかのような印象を与える詩編があります。
それは「キューバの黒人たちのソン」という詩です。
ハバナにある「イスパノ・キューバ文化協会」の招きで、講演のためにロルカがキューバを訪れた時に書かれた詩です。

「キューバの黒人たちのソン」
Son de negros en Cuba - (鼓直訳)

満月になったらキューバのサンチャゴへ行こう 
サンチャゴへ行こう
黒い水の馬車を駆って
サンチャゴへ行こう
椰子の天井が歌うだろう
サンチャゴへ行こう
梡櫚(かんろ)がこうのとりになりたがるころ
サンチャゴへ行こう
バナナがくらげになりたがるころ
サンチャゴへ行こう
サンチャゴへ行こう
ファンセーカの金髪の頭を抱いて
サンチャゴへ行こう
ロメオとジュリエットの薔薇を抱えて
サンチャゴへ行こう
紙の海と銀貨
サンチャゴへ行こう
おおキューバ!おお乾いた種のリズム!
サンチャゴへ行こう
おお熱い腰と木のしずく!
サンチャゴへ行こう
生の丸太のハーブ カイマン タバコの花
サンチャゴへ行こう
ぼくは言ってきた サンチャゴへ行くと
黒い水の馬車を駆って
サンチャゴへ行こう
車輪のそよ風とアルコール
サンチャゴへ行こう
闇のなかのぼくの珊瑚
サンチャゴへ行こう
砂に溺れた海
サンチャゴへ行こう
白い暑さ 死んだ果物
サンチャゴへ行こう
おお砂糖きび種の牛の涼しさ!
おおキューバ!おお吐息と泥のカーブ!
サンチャゴへ行こう

キューバには、ロルカの故郷「アンダルシア」の香が漂っており、それが彼の心を高揚させ、この詩を書かせました。

ロルカ劇場を彩る渦を巻くような曲線の装飾、強烈な太陽の光、そしてその光が作る暗い影とのコントラストと、のびのびと葉をのばしたヤシの木を見た時、まるで砂漠の中で水を求める人のように「サンチャゴへ行こう」と詩ったロルカの詩を思い出しました。



ちなみに「サンチャゴ」というのは、キューバの第二の都市サンティアーゴ・デ・クーバのことです。

スペインの有名な歌手Ana Belén がこの詩を歌っている動画がYouTubeにあります。
リンクはこちらです。
(雰囲気がとても判りやすいので、お勧めです)

原詩:
SON DE NEGROS EN CUBA

Cuando llegue la luna llena
iré a Santiago de Cuba,
iré a Santiago,
en un coche de agua negra.
Iré a Santiago.
Cantarán los techos de palmera.
Iré a Santiago.
Cuando la palma quiere ser cigüefla,
iré a Santiago.
Y cuando quiere ser medusa el plátano,
iré a Santiago.
Iré a Santiago
con la rubia cabeza de Fonseca.
Iré a Santiago.
Y con la rosa de Romeo y Julieta
iré a Santiago.
¡Oh Cuba! ¡Oh ritmo de semillas secas!
Iré a Santiago.
¡Oh cintura caliente y gota de madera!
Iré a Santiago.
¡Arpa de troncos vivos, caimán, flor de tabaco!
Iré a Santiago.
Siempre he dicho que yo iría a Santiago
en un coche de agua negra.
Iré a Santiago.
Brisa y alcohol en las ruedas,
iré a Santiago.
Mi coral en la tiniebla,
iré a Santiago.
El mar ahogado en la arena,
iré a Santiago,
calor blanco, fruta muerta,
iré a Santiago.
¡Oh bovino frescor de calaveras!
¡Oh Cuba! ¡Oh curva de suspiro y barro!
Iré a Santiago.

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支倉常長の記念像

2010-05-04 | 番外編 ★ロシア以外★
南国・カリブ海の美しい国=キューバの続きです。

昨日も書きましたように、ハバナに行く前はほとんど「チェ・ゲバラやフィデル・カストロの像しかないのではないか」と勝手に思い込んでいました。(誤った先入観とは、本当に恐ろしいものですね)。

しかし実際に行ってみると、まるで自分が想像していたものとは違う世界がそこにあり、本当に驚きと感動の連続でした。

そうした「驚きと感動」のひとつ・・・ハバナ市の美しい海岸沿いの公園に設置された、日本のお侍さんの記念像。


(写真はこちらから)

このお侍さんは、支倉常長という江戸時代初期の人で、伊達政宗の家臣でした。
支倉常長は遣欧使節として通商交渉を目的に、180人相当を連れてスペイン、ローマへと向かいます。
1615年にスペイン国王フェリペ3世や、ローマ法王のパウルス5世に会いますが、交渉自体はうまくいかず、1620年に帰国します。

ところが日本へ帰国した時は完全な「浦島太郎状態」で、日本はすでにキリスト教の禁教令が出されておりました。
こうして、支倉常長さんは失意の内に亡くなったとのこと。

また、ハバナの歴史地区と中心街の境目あたりにある教会の中にも、何と、ステンドグラスにイエズス会の宣教師を囲んで日本の人々が描かれているのを見つけて、大変感動しました。



よく見なければ判らないのですが、上記のステンドグラスに描かれているひざまずいている男女(立っている人々もそうですが)は、着物姿で・・・男性はちょんまげ頭。女性も日本髪を結っています。
いまどきのロシアや西欧で時々見かける「日本だか中国だかよく判らない微妙な図」ではなく、間違いなく、「日本人」を描いていることがはっきりと判る正確な描写です。



残念ながらこの教会の名称は記録し忘れてしまったのですが、確かCalzada de Infanta通りと、Salvador Allende通りが交差している辺りにあったと思いますので、興味のある方は機会がありましたら是非立ち寄られることをお勧めします。

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