УРАЧКА!!

雑文・駄文なお気楽日記です。よろしゅーに。

しろばんば

2012-04-21 17:55:39 | 日記


本日の昼に、渋谷から静岡に帰ってきました。
約1日ちょいで、渋谷区の全神社を制覇しました(ただし、地図に載ってる範囲の神社ですが)
山手線で言うと、新宿から恵比寿の外周辺にあたるくらいの地域です。
ほとんど徒歩だけど、私鉄やバスも使いまして、渋谷のコミュニティバス、ハチ公バスにも乗りました~!!
コミュニティバスは、通常の民間営業バスよりももっと公共色の強いバスで、利用者とお役所、私企業あるいは第三セクターが三者で運営、という感じの形態が多いのですが。
普通のバスよりも、わりと小型の車体を使っているので小回りが効くので、より住宅街の中=主に高齢者の利用者が使いやすいように工夫されているケースが多いです。
地元静岡にもあるんですが、実はまだ乗った事はない(笑)
なんでも、フランスだかドイツから取り寄せた車体だか、と聞いたような気がするが・・・
で、ハチ公バス写真も撮ったんですが、ついうっかりデーターを忘れてきてしまって^_^;
(今、出先なんです~)また、後日乗せます。
渋谷=ハチ公(?)だけあって、あちこちハチ公キャラが使われているシーンが多かったですね。
で、静岡駅に帰ってきてから、そのまんま直に病院に行って、入院中の千波を引き取って来ました。
大分、痛みは落ち着いたみたいなんだけど、内服薬を飲ませるとゲリピーになってしまって、でもって、千波君はまだ今シーズンはカットに行ってなくて、使用前(爆)状態=ロン毛、なので、お尻の毛とかが汚れまくって大変だったそうです・・・すみませんm(_)m
痛み止めと整腸剤も処方されて参りました。
でも、自宅についたあたりから、また抱き上げると痛がる~T^T

でもって、東京へ行ってる間に「しろばんば」読破しました。



先日行った、天城湯ヶ島が舞台で、作者・井上靖の自伝的小説、という事でしたが、
あー、位置関係がよく判るっ!!と思ったりして。
主人公たちが通った公衆温泉や、お墓、神社、「あー、あそこあそこ!!」って判るし、また、沼津とか豊橋に時折出かけたりするんだけど、その位置関係も身をもってわかるというか(爆)
時代は大正後半あたりだったけど、まだその頃は馬車だったりとかね~。
天城神社も、女生徒達がお掃除していたりとかちょいと出てくるけど、狛犬には触れられてないのが残~念(爆)
その当時から、狛犬は↑の狛犬だったハズだけど。
でもまぁ、当時から見れば「神社」=「天城神社」であり、狛犬もその狛犬であって、狛犬と言えばその狛犬で、他から見て、いかにその狛犬がヘンで貴重(褒めてるんですが)かっていうのも知りようがなかったんでしょうねぇ。
で、本編の方は、とても読みやすくくて、情景、風景とか登場人物たちの姿が目の前にすぐ浮かび上がってくるような感じです。
文章がすごく凝ってるとか、美しい、とかじゃなくて「判りやすい」んですね~。
これは、単純、っていうのとはまた違う。
特徴を捉えて、いかにそれを他人に文章化して伝えるか?という事に関して長けている文章、という感じです。
小説なので、読んでるとどうしても途中で中断して、という事になってしまうのですが、途中で止めてまた、読み直そうとして本のページをパラパラめくってみて、ページの最初の文章のほんの一行の冒頭を流すだけで、「あ、ここは読んだ、もう知ってる」「あ、ここはまだ読んでない、もうちょっと前か~」って、すぐ判る、というくらい、単純なようで変化があるんですよね~。
主人公自身の一番変化がある時期、小学校にあがるあたりから中学入試あたりまでの話だからっていうのもあるけど、主人公の外面的な変化、背が伸びたとか、そういう外面上の変化はあまり描かれていない、というか主人公の一人称的な性格の強い文章なので、あまり本人は気づいていない、他人・第三者から「あれ、ちょっと見ない間に背が伸びたわね~」みたいに言われて、「え?そう??」と、そこで初めて気づいた、という感じなんです。
しかし、本人の内面的な変化、物や他人、自分に対する見方の変化、それが生き生きと自然に表現されていて、それが「変化」となって文章に出てくるので「どこまで読んだ」っていうのも実に判りやすいんです。
井上靖氏は、こういった、小説=登場人物の創造、っていうよりも、身近な人物の観察力、推測力に優れていたんだろうな~と思います。
わりと、女性の登場人物も多いんだけど、よくありがちな「マドンナ」的な女性でも、その裏表っていうか、それは主人公の見方の変化とか、場での違いもあるんだけど、いつでもどこでも「理想の女性」というわけじゃなくて、ある時は「憎らしい」感じであったり「なんでそんな事!!」という時もあり、ある一瞬で「胸キュン(爆)」状態だったりと、その描写も立体的なんですね~。
作者は、そういった観察力もスゴイけど、記憶力もスゴいなぁ~と思いました。
年齢があがる、成長と共に微妙に変化していく、同じ人やモノを見てもその見え方、感じ方が変わる、そういった変化をよく覚えてるなぁ~と、感心しました。
で、もうじき、その井上靖氏を描いた映画、「わが母の記」

