【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)本状原文には六ヶ所不明文字があります
が、この記事では意味が通るように記述しま
した。
16織田信長朱印状 天正三年五月廿一日
<本文>
尚、この書状の内容については(持参する
塙)九郎左衛門尉(直政)が(口頭でもご説
明)申し上げるであろう。
こちらの(三河長篠)方面の様子を一つ前
の書状(前日の二十日付)でお伝えした。本
日早朝に手分けして数刻一戦に及び、敵を残
さず討ち捕った。生け捕りも多数あるので、こ
れから(各人の)呼び名を確かめ首注文を進
めるところである。兼ねてよりお伝えしてい
たことと結局相違ない首尾であった。いよい
よ天下安全の基(礎)が固められた。
なお、(昨日付けの書状でも申し上げたが)
そちらの方面で(藤孝殿が)鉄炮放ちについて
申し付けを行われたのは祝着(至極)である。
多少の隙ができたので(本書状を)差し上
げる次第である。(いつか貴殿と)対面の上
で色々とお話ししたい(と考えている)。謹言
天正三年五月廿一日 信長(朱印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正三年=1575年
**純野のつぶやき**
天正三年(1575年)の前回の書状(五月廿
日)の次の日付の書状です。信長公の居場所は、
五月十六日:牛久保に宿泊
五月十七日:野田原に野陣を張る
五月十八日:極楽寺山へ移動
五月二十日:高松山へ移動
五月二十一日:馬防ぎの柵から全く前に出るこ
となく鉄砲隊で敵を撃ち崩しました。敵は壊滅
的打撃を受け勝頼のもとへ集まり、鳳来寺方面
へ逃走し、信長の軍は逃げ崩れる敵に追い討ち
をかけ、一万ほど討ち取ったとされています。前
日の手紙本文には「五月十八日に鉄炮を放つ!」
と書いてありますので、家康方酒井忠次の別動
隊による長篠城の後詰作戦がうまくいかず、信
長軍主力部隊の鉄炮放ち作戦が三日遅れてしま
ったようです。その後五月二十五日に信長公
は三河経営の指示を下し、岐阜への帰途につき
ます。
二日連続で長岡藤孝に書状を送るとは、信長
公も“超マメ”ですね。明らかに“コミュニケーショ
ン・ツール大好き人間”です!信長公が現代に
生きてワープしてきたら、メールとかラインとかを
見て「そうそう、これこれ!」といって喜ぶかも知
れませんね・・
以上
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細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)本状原文には六ヶ所不明文字があります
が、この記事では意味が通るように記述しま
した。
16織田信長朱印状 天正三年五月廿一日
<本文>
尚、この書状の内容については(持参する
塙)九郎左衛門尉(直政)が(口頭でもご説
明)申し上げるであろう。
こちらの(三河長篠)方面の様子を一つ前
の書状(前日の二十日付)でお伝えした。本
日早朝に手分けして数刻一戦に及び、敵を残
さず討ち捕った。生け捕りも多数あるので、こ
れから(各人の)呼び名を確かめ首注文を進
めるところである。兼ねてよりお伝えしてい
たことと結局相違ない首尾であった。いよい
よ天下安全の基(礎)が固められた。
なお、(昨日付けの書状でも申し上げたが)
そちらの方面で(藤孝殿が)鉄炮放ちについて
申し付けを行われたのは祝着(至極)である。
多少の隙ができたので(本書状を)差し上
げる次第である。(いつか貴殿と)対面の上
で色々とお話ししたい(と考えている)。謹言
天正三年五月廿一日 信長(朱印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正三年=1575年
**純野のつぶやき**
天正三年(1575年)の前回の書状(五月廿
日)の次の日付の書状です。信長公の居場所は、
五月十六日:牛久保に宿泊
五月十七日:野田原に野陣を張る
五月十八日:極楽寺山へ移動
五月二十日:高松山へ移動
五月二十一日:馬防ぎの柵から全く前に出るこ
となく鉄砲隊で敵を撃ち崩しました。敵は壊滅
的打撃を受け勝頼のもとへ集まり、鳳来寺方面
へ逃走し、信長の軍は逃げ崩れる敵に追い討ち
をかけ、一万ほど討ち取ったとされています。前
日の手紙本文には「五月十八日に鉄炮を放つ!」
と書いてありますので、家康方酒井忠次の別動
隊による長篠城の後詰作戦がうまくいかず、信
長軍主力部隊の鉄炮放ち作戦が三日遅れてしま
ったようです。その後五月二十五日に信長公
は三河経営の指示を下し、岐阜への帰途につき
ます。
二日連続で長岡藤孝に書状を送るとは、信長
公も“超マメ”ですね。明らかに“コミュニケーショ
ン・ツール大好き人間”です!信長公が現代に
生きてワープしてきたら、メールとかラインとかを
見て「そうそう、これこれ!」といって喜ぶかも知
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