『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

木下祐久(きのしたすけひさ)

2016-11-17 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
木下祐久(きのしたすけひさ)

〔現代かなづかい〕きのしたすけひさ

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


助左衛門・杉原定利。信長の将。秀吉の

北政所「禰」の父。

1573年朝倉氏滅亡後、越前北庄にあって

明智光秀らとともに国内の平定にあたる。


1580年4月信長は北国の柴田勝家の長陣を

    心もとなく思い、木下祐久・魚住隼人

    の二人を様子を見に行かせる。二人が

    戻り能登・加賀が平定された様子を伝える

    と、信長は喜び服・帷子をくだす。勝家

    のほうからも信長の使いということで馬が

    下された。

1582年6月の本能寺の変後は秀吉につかえ、

1583年賤ヶ岳の戦いに従軍した。1584年の

長久手の戦いでは羽柴秀次に属して出陣、

4月に討ち死にした。



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