『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:三好氏

2016-12-18 17:44:44 | 戦国名家の系譜
【三好氏の歴史】

*阿波国を本拠とする戦国大名。小笠原氏

 の一族が阿波国三好郡に移り、三好姓を

 称したとされるが未祥。

*応仁の乱の時、式部少輔・之長父子は、

 阿波国守護細川成之に従い、細川勝元

 方(東軍)として戦った。

*永正四年(1507)之長は細川澄元を擁立し、

 摂津守護代として、弱体化した室町幕府の

 政権奪取をもくろんだが、同十七年(1520)

 細川高国に敗れて殺害される。

*大永七年(1527)之長の孫元長は高国を

 滅ぼし、澄元の子晴元を管領の地位に置き、

 自身は山城守護代として京の実権を握った。

 しかし、天文元年(1532)に晴元と木沢

 長政によって討たれた。

*元長の子長慶は、摂津守護代として晴元

 の支配下にあったが、同十八年(1538)

 晴元を追放し、高国の一族氏綱を管領に

 立て、幕政の主導権を握る。しかし、家臣

 の松永久秀に徐々に実権を奪われ、嫡子

 義興の死とういう不運の中、養子義継を

 むかえた後永禄七年(1564)没する。

*長慶死後は、その養子義継・三好三人衆

 (三好長逸・三好政康・岩成友通)・松永

 久秀が融合・分離を繰り返し、畿内は

 混乱状態に陥るが、同十一年(1568)信長

 の義昭上洛戦の中で青竜寺城の岩成は降参。

 三好長逸は芥川城から退散する。

*義継は河内半国守護となったが、将軍義昭

 に応じて信長に背いた為、天正元年(1573)

 河内若江城で滅ぼされた。


 ※一度は天下が手に届くところまで上り

  詰めたのに、判断を誤り信長でなく義昭

  についてしまい滅びてしまう・・諸行無常

  でございます。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 御(ぎょ) | トップ | 玉澗(ぎょくかん) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

戦国名家の系譜」カテゴリの最新記事