『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

因縁と先例27【日本一の兵(つわもの)は?】

2014-09-29 17:53:13 | 因縁と先例
「日本の武士の中で誰が一番強いか?」を考えると結構

楽しいですが、信長公記や源平盛衰記の中では軍の時に

勇ましい名乗りを上げる武士が数多く出てきます。


*道家兄弟の「天下一の勇士」の旗

 信長公記巻三の記事です。越前朝倉攻めの時、尾張守山の

 道家清十郎・助十郎兄弟が参戦しました。ある年武田信玄が

 美濃高野口に出働したとき、森三左衛門・肥田玄番の先駆け

 として首三つを取ってきて信長公のお褒めにあずかり、彼ら

 が持っていた白い旗に信長自ら「天下一の勇士」と書いて

 授けたという名誉ある兄弟です。今回の軍でもその旗を掲げて

 森三左衛門とともに奮戦し、討ち死にしました。


*能登守教経は「精兵の手きき」

 源平盛衰記巻三十三の水島の軍の段で、「能登守教経は精兵

 の手ききなりければ一として空矢なし」と、揺れる船のうえ

 でも矢を間違いなく射れる手だれとして表現されています。


*今井四郎兼平は「日本一の剛の者」と号して自害

 源平盛衰記巻三十五で「日本一の剛の者が主のお供をして

 自害するのを見よ、東八箇国の殿原!」と号し、太刀の

 切っ先を咥えて馬から真っ逆さまに落ち、今井四郎兼平は

 壮絶な最期を遂げます。


*熊谷次郎直実・小次郎直家の親子は「日本第一の剛の者」

 源平盛衰記巻三十七で熊谷次郎直実・小次郎直家の親子が

 一の谷の大手木戸口に攻め込むとき、「日本第一の剛の者」

 と号して攻め込みます。あまりのすさまじさに、敵が寄って

 こなかったそうです。


時代が下ると、真田幸村が「日本一の兵(つわもの)」ですね。

誰が本当の日本一なんでしょう?

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