『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:16織田信長朱印状 天正三年五月廿一日

2018-03-27 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)本状原文には六ヶ所不明文字があります

が、この記事では意味が通るように記述しま

した。


16織田信長朱印状 天正三年五月廿一日

<本文>

 尚、この書状の内容については(持参する

塙)九郎左衛門尉(直政)が(口頭でもご説

明)申し上げるであろう。

 こちらの(三河長篠)方面の様子を一つ前

の書状(前日の二十日付)でお伝えした。本

日早朝に手分けして数刻一戦に及び、敵を残

さず討ち捕った。生け捕りも多数あるので、こ

れから(各人の)呼び名を確かめ首注文を進

めるところである。兼ねてよりお伝えしてい

たことと結局相違ない首尾であった。いよい

よ天下安全の基(礎)が固められた。

 なお、(昨日付けの書状でも申し上げたが)

そちらの方面で(藤孝殿が)鉄炮放ちについて

申し付けを行われたのは祝着(至極)である。

 多少の隙ができたので(本書状を)差し上

げる次第である。(いつか貴殿と)対面の上

で色々とお話ししたい(と考えている)。謹言

 天正三年五月廿一日 信長(朱印)

 長岡兵部太輔(藤孝)殿

 ※天正三年=1575年


**純野のつぶやき**

天正三年(1575年)の前回の書状(五月廿

日)の次の日付の書状です。信長公の居場所は、

五月十六日:牛久保に宿泊

五月十七日:野田原に野陣を張る

五月十八日:極楽寺山へ移動

五月二十日:高松山へ移動

五月二十一日:馬防ぎの柵から全く前に出るこ

となく鉄砲隊で敵を撃ち崩しました。敵は壊滅

的打撃を受け勝頼のもとへ集まり、鳳来寺方面

へ逃走し、信長の軍は逃げ崩れる敵に追い討ち

をかけ、一万ほど討ち取ったとされています。前

日の手紙本文には「五月十八日に鉄炮を放つ!」

と書いてありますので、家康方酒井忠次の別動

隊による長篠城の後詰作戦がうまくいかず、信

長軍主力部隊の鉄炮放ち作戦が三日遅れてしま

ったようです。その後五月二十五日に信長公

は三河経営の指示を下し、岐阜への帰途につき

ます。

 二日連続で長岡藤孝に書状を送るとは、信長

公も“超マメ”ですね。明らかに“コミュニケーショ

ン・ツール大好き人間”です!信長公が現代に

生きてワープしてきたら、メールとかラインとかを

見て「そうそう、これこれ!」といって喜ぶかも知

れませんね・・                                                        

以上


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