『わが母の記』予告編


が、公開されるという事で。
この「しろばんば」読む前は、「幼い頃に『母に捨てられた』と思っていた主人公が、年老いて痴呆症になりつつあるらし母に向き合って・・・」という話で、かわいそうな少年時代を送った少年が、母を許す映画かな?と思ってましたが・・・
いや~、「かわいそう」でもなかったねぇ、という感じに変わりました(爆)
井上靖氏は、家の事情で、実の両親や妹たちとは離れて、曽祖父の妾であったおばあさんに育てられるという、今からの視点で見れば「かわいそう」な子・・・とも取れるんだけど、このおばあさん、おぬい婆さんは、本当に作者の事を愛してたんだもんねぇ。
子供が成長する時期に、「母親」は必要ですが、でもそれは、DNAを半分受け継いだ「母」でなくても、「愛し保護して受け入れて受け止めてくれる」という母的な存在がいればそれでいいんですよね~。
かえって、実の母じゃないからダメ、子供がかわいそう、っていう先入観が強すぎると、昨今よくある「悲劇」につながりかねない、というわけで。
で、おぬい婆さんは、母以上に母だった、というか盲目的じゃないけど、主人公の常に味方であったわけで、その点では理想的な「母」でもあったわけで、主人公はその面では不幸でもかわいそうでもなかったわけだ。
何故、母が息子を育てなかったか?っていうと、当時ならではの現在とはちょっと違う社会情勢とか、大人の思惑とかがあるわけなんですがね~。
今回の映画、おぬい婆さんが「無理やり母から息子を奪って自分のために利用した」みたいな、まぁ、そういう捕らえ方も出来るけど、単に悪役に描かれてないといいなぁ~と、思っております。ハイ。
で、地元の駅ビルで現在、この映画の宣伝に力を入れてるらしく、登場人物やら年表やらが出ていて、フムフムと読んでたら、「あー、これって『しろばんば』の後日談みたい!!」と思ったりして、まぁ、実際まさにそうなんですが。
しろばんばの方は、入試準備のために伊豆の天城湯ヶ島から主人公が引っ越すところで終わってますが、その先・・・が、この年表を見れば判るわけでして。
ほぉぉ~、入試の結果はこうだったんだね~、とかとかと、単に作家井上靖氏の年表ではなく、「しろばんば」の主人公、洪作のその後の人生を知る、という感じで眺めてしまいました。
映画の方も、出来たら見てみたいものです。
コメント
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