【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記し
た文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記
・島田秀満→嶋田秀満
などはなるべく原文のままとしました。
02織田信長朱印状(元亀四年二月廿六日)
<封書墨書き>
「細■兵部大■殿 信長」
<本文>
(三日前に黒印状をお送りしたが)それでも
朱印状が必要であるとの由当方も承知した。
ただいま内藤(?)かたへ折り紙(入り書状)
を送ったところである。さてもさても、なん
という不慮の事態であろうか、今般(の諸事
情を)公義が熟慮して天下再興となることは
可能なのだろうか?(藤孝殿に置かれては)
すべてのことにご油断無きよう、また(世情
の)趣が変わる場合もあるだろうから追って
承知できるようにして頂きたい。
(今般の藤孝殿とのやり取りにより)京都の
情勢そのほかがよくわかり、(信長としては)
満足である。今度(松井)友閑・嶋田(秀満
=秀順)を遣わし種々(公義に)ご説明をし、
(公義からの)仰せ下しに対し(またまた)
全てお請けしたところである。そうしたところ、
(公義の)奉公衆の中に聞き分けの無い者
がおり「質物を持ってこい」と申してきた。
奉公衆の中に貴方の名が書きつけてあった。
(奉公衆たちが)どのような意図で申して
いるのかこの一件では判然としないが、
(藤孝殿にあっては公義の)上意に従って
おいていただきたい。
(公義の仰せということで)背くこともでき
ないので(信長も)了承はしたが、(こういっ
たことになったのは)信長の不届きによる
ものではないと思っている。この(混乱の)
間隙をぬって意図しない形でも上洛する
ことになれば、存分に差配する用意がある。
そちら(藤孝殿の方)でも二つとない覚悟
を持って引き続き等閑(なおざり)でない
魂を入れた(京都の世情の)観察をお願い
したい。荒木(村重)・池田(勝正)そのほか
の武将について、いずれも信長方に疎略で
ないよう、(藤孝殿の)機知を用いて一味に
取り込むことが肝要である、恐々謹言、
元亀四年二月廿六日 信長(朱印)
※元亀四年=1573年
**純野のつぶやき**
三日前の二月二十三日に黒印状を送った
ばかりなのに、諸般の事情により二月二十
六日に朱印状を送ることになったようです。
それにしても、岐阜から京都までは124㎞
くらいあり、どんなに優れた早馬でも三日
で往復するのは「無理じゃないかな・・」と
いう気がします。前回記事01の中で「佐和
山まで出迎え」という記述がありましたが、
岐阜から佐和山まで56㎞で丁度岐阜から
京都の中間点となりますので、この点を考慮
して「最速の情報伝達を実現するため佐和山
を情報中継センターに設定した!」という
ことであれば、信長と細川藤孝の「情報伝達
の速さに命がけ!」という気合がひしひし
と伝わってくる気がします。ひとつ気になる
のは、「黒印状ではだめで朱印状がほしい」
旨は細川藤孝側から信長側に書状で送られた
はずですが、残っていないのかな・・安土城
炎上で全部焼滅してしまいましたか・・まあ
とにかく、「足利将軍の御落胤」の噂を否定
しない細川藤孝を信頼・重宝し「公義(足利
義昭)への対応はすべて藤孝殿と打ち合わせ
て決める」という信長公の慎重な基本姿勢は
変わっていないようです。
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2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記し
た文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記
・島田秀満→嶋田秀満
などはなるべく原文のままとしました。
02織田信長朱印状(元亀四年二月廿六日)
<封書墨書き>
「細■兵部大■殿 信長」
<本文>
(三日前に黒印状をお送りしたが)それでも
朱印状が必要であるとの由当方も承知した。
ただいま内藤(?)かたへ折り紙(入り書状)
を送ったところである。さてもさても、なん
という不慮の事態であろうか、今般(の諸事
情を)公義が熟慮して天下再興となることは
可能なのだろうか?(藤孝殿に置かれては)
すべてのことにご油断無きよう、また(世情
の)趣が変わる場合もあるだろうから追って
承知できるようにして頂きたい。
(今般の藤孝殿とのやり取りにより)京都の
情勢そのほかがよくわかり、(信長としては)
満足である。今度(松井)友閑・嶋田(秀満
=秀順)を遣わし種々(公義に)ご説明をし、
(公義からの)仰せ下しに対し(またまた)
全てお請けしたところである。そうしたところ、
(公義の)奉公衆の中に聞き分けの無い者
がおり「質物を持ってこい」と申してきた。
奉公衆の中に貴方の名が書きつけてあった。
(奉公衆たちが)どのような意図で申して
いるのかこの一件では判然としないが、
(藤孝殿にあっては公義の)上意に従って
おいていただきたい。
(公義の仰せということで)背くこともでき
ないので(信長も)了承はしたが、(こういっ
たことになったのは)信長の不届きによる
ものではないと思っている。この(混乱の)
間隙をぬって意図しない形でも上洛する
ことになれば、存分に差配する用意がある。
そちら(藤孝殿の方)でも二つとない覚悟
を持って引き続き等閑(なおざり)でない
魂を入れた(京都の世情の)観察をお願い
したい。荒木(村重)・池田(勝正)そのほか
の武将について、いずれも信長方に疎略で
ないよう、(藤孝殿の)機知を用いて一味に
取り込むことが肝要である、恐々謹言、
元亀四年二月廿六日 信長(朱印)
※元亀四年=1573年
**純野のつぶやき**
三日前の二月二十三日に黒印状を送った
ばかりなのに、諸般の事情により二月二十
六日に朱印状を送ることになったようです。
それにしても、岐阜から京都までは124㎞
くらいあり、どんなに優れた早馬でも三日
で往復するのは「無理じゃないかな・・」と
いう気がします。前回記事01の中で「佐和
山まで出迎え」という記述がありましたが、
岐阜から佐和山まで56㎞で丁度岐阜から
京都の中間点となりますので、この点を考慮
して「最速の情報伝達を実現するため佐和山
を情報中継センターに設定した!」という
ことであれば、信長と細川藤孝の「情報伝達
の速さに命がけ!」という気合がひしひし
と伝わってくる気がします。ひとつ気になる
のは、「黒印状ではだめで朱印状がほしい」
旨は細川藤孝側から信長側に書状で送られた
はずですが、残っていないのかな・・安土城
炎上で全部焼滅してしまいましたか・・まあ
とにかく、「足利将軍の御落胤」の噂を否定
しない細川藤孝を信頼・重宝し「公義(足利
義昭)への対応はすべて藤孝殿と打ち合わせ
て決める」という信長公の慎重な基本姿勢は
変わっていないようです。
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