日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神の決定的な語りかけ

2019-10-22 | Weblog
            

神はかつて予言者たちを通して、折に触れ、様々な仕方で先祖たちに語られたが、この終わりの時には、神子を通して私たちに語られた(聖書協会共同訳ヘブライ1章1節)

1 ヘブル人への手紙は、手紙の形式として冒頭に挨拶の言葉がなく、いきなり主題に対する序文がきます。著者と宛先がわかりませんが、ヘブライ人という題名は後から付けられたものです。それは手紙の内容がユダヤ人キリスト者であろうと言うことからでした。著者はパウロ説がありますが、手紙の背景から見て妥当ではありません。バルナバ説やアポロ説などもあります。
2 この序文はヨハネ福音書に匹敵するようなものです。誰に宛て書かれたか明確ではありませんが、背景としてキリスト共同体に危機が迫っていることが伺われます。その困難に対応するもので、説教をまとめて書き送ったものだと考えられます。年代的には紀元80~90年頃に書かれ、現在残されている最古の説教と言うことができます。
3 著者は、まず神の語りかけに注目させます。1~2節に「神はかつて預言者たちによって、多くの形で、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」。ここに旧約聖書と新約聖書とが対応しています。神は旧約時代を通じて、預言や夢、幻、自然、奇跡など様々な方法で語りかけられましたが、しかし「この終わりの時代」、すなわち新約時代には、御子イエス・キリストを通して語りかけられました。それはもはや何の媒介もなく直接語りかけるものであり、また多くの機会や方法によらず、御子イエスの言葉と生涯による決定的な語りかけでした。誕生(受肉)、宣教活動、受難、そして昇天に至る御子キリストと言葉は、私たちへ決定的な神のメッセージなのです。「終わりの時代」とありますが、これは終末last dayでギリシャ語はエスカト―という言葉です。終末論はここから展開されるものです。従ってわたし達は終末の時代を生きているのです。
4 続いて著者は、v2「御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」とある通り、この御子がいかなる地位を占める方であるかをすべての空間と時間にわたる宇宙的なスケールで描きだそうとしています。そしてv3「神の本質の完全な現れであった」としています。御子こそ神の輝きを伝える唯一の方であり、神の本質の真の姿なのです。口語訳「神の本質の真の姿」で、「真の姿」the representation of the realityをNEVは、the express image of the personと訳しています。ギリシャ語)は「彫刻する」 engrave)いう言葉と共通語で、印鑑と印影がまったく一致しているように、御子は神の姿をあますところなく映し出しているということです。Characterの語源になりますが、NTでは唯一回の使用です。それは父なる神との一体性を言い表しているのです。「彼は人間性において神の印章を押されたものであり、蝋に刻むように宇宙に刻まれた神のサインである」(John W Bowman)。
5 そしてこのように神と等しい方である御子がv3「人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」とあり通り、神の救いという大事業を成し遂げてくださったのです。「人々の罪を清められた」は、Ch2:14~17「悪魔を御自分の死によって滅ぼし…民の罪を償うために」と記されます。続いてv5「いったい神は、かつて天使のだれに『あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ』といわれ」とある様に、この御子が御使にまさる方であることを明らかにします。この個所の引用は詩2編7からです。NTでは多く引用される聖句で5:5、Act4:25、Rev2:37当時の人びとは、御使を神の世界に属する霊的存在として崇拝していました。そしてイエスも御使の一人だと考える人びとがいたようです。これは由々しき問題でした。そこで御子が御使をはるかに越える方であることを、旧約聖書を引用しながら明らかにしているのです。v5b=ⅡSam7:14、v6=Deu32:43、v7=Psa104:4、v8-9=Psa45:7~8、v10-11=Psa102:26-28、v13=Psa110:1 v14「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕える」存在とされています。つまり御使はわたし達に仕える者であり、その意味で私たちより下だと言い切っているのです。これは御使を天界の存在として崇拝していた人びとにとっては驚くべき言葉だったことです。
6 なぜ本書は、御子キリストの卓越した存在をこれほどまで強調するのでしょうか。それは迫害と葛藤にさらされていたキリスト者に、御子キリストの救いの確かさを示し、励ますためです。ローマ皇帝ネロが口一マの大火(AD64年)をキリスト者のせいにしたため、大迫害が起こりましたが、本書の読者はこの危機を乗り越えてきました(10:32~33)。しかしその後も、自らを「主にして神」と呼ばせた皇帝ドミティアヌス(在位81~96年)のもとで、キリスト者は反社会的だとレッテルを貼られ、いいしれない偏見や迫害にさらされました。激しい迫害の延々と続く中で、弱り果て(12:3)、集会をやめるものがおり(10:25)、神から離れ去る危険にさらされたのです(3:12)。
7 そこで著者は、2:1「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」と勧めたのです。「押し流される」は、本来「漂流する」という意味です。そこで私たちは聞かされた救いの言葉にしっかりと錨をおろさなければなりません。御子を通して語られた救いこそ、神ご自身と使徒たちが証ししている通り、どんな嵐の日にあっても永遠の救いをもたらす港だからです。
8 終わりにわたし達人間の持つ視覚と聴覚について述べたい。わたしが前にいました教会に、視覚障害の方や聴覚の障害の方がいました。その方々との交わりで、わたしは多くのことを教えられ学んだのです。特に視覚と聴覚の不自由でした栂 月恵姉、大田さわの姉がおられました。しかし体は不自由でも心の目と耳はハッキリしていました。福音書に只1回耳の不自由な人を主イエスが癒された個所があります。Mk7:31~34 主は「エッファタ」(開け)と言われて聞こえるようにされました。わたし達も耳を開いて頂き、御声を聞く者にしていただきたいと願います。説教題に「決定的に聞く」と付けましたが、それは主イエスご自身が神の言となられ、この方以外にもやは神は語られないということです。それはどこまでも聖書を開き、聖書から聞くことです。その理解はイエスの光です。「66巻の聖書」という著書がありますが、66巻それぞれにキリストが示されている意味です。聖書全体は、キリストにより神の言葉を聞くことが出来る訳です。