『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:02織田信長朱印状(元亀四年二月廿六日)

2017-01-22 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

 細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

 し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

 通じない可能性のある部分に純野が追記し

 た文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記

 ・島田秀満→嶋田秀満

 などはなるべく原文のままとしました。


02織田信長朱印状(元亀四年二月廿六日)

<封書墨書き>

「細■兵部大■殿 信長」

<本文>

(三日前に黒印状をお送りしたが)それでも

朱印状が必要であるとの由当方も承知した。

ただいま内藤(?)かたへ折り紙(入り書状)

を送ったところである。さてもさても、なん

という不慮の事態であろうか、今般(の諸事

情を)公義が熟慮して天下再興となることは

可能なのだろうか?(藤孝殿に置かれては)

すべてのことにご油断無きよう、また(世情

の)趣が変わる場合もあるだろうから追って

承知できるようにして頂きたい。


(今般の藤孝殿とのやり取りにより)京都の

情勢そのほかがよくわかり、(信長としては)

満足である。今度(松井)友閑・嶋田(秀満

=秀順)を遣わし種々(公義に)ご説明をし、

(公義からの)仰せ下しに対し(またまた)

全てお請けしたところである。そうしたところ、

(公義の)奉公衆の中に聞き分けの無い者

がおり「質物を持ってこい」と申してきた。

奉公衆の中に貴方の名が書きつけてあった。

(奉公衆たちが)どのような意図で申して

いるのかこの一件では判然としないが、

(藤孝殿にあっては公義の)上意に従って

おいていただきたい。


(公義の仰せということで)背くこともでき

ないので(信長も)了承はしたが、(こういっ

たことになったのは)信長の不届きによる

ものではないと思っている。この(混乱の)

間隙をぬって意図しない形でも上洛する

ことになれば、存分に差配する用意がある。

そちら(藤孝殿の方)でも二つとない覚悟

を持って引き続き等閑(なおざり)でない

魂を入れた(京都の世情の)観察をお願い

したい。荒木(村重)・池田(勝正)そのほか

の武将について、いずれも信長方に疎略で

ないよう、(藤孝殿の)機知を用いて一味に

取り込むことが肝要である、恐々謹言、

 元亀四年二月廿六日 信長(朱印)
 
 ※元亀四年=1573年


**純野のつぶやき**

三日前の二月二十三日に黒印状を送った

ばかりなのに、諸般の事情により二月二十

六日に朱印状を送ることになったようです。

それにしても、岐阜から京都までは124㎞

くらいあり、どんなに優れた早馬でも三日

で往復するのは「無理じゃないかな・・」と

いう気がします。前回記事01の中で「佐和

山まで出迎え」という記述がありましたが、

岐阜から佐和山まで56㎞で丁度岐阜から

京都の中間点となりますので、この点を考慮

して「最速の情報伝達を実現するため佐和山

を情報中継センターに設定した!」という

ことであれば、信長と細川藤孝の「情報伝達

の速さに命がけ!」という気合がひしひし

と伝わってくる気がします。
ひとつ気になる

のは、「黒印状ではだめで朱印状がほしい」

旨は細川藤孝側から信長側に書状で送られた

はずですが、残っていないのかな・・安土城

炎上で全部焼滅してしまいましたか・・まあ

とにかく、「足利将軍の御落胤」の噂を否定

しない細川藤孝を信頼・重宝し「公義(足利

義昭)への対応はすべて藤孝殿と打ち合わせ

て決める」という信長公の慎重な基本姿勢は

変わっていないようです。



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