マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

偽書と真書とは

2009-03-03 10:00:55 | 古代史

先日ある方に、山形氏の「邪馬台国論争終結宣言」を紹介したら、中国各史書の良いとこ取りではないか、mayoさんの偽書の基準を教えて欲しい、とメールが来ました。

とても重要なことなので、一言言わせていただきます。

基本的に100%正しい本はないと言うのが私の前提です。逆に100%ウソの本もない。太田龍氏、副島氏、ベンジャミン氏・・などの主張も同様で、いくつかの誤り、ウソ、ガセを含んでいる可能性があるが、そこには真実や真実に近い重要な証言が入っている。だから、絶対に無視してはならないのです。ひとつの間違いを指摘し、あたかもすべてがウソだと決め付けるのは、本当の事を隠したい側の策謀と見るべきです。

中国の史書は、征服した人間が前王朝の歴史を編纂する。これがまず一番基本になる。だから、前王朝が亡びたのは天命で、我々が征服したのは天の意思である、という事をまずはっきりさせねばならない。したがって、政権末期に起きた出来事について、額面どおり解釈することは無理がある。和議を結ぶことを、相手が朝貢してきたと言い換えたり、娘を人質に送るのを、相手が婚姻を結ばせてくれと懇願した・・・などの言い換えはごく常識的なことだ。日本が大陸へ侵略するのを、進出するに書き直したようなものだ。しかし、そこへ軍隊が侵入したことは歴史的な事実であり、真実と認めねばならない。

王様同士が会談し、おとなしく国を譲ることにした、と言うのは建て前であり、現実は争いがあったと解釈するのは常識であろう。

私はどんな本でも100%信じることはしない。私の訳したシーグレイブ氏の著書も同様に、彼の置かれた立場で書かれた事を知って読まなければ、とても大きな誤解をまねくことになる。まず、彼は私から見れば英国諜報部寄りの人物で、反ジョンバーチ協会の立場である。マッカーサーやマッカーシーなどの反共産主義とは対立する立場なのだ。そのことを知った上で本を読めば、かなり重要な情報を手にいれることが出来る。彼の本の中でいくつかの誤りを指摘し、偽書であると決め付けるのは間違っている。南京虐殺やナチスのホロコースト、そして日本軍の従軍慰安婦の扱い方を知れば、彼の立場がわかろうというものだ。しかし、フィリッピンで日本軍が行なった行動はかなり真実に近いと解釈している。英国の情報部はアメリカが、そして日本軍がアジアで何をしてきたのかすべて知っているのだ。もちろん、英国がすべてのシナリオを書いた事は言わないが・・・。

それにしても、未だにGoldwarriorsの日本語版が出版されないのは、未だに日本人には知らせてはいけない内容がそこにあるのだろう。(あたりまえだ)

日本書紀でも古事記でも、朝鮮の史書でも同様で、どのような意図で編纂されたかを知らなければまったく偽書にしかならないし、それを正史と考え、馬鹿正直に解釈するのは自殺行為であろう。

中国の史書も信用できない点が多いのは確かだが、ウソをつく必要のないところ、ウソをついてもばれてしまうところなどがある。同じことを史書により書き方が違うところが研究の対象であり、一貫して同じ記述であれば正しいかと言えばそれはもっと怪しい。

少々くどくなってきた。私の基準は簡単です、私が疑っている出来事を定説として引用する人は信用しません。例えば、邪馬台国が九州にあり、卑弥呼がそこにいたという前提で歴史を組み立てたとするなら、その人の歴史に真実はありえません。もちろん、私からすればですが・・・。

天武と天智が兄弟で、額田姫を奪い合ったなどという小説を、歴史的な事実と考えるような歴史家は素人でしょう。歴史の空白を空想とロマンで埋めるのは小説の世界であり、それはそれで楽しいでしょうが、歴史ではありません。司馬遼太郎が罪作りなのは、あまりにも文章が上手で、かつ国民が望んでいる歴史をあたかも歴史的事実のように描いたことです。

藤原不比等の出自を疑わずに日本の歴史を描くことはあってはならないことだし、聖徳太子が隋に国書を送ったというのも私は信じない。

私は自分が正しいと信じ、こうしてブログを書いているが、結果的にウソになることはあると思う。それは避けがたいことだし、そうでなくては何も書けない。だからこそ、こうしてブログに公開し、皆さんの意見を求めている。みんなで真実を見つけようと言うのがこのページの趣旨であり、私が一方通行で意見を発表するならコメントなどいらないでしょう。

ということで、「私の偽書の基準はない!」でした。(ひどい結論ですね。)


