マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

持統天皇は実在するか?

2008-07-15 09:31:21 | 古代史

昨日の絡みで、持統天皇は実在するのかを少し検討してみよう。ただし、私個人の考えはまだ固まっていない。あくまで実在するか否かの論点をおさらいすると言う事だ。

新唐書という中国の史書があり、そこに書かれている倭伝が日本書紀と合わないのだ。

 「永徽初(650年)、その王の孝德が即位、改元して白雉という。・・略・・・ 幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。・・・・・略・・・・・天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。・・・・・略・・・・・咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。・・・・・またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。・・・・・・・長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して太宝という、文武が死に、子の阿用が立った。死に、子の聖武が立ち、改元して白亀という。」

孝徳<子の天豊財<子の天智<子の天武<子の総持ー文武<阿用<子の聖武 

の順序で皇位が移っている。天智の子が天武となっているほか、総持の死がなく、文武が立つと書いてある。ここはおかしい。それと、中国においても女帝と言うのは例外的で、必ず女、または娘と記述するはずである。

日本の歴史書による皇位順をみると、

孝徳<斎明<天智<天武<持統<文武<元明<元正<聖武  となっている。

おそらくは遣唐使が持参した当時の日本紀と、現在知られている日本書紀ではこの間の歴史が相当書き直されていると言う証拠ではないだろうか。元明、元正はどうも捏造臭い。

天智と天武が親子だとは誰も思わないだろう。親より子供のほうが年上と言う事は聞いた事がない。鹿島昇氏は天武を新羅の文武王、持統を高市、実は新羅皇子である金霜林で、文武天皇は来日した新羅皇子、金良琳ではないかと述べている。

鹿島氏は、天武までは日本の歴史ではないと言い切る。九州へ上陸した新羅王は大宰府を制圧し難波へ拠点を移し、藤原宮を制圧したのだと言う。卓見であろう。

従って、日本の歴史が実在の歴史になるのは平城京からとなる。

では、それ以前の奈良地方の実態は、と言うと、高句麗王朝だったのではないか。その王朝の記録は完全に抹殺され、地名や名前は書き換えられ聖徳太子、物部氏、蘇我氏の歴史がよそから移譲されたと見る。

この期間の歴史捏造が日本書紀の最大の目的であり、我々にとって最大のヤマ場になる。現時点で私は正確な答えを持ち合わせていないので参考までにしたい。

いずれは明確な答えを出せたらと思ってます。