龍神村に生まれて

僕は和歌山県龍神村に生まれ、13歳まで龍神村で育った。大人になって、龍神村について何も知らないことに気がついた。

グラウンド

2008-09-22 02:02:46 | Weblog
福井小学校のグラウンドには大きなイチョウの樹があった。
龍神に帰るたびにそのイチョウは今でもあるのか確認しようと思いつつ、つい忘れてしまう。
このイチョウは1935年に植えられたらしい。
今も元気にあるようだ。

当時、グラウンドはかなり広く感じたが、今見ると意外と狭いし、校舎も意外と小さい。

このグランドでは野球をしたなぁ。
当時の遊びといえば、山の中で遊ぶ、川で遊ぶ、野球をするしかなかったもん。

学校が終わると、なんとなくみんな集まって野球をするんだ。
小学校の頃、学校の道路の反対側にチップ工場というのがあった。
そこの高い壁があり、グランドからうったボールが道路を越えてチップ工場の塀を越えたらホームラン。

ボールは軟式テニスボール。
バットはやや細めの木の棒をけづって作った。

当時は箕島高校が強く、野球では盛り上がったものです。
島本講平? 島本こうへいが箕島高校で甲子園に出場した頃。
暑い日に田辺にあった“切荘”にでかけ、車のラジオで甲子園野球放送を聞いている場面を思い出す。

とにかく毎日のように野球をしていた。
小学校も高学年になってくると、野球の軟式ボールになった。
グローブを買った。
そのグローブの形、色もしっかり覚えている。

当時、授業ではサッカーをやったことはあったが、サッカーをやる人はいなかった。 


グラウンドでは、おかあちゃんと競争したことを思い出す。
お母ちゃんの妹の由紀ねぇも一緒にいたと思う。
由紀ねぇは40歳で亡くなった。
お母ちゃんもまもなく45歳で亡くなった。
二人とも家系的に心臓が悪かった。

たった一回だったと思うが、おかあちゃんと走った。
お母ちゃんはおとなしい人だったが、時々面白いことをして笑わせてくれた。

風呂から出て、タオル一枚でお尻を振って踊ったことがあった。

グランドを走ったときも、“よし、一発競争するか!”という感じのことを急にいいだし、履物を脱いで走り出したように思う。
面白かった。


こう昔の思い出を書いていると、次々といろんな場面や建物や人が現れてくるもんだ。

この記事を書くまでは、次回は日高川か山での遊びについて書こうかなと思っていたが、急に“チップ工場”という言葉が思い出されたので、次回はチップ工場のことを書こう。

工場の詳しいことではなく、転校生のことを思い出したのだ。


1979年 福井小学校



待っとれよ! 龍神村!

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