30 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
例えば広開土王碑は高句麗が倭を撃退したkとを記し... (caster51)
2009-03-03 11:33:29
例えば広開土王碑は高句麗が倭を撃退したkとを記しています。倭が海を渡り百済、新羅を君民にした。このことは歴史的に正しいと言うことになりますね。
個人的には私は日本書紀、古事記を信用しません参考にする程度です。
その中で朝鮮半島、中国の文献と同じような記述があれば信頼できるかもと思います。
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聖徳太子の件は中国の文献だと思います。文献には... (caster51)
2009-03-03 11:40:53
聖徳太子の件は中国の文献だと思います。文献にはその後、帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿(注:3)にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」とあります。
史書から見るとそれらに合致しないように思えます

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casterさん、私は逆に、同じように書かれているほ... (マヨ)
2009-03-03 13:02:14
casterさん、私は逆に、同じように書かれているほうが怪しいと思います。石碑はあまりにも重く、移動できなかったからそこにあります。息子が作ったので多少内容は割り引いて考えるべきですが、日本から集安まで攻め入ると言うのは無理でしょうね。しかし、倭人はそこまで攻め入っているのです。私はその当時、倭国は遼東半島にあったと思っています。
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caster51さん、こんにちは。隋書には後宮には5... (マヨ)
2009-03-03 13:13:58
caster51さん、こんにちは。隋書には後宮には500人の女がおり、さらに太子の名前も出ている。つまり、聖徳太子のことではない。これはどちらかがウソである。しかし、隋がウソをつく理由はどこにもない。これは韓半島にあった安羅国を倭国と解釈したように思う。もちろん想像でしかないが、当時、隋は高句麗遠征で手一杯であり、高句麗征伐のためには隣接する倭国と盟約を結びたがっていた。そこで、隋王は腹を立てていたが、使者を倭国へ派遣している。日本へまで使者を送るゆとりはないと思う。私の考えでは、聖徳太子は大宰府の日本にいて、南朝へ使者を送ったが、後に記録を改竄し、隋に直したのではないか。当時、法隆寺は大宰府にあった。
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聖徳太子のそれは隋書に書かれています。中国の書... (caster51)
2009-03-03 13:57:10
聖徳太子のそれは隋書に書かれています。中国の書をどうやって書き直すのですか?
しかし海を渡ってと書いてあります。

また隋書には倭の使者が仏法を習いの来たとか刺青などを考慮すると
遼東半島というのもおかしいと思います。

伽耶と考えるのなら納得できます
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そしてその当時の朝鮮の文献を考慮しても疑問が残... (caster51)
2009-03-03 14:02:38
そしてその当時の朝鮮の文献を考慮しても疑問が残ります。

質の件は朝鮮の文献にも数多く見かけられます。この件については信頼できる物と思われます。
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同感です。 (まゆみ)
2009-03-03 14:10:27
同感です。


私もブログでも詩でもよく言ってるのは、この三次元の世界では100%はないということです。それは本でも同じです。情報は鍛錬だとも繰り返し言ってます。人に依存しないで眠っているチカラをハタラキを取り戻し、個々で踏ん張ることですね。仮に人びとを間違った方向へ導くための本、情報であっても、100%嘘は書かれてないということです。100%嘘だと人は興味を示しません。そういうことも含めて権力者のやり方は上手い。
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caster51さん、あくまで隋書はアメノタラシヒコで... (マヨ)
2009-03-03 16:30:53
caster51さん、あくまで隋書はアメノタラシヒコですよ、聖徳太子とは書いていません。又、太子の名は利歌彌多弗利となっています。日本の学者が勝手に聖徳太子といっているのです。伽耶ならというのはありえますね。
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まゆみさん、こんにちは。情報というのはサムライ... (マヨ)
2009-03-03 16:33:09
まゆみさん、こんにちは。情報というのはサムライさんの言うように、行間を読むという事が大事ですね。上手に利用したいものです。
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マヨさん、失礼しましたm(__)m ()
2009-03-03 17:06:25
マヨさん、失礼しましたm(__)m
>法隆寺は大宰府にあった。
『猿田彦と秦氏の謎』という本には、『隋書』<倭国伝>に「・・・又、竹斯国に至り、又、東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ(後略)」
因みに、秦王国があった筑前の、白鳳時代に建立された寺跡から出土した遺構や瓦など多くが、奈良の法隆寺様式であることが確認されているという。
太子が「秦河勝」の影響を大きく受けていたことから、法隆寺様式とは”秦氏様式”で秦河勝をはじめとする秦氏一族によって大和の法隆寺建立の地に持ち込まれたのではないかと。。。